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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第7話 若君、まぎれて歩く

若君が目立たぬ姿で城下へ出たいと言い出した時、老臣はしばらく何も言わなかった。


怒る前に呆れた時、人はかえって静かになるものらしい。老臣は義重の前で腕を組み、じっと若君の顔を見つめ、それから深く長い息を吐いた。


「若君」


「何だ」


「ひとつ、お聞きしてもよろしいか」


「聞け」


「なぜ、若君はご自分が“まぎれられる”とお思いに?」


義重は当然のように答えた。


「小袖を替えればよい」


「それだけでございますか」


「それだけだ」


老臣は額を押さえた。


「まこと、若君は時に世の理をまっすぐ折りに来られますな」


「まぎれればよいだけだろう」


「その“よいだけ”に、どれほどの苦労が詰まっておるか……」


義重は少しむっとした。


確かに、完全に別人になれるなどとは思っていない。だが、いつものように若君然とした装いで供をぞろぞろ連れて歩くのと、地味な小袖に着替え、近習の子らに混じって歩くのとでは、見えるものが違うはずだ。それくらいは義重にも分かる。


「おまえも、まるきり駄目とは思っていない顔だ」


老臣の眉が動く。


「……若君は本当に、見てほしくないところばかりよく見ておられる」


「できるのか」


「できぬとは申しませぬ。だが、若君は若君にございます」


「それは知っている」


「知っていてなお申されるから困るのでございます」


結局、老臣は折れた。いや、折れたというより、若君が一人で勝手に抜け出すよりは、監視の目が届く形で行かせた方がまだましだと判断したのだろう。


「条件がございます」


「何だ」


「供は近習の子を二人。いずれも口の堅い者に限る」


「よい」


「若君は決して一人で走らぬ」


「走らぬ」


「怪しい者を見つけても、すぐに詰め寄らぬ」


「すぐには、な」


「“すぐには”がつく時点で信用が半分減ります」


義重は知らぬ顔をした。


ほどなくして、義重はいつもの装いを改めた。


華美なものではない、地味な小袖。帯も目立たぬもの。髪も整えすぎず、遠目には少し身なりのよい商家の子か、家臣の身内くらいに見えるよう整える。とはいえ、顔立ちと立ち姿まで変わるわけではない。義重自身もそこは分かっている。


後ろでは近習の少年たちがひそひそやっていた。


「これで本当にまぎれますかね」

「半分くらいは」

「半分も?」

「いや、三分かもしれん」

「若君に聞かれたら叱られるぞ」

「もう遅い」


義重は振り返った。


「聞こえている」


二人はそろって背筋を伸ばした。


「も、申し訳ございませぬ」


「三分とは何だ」


片方の少年が恐る恐る答える。


「ま、まぎれる割合にございます」


「少ないな」


「若君は目つきが若君なのでございます」


「意味が分からぬ」


「分かる者には一目で分かります」


「おまえはさっきから、そればかりだな」


もう一人の少年が慌てて割って入る。


「ですが! いつもよりはずっと目立ちませぬ! いつもに比べれば!」


「比べる相手がおかしいのだ」


「それは……その……はい」


老臣が後ろから咳払いした。


「よろしい。若君、あまり口を開きすぎぬよう。言葉が整いすぎると、それだけで育ちがばれます」


「子どもが喋れば大差ないだろう」


「若君はご自分の喋りが子どもらしいと本気で?」


義重は黙った。近習の少年たちが揃って目を逸らしたので、どうやら自覚は持った方がよいらしい。


そうして一行は、昨日よりさらに軽い格好で城下へ下りた。


朝の空気はまだ冷たいが、日差しは少しずつ春のものになっている。坂を下りるにつれ、城下の音が上がってくる。荷車の軋み、売り声、鍛冶の槌音、桶に水を汲む音。昨日も聞いたはずの音なのに、今日は少し違って聞こえた。


若君として歩いている時と、供の子に混じるように歩いている時とでは、人の声の落ち方が違うのだ。


昨日は義重の姿を見た途端、会話が止まる場面がいくつもあった。今日はそれが、少し遅れる。完全には止まらぬ。だから、その半歩のあいだに本音がこぼれる。


市を外れたあたり、縄や薪を扱う露店のそばで、二人の男が話していた。


「近ごろ境目の道が荒れてしょうがねえ」

「荷が遅れるだけで済めばいいがな」

「済むわきゃねえよ。道が荒れりゃ、まず値が上がる」

「そのしわ寄せはこっちだ」


義重は歩く速度を少しだけ落とした。近習の少年がそれに気づき、慌てて自然な顔を作る。


男たちはこちらをちらりと見たが、若君だとは思わなかったらしい。そのまま続ける。


「武家は戦ばかりだが、困るのはこっちだ」

「それでも佐竹が崩れりゃ、もっと酷くなる」

「そりゃそうだ」

「どこが勝つ負けるって話じゃねえんだよ。落ち着いて通れる道があるかどうかだ」

「飯が届くかどうかだな」


義重の胸の内で、その言葉が少し重く落ちた。


どこが勝つ負けるという話ではない。

落ち着いて通れる道があるかどうか。

飯が届くかどうか。


評定の間では聞こえぬ言葉だった。あそこでは家の面目、国境の動き、内通の有無、兵の差配が話される。もちろんどれも大事だ。だが城下の者にとっては、それらは結局「道が通れるか」「飯が高くなるか」に変わる。


義重はそれを、頭ではなく腹の近くで理解し始めていた。


少し先では、布売りの女が客と話している。


「この頃は旅の者も妙なのが増えたよ」

「旅の者って?」

「商人みたいでもないし、かといって武家とも違う。値を聞くでもなく、通りばかり見てる」

「見張ってるみたいなもんかい」

「口に出すと縁起でもないけどね」


女はそこで、義重たちの方へ目をやった。義重はすぐに視線を外し、あくまで何でもない風を装って通り過ぎる。近習の少年が小声で囁く。


「若君、今のは聞きましたか」


「聞いた」


「顔に出ております」


「出していない」


「出ております」


「おまえはさっきからうるさい」


「若君が黙っておられる時ほど、こちらは何かやらかしそうで怖いのでございます」


義重はふと立ち止まり、露店の端に積まれた薪を見た。話を聞いていたと思われぬよう、何かを見ているふりをするためだ。だが、薪の束ひとつとっても城下の暮らしが見える。乾き具合、長さ、束ね方。山から下りてくる薪がなければ、台所の火も絶える。


「若君」


「今は若君と呼ぶな」


少年がぎくりとした。


「し、失礼いたしました」


「目立つ」


「たしかに!」


もう一人の少年が慌てて肘で小突く。


「声がでかい!」


「おまえもだ!」


義重は思わずため息をついた。


「なぜおまえたちは、隠れている時ほど目立つ」


「若……いや、その……」

「我らも慣れておりませぬので……」


「俺も慣れていない」


「ですが若……あなたさまは、慣れていないなりに顔が平然としておられます」


「平然としていない」


「少なくとも我らよりは」


義重は答えなかった。たしかに、供の少年たちの方がよほど挙動不審だ。これでは隠れているのか晒しているのか分からない。だが、そういう不器用さが妙に人目を逸らすこともあるのかもしれなかった。周囲の者は「どこかの家の子がぎこちなくお使いでもしているのだろう」と見るだけで、まさかその真ん中に佐竹の若君がいるとは思わぬ。


市の中心から少し離れたところで、木桶を売る男たちの話が耳に入った。


「佐竹さまも大変なんだろうがな」

「大変で済まれちゃ困る」

「そりゃそうだ」

「守るならきっちり守ってもらわねえと、こっちは値踏みするしかねえ」

「値踏み?」

「当たり前だろ。どこの家が一番ましに治めるかって話だ」

「口に出すなよ」

「出しゃしねえよ。でも皆、腹の中じゃ見てる」


義重は足が少しだけ止まりそうになった。


見ている。

値踏みしている。


その言葉は、思っていたより鋭く胸へ入った。


義重はこれまで、城下の者たちを「守るべきもの」として見ていた。間違ってはいないのだろう。だが、それだけでは足りないらしい。彼らは守られるだけの存在ではない。こちらを見てもいる。佐竹がどれほど持つか、どれほど頼れるか、どれほどましなのかを、暮らしの目で測っている。


忠義だけでもない。

反感だけでもない。

もっと生活に近い、乾いた見方だ。


それは義重にとって少なからぬ衝撃だった。


自分たちは家であり、城であり、旗だ。

だが城下の者にとっては、それ以前に「道を守れるか」「値を乱さないか」「無駄に焼かせないか」を見られている。


義重はそれを、嫌だとは思わなかった。むしろ当たり前だとも思う。自分が市井の者でもそう見るだろう。けれど、実際に耳へ入ると重みが違う。


近習の少年が様子をうかがうように言った。


「……顔色が」


「何でもない」


「何でもない顔ではございませぬ」


「おまえは本当に、余計なところばかり見ているな」


「若……あなたさまに言われたくはございませぬ」


それを聞いて、義重は少しだけ目を見開いた。


近習の少年自身も言ってから青ざめている。どうやら勢いで口を滑らせたらしい。


「今のは」


「も、申し訳ございませぬ!」


「……少し面白い」


少年たちはそろってぽかんとした。


「お、怒られませぬか」


「なぜ怒る」


「いや、その、普段ならもう少し鋭い目で見られるかと」


「鋭い目とは何だ」


「若君の目です」


「だから今は若君と呼ぶな」


「そうでした!」


またしてもひそひそが騒がしくなり、義重は呆れた。だが、そのやり取りのおかげで、胸の内の重さがほんの少し和らいだのも事実だった。


城下を歩くうちに、義重は昨日よりさらに奥へ入っていた。市の顔だけでなく、少し外れた路地、荷置き場、川へ抜ける道、茶屋の並ぶ町外れ。人が多すぎず、だからこそ口が滑りやすい場所だ。


町外れの茶屋は、街道へ出る者や荷を運ぶ者が一息入れる場所らしく、粗末だが人の出入りは多い。煎じた茶の匂いと、土間にこびりついた煙の匂いが混じっている。義重は茶屋の前を通り過ぎるふりをして、中の様子を横目で見た。


そこに、一人の男がいた。


粗末な笠を脇へ置き、顔を半ば伏せて茶を飲んでいる。着ているものは旅の者に見えぬでもない。だが義重の目は、その男の肩の線と首の傾け方に引っかかった。


似ている。


失踪した者に。


顔ははっきり見えない。距離もある。だが、背格好、座り方、肩の丸め方がどこか覚えのあるものに見えた。評定で名が出、鞘の主ともされたあの男。もちろん、見間違いの可能性はいくらでもある。だが、義重の中で何かがぴんと張った。


歩みがほんのわずかに止まる。


近習の少年がそれに気づく。


「どうし――」


義重は素早く手で制した。


「静かに」


少年たちの顔色が変わる。


老臣はいない。今回は目立たぬよう、本当に近習の子らとだけで来ていた。だからこそ、この場の判断は義重自身がしなければならない。


茶屋の中の男は、まだこちらに気づいていないように見えた。


だが、もし本当にあの失踪者なら。

あるいは、そう見せたい別人なら。

どちらにしても、この場で軽々しく動けば取り逃がす。


義重は息を整え、茶屋の前の荷車の陰へ自然に身を寄せた。


「……あの男だ」


少年たちがそっと覗く。


「誰でございます」

「しっ、声が」


義重は茶屋の中の背中を見つめたまま、低く言った。


「失踪した者に似ている」


その一言で、二人の少年の顔から血の気が引いた。


町外れの茶屋で、消えたはずの男に似た背中が茶を飲んでいる。


風が土を撫で、茶屋の暖簾がわずかに揺れた。

城の中で燃え始めた不穏は、いまや城下の端で、確かな形を取り始めていた。

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