第6話 火は、城の内にある
夜のうちに届いた文は、朝になっても薄まらなかった。
灯りの下で見た時も不気味だったが、朝の光で見ればなおさら性質が悪い。夜の闇に紛れて脅すならまだ分かる。だが、あの紙片に書かれていた一行は、ただ人を怯えさせるためだけの文には見えなかった。
境だけを見るな。火は中にある。
それは警告なのか。
それとも攪乱か。
あるいは両方か。
義重はその紙片を、朝から何度も見返していた。
字は荒くはない。むしろ、必要以上に感情を出さぬ書き方だ。脅し文ならもっと勢いに任せた乱れがあってもよさそうなのに、それがない。淡々としている。だからこそ、かえって不気味だった。
窓の外では、いつも通りに朝が始まっていた。だが義重には、その「いつも通り」がますます怪しく見えた。見張りは見張りの声を出し、台所では鍋が鳴り、近習は走る。城は昨日までの城の顔をしているのに、その板塀へ夜のうちに短刀が突き立てられていたのだ。
変わっていないはずがない。
「若君」
老臣が声をかける。顔色は穏やかだが、目だけが眠っていない。夜の間にあれこれ動いたのだろう。
「評定にございます」
「分かっている」
「本日は、あまり先に口を出されませぬよう」
「なぜだ」
「なぜ、と仰せになりますか」
老臣は一度、深く息をついた。
「若君は、投げた石がどこまで跳ねるかを時々お忘れになる」
「忘れていない」
「では、少しは手加減を」
「相手が手加減していないのにか」
老臣は返す言葉に詰まった。
義重はそのまま立ち上がる。袖の内には、あの紙片を入れていた。評定の場へ持っていくつもりだった。老臣はそれに気づいていたが、取り上げようとはしない。取り上げれば、若君が余計に意固地になると知っているからだろう。
評定の間には、すでに何人もの重臣が集まっていた。
昨日までの緊張に加え、今朝はさらに別の重さがある。夜のうちに城内へ短刀が届いた。しかも、それがただの悪ふざけでは済まぬ文を伴っていたとなれば、場の空気が張るのは当然だった。
義重が入ると、またしても視線が集まる。
驚き、迷い、厄介だという顔。だがもう、若君が来ること自体を完全には止められぬ空気ができつつある。前なら「お下がりください」と言えた者も、今は一拍置くようになった。
年長の重臣が、ひとまず穏やかに口を開く。
「若君。本日は昨夜の件にて、いささか物騒な話にございます」
「知っている」
義重はそう言って、いつもの隅へ座った。
「だから聞く」
その一言に、誰かがわずかに眉をひそめたが、もう露骨には止めない。老臣は後ろへ控え、場を眺めている。
議はほどなく始まった。
昨夜の見張りの動き。短刀が刺さっていた場所。どこから侵入したのか。投げたのか、近づいて刺したのか。警戒に穴があったのか、それとも城内の者の手引きがあったのか。
ひとつひとつがもっともだ。もっともだが、どれもまだ決め手に欠ける。
「短刀そのものには特別な印はございませぬ」
「市井で手に入る類か」
「そのように」
「では文だ」
「はい。あの文が問題にございます」
「脅し文としては妙に静かすぎる」
「逆に、それが攪乱やもしれぬ」
「“火は中にある”とは、あまりに露骨」
「露骨だからこそ、真にも見える」
低い声が重なっていく。
義重はそのやり取りを聞きながら、袖の内の紙片を指先で確かめた。皆が文を問題にしている。だが、その問題の仕方が少しずつ違う。誰かは内容を警戒し、誰かは脅しの手口を気にし、誰かは「そんな文に振り回されるな」と言いたげな顔をしている。
そこで義重は、ふいに紙片を取り出した。
場が止まる。
「若君」
老臣が低く呼ぶ。止めるには遅い、という声音だった。
義重は構わず紙片を広げた。
「これだろう」
数人の顔が動く。年長の重臣は苦い顔をしたが、取り上げようとはしなかった。
義重は文面を軽く掲げ、そのまま言った。
「これを笑う者がいちばん怪しい」
凍った。
評定の間にいる全員が、一瞬本当に息を止めたようだった。
近習の一人など、障子の向こうで何か落としかけた気配がしたほどである。老臣は目を閉じた。ああやはり言った、という顔だった。
年若い若君が、家中の重臣たちを前にして「怪しい」と言ったのだ。名指しではない。だが、名指しでないぶん余計に場が凍る。誰もが一瞬、自分の顔をどう置くべきか考えてしまうからだ。
一人の重臣が顔を赤くした。
「若君、それは――」
「何だ」
「評定の場にて、あまりに直きすぎます!」
「直いから駄目か」
「そういうことではございませぬ! このような文ひとつで家中を疑心暗鬼に陥れるのは、相手の思うつぼにございます!」
義重はその男を見た。
怒っている。だが、その怒りの出方が少し大きすぎる。文の内容そのものに腹を立てているのか、若君がそれを口にしたことに腹を立てているのか、その両方か。
別の重臣が苦々しく口を開く。
「しかし、若君のお言葉にも一理はある。笑い飛ばして済ませるのは、たしかに危うい」
「危ういからといって、誰彼なく疑えと申すか!」
「誰彼なくとは申しておらぬ。だが文を軽んじる者があれば、理由は見たい」
「文そのものが偽りならどうする」
「真偽を見極めるためにも、軽んじぬ方がよい」
きれいには割れない。だが、場の顔が一斉に出たのは確かだった。
義重は、その瞬間を見逃さなかった。
さっきまで落ち着いていた男が、紙片の文を見た途端に目を逸らした。
逆に、怒鳴るほどではない場面で、必要以上に腹を立てる者がいる。
「若君のお言葉にも一理」と言った男は、言い方に慎重さを残している。
年長の重臣は何も言わぬまま、皆の顔を見ている。
義重の頭の中には、人の顔が並んでいく。
誰がどう眉を動かしたか。
誰が文のどの部分で口元を変えたか。
誰が最初に息を吐いたか。
誰が、わざと安心した顔をしたか。
彼はそれを覚えるのが得意だった。
家の系図や長々しい文は時に面倒だと思うくせに、人の顔だけは妙によく残る。昨日の評定で失踪者の名に反応した顔も、南の通りの話題で目を逸らした味噌売りの女の表情も、昼間子どもに「ちっこいじゃん」と言われたときに近習が笑いを堪えた顔も、全部どこかへ残っている。
老臣はそれを知っているからこそ、若君の危うさを感じていた。
この若君は、見すぎる。
しかも見たものを、胸の中で終わらせるとは限らない。
老臣は内心で思う。
いずれこの若君は、敵より先に味方を削りかねぬ。
疑いを持つのが早いという意味ではない。見えてしまうのだ。人の顔の揺れが、言葉の先回りが、過剰な怒りが、妙な安堵が。見えてしまうから、切らずに済ませるのが難しくなる。
だが同時に、その鋭さが乱世向きであることも否定できない。
誰もが美しい忠義の顔をしている時代ではない。家のためという言葉の裏で私心も動く。慎重さの皮を被った臆病もある。忠義と保身と算段が入り混じる中で、顔色の変化ひとつを拾える者は強い。
強いが、危うい。
年長の重臣が、ようやく場を整えるように言った。
「若君のお言葉は過ぎる。だが、文を軽々しく笑うべきでないという点は、もっともにございます」
その言い方で、場はひとまず救われた。
若君の直言をそのまま通さず、しかし完全にも退けない。いかにも年長者らしい収め方だった。
しかし収まったのは表だけで、中のざわつきは消えていない。
義重にはそれが見える。
ある男は、今ので露骨に安心した顔をした。若君の言葉を年長の重臣が丸めてくれたことで、自分に矢が飛んでこぬと感じたのだろう。
別の男は、逆にまだ腹にものを抱えた顔をしている。
老臣は静かだ。だが、その静けさの中に「若君は危ういが、この危うさを潰してはならぬ」という諦めにも似たものがある。
義重は、前に置かれた文を見た。
警告か、攪乱か。
それはまだ分からない。
だが一つだけ、分かることがある。
この文は、人の顔を浮かび上がらせる。
それだけでも、厄介な文だった。
議が少し落ち着いたところで、老臣が義重へごく小さく囁いた。
「若君」
「何だ」
「敵は外にいる方がまだ楽だ」
義重は横目で老臣を見る。
老臣は前を向いたまま、続けた。
「外の敵は旗を掲げ、刃を見せ、こちらへ来ます。ゆえに備えようもございます。だが内の敵は、味方の顔で飯を食い、味方の顔でうなずき、味方の顔で“家のため”と申します」
義重は黙って聞く。
「どちらが厄介かは、申すまでもありますまい」
「……なら、なおさら見ねばならぬ」
老臣は微かに息を吐いた。
「左様。だから若君のようなお方は、乱世では必要なのでしょうな」
「だが?」
「必要な刃は、持ち手にもよく切れます」
義重は返事をしなかった。
評定はなお続く。だが論点は少しずつ文そのものの出所へ移りつつあった。短刀はありふれている。なら紙だ。墨だ。書き方だ。どこから持ち込まれたのか。
そこへ、文や書付を扱う役目の者が一人、慎重な顔で進み出た。
「恐れながら」
年長の重臣が顎を引く。
「申せ」
「この紙片に使われております紙にございますが……」
場がまた静まる。
「何かあるのか」
「はい。粗末な紙ではございませぬ。かなり目の詰んだ、よい紙にございます」
「それがどうした」
「市井でも手に入らぬことはございませぬ。ございませぬが……」
男はそこで一度ためらい、言いにくそうに続けた。
「この質の紙は、城内でも限られた役職の者しか、普段は用いませぬ」
空気が、また一段冷たくなった。
義重はその言葉を、はっきりと胸で受けた。
火は中にある。
その文言自体が疑わしいとしても、使われた紙が内側の匂いを帯びているのなら、ただの脅しとは言い切れなくなる。
誰かが息を呑む。
誰かが視線を伏せる。
誰かが「まだ決まったわけでは」と言いかける。
だが、もう遅い。
文は内容だけでなく、紙そのものまで「内」を指し始めていた。
そして義重は、その瞬間に動いたいくつもの顔を、また一つずつ覚えていくのだった。




