第19話 逃げたのか、消されたのか
人が一人いなくなるだけで、城の空気は思っていた以上に濁る。
それが名のある重臣でもなく、表へよく出る使者でもなく、下の使いであればなおさらだった。
大きな者が消えれば、皆が「何が起きた」と表向きに騒ぐ。
だが、半端な者が消えると、かえって始末が悪い。
声高には騒がれぬまま、勝手な形だけが先に広がるからだ。
第十八話で、若君が初めて小さく命じた荷の流れは、ひとまず動いた。
薬も布も、村へ向けて出た。
そのこと自体は、義重の胸を少しだけ軽くした。
だがその軽さは、夕刻の一報であっけなく沈んだ。
疑いの目が向いていた重臣筋の使いが、一人、姿を消したのである。
報せを持ってきた近習は、何をどう言えばよいか迷っている顔だった。
それも無理はない。
こういう話は、言い方ひとつで意味が変わる。
逃げたと言えば黒に見える。
消えたと言えば、別の手が見える。
まだ何も決まっておらぬのに、言葉だけが先に形を作る。
義重は、報せを聞いた瞬間に嫌なものを覚えた。
あまりに、筋がよすぎる。
「どこでいなくなった」
義重が問うと、近習はすぐに答えた。
「昼過ぎまでは城内にいたと申す者がございます。ですが、夕刻の帳が合わず、探したところ、部屋にも戻っておらず……」
「誰が最初に気づいた」
「同じ役目筋の者にございます」
「気づくのが早いな」
近習は口をつぐんだ。
若君が何を気にしているか、分かったのだろう。
消える。
すぐ気づく。
そして、ちょうどその者が疑われるのに都合のよい位置にいる。
綺麗すぎる。
老臣が脇から低く言う。
「若君」
「分かっている」
「今、顔に出しすぎるのは得ではございませぬ」
「得ではないから隠せと言うのか」
「見せるべき時と、まだ見せぬ方がよい時がございます」
義重は黙った。
だが、胸の内ではもう考え始めている。
本当に逃げたのなら、なぜ今なのか。
自分に疑いが向きつつあるのを見て、怖くなったとも考えられる。
けれど、それならもっと前に逃げてもおかしくない。
逆に、ここで消えれば、まるで「この筋が黒だ」と札を立てるようなものだ。
誰かがそう見せたいのではないか。
評定の場へ行くと、空気は案の定、いつも以上にねばついていた。
誰も大声は出していない。
だが、目の置き所が妙だ。
互いに互いを見ぬふりをしながら、腹の中ではもう半分ほど答えを決めている者の顔がある。
年長の重臣が先に口を開いた。
「件の者、まだ見つからぬか」
「はっ。城内、城下ともに探らせておりますが、今のところ」
「家は」
「実家にも戻っておりませぬ」
「金の持ち出しは」
「目立ったものは」
「ならば」
そこで、別の重臣が渋い声を出す。
「やはり、恐れて逃げたと見るべきではございませぬか」
その一言で、場の何人かが内心うなずいた気配がした。
義重には、それが顔の緩みで分かる。
だが、若君はそこで即座に乗らなかった。
以前の自分なら、「なぜ逃げた、怪しい」とまっすぐ思ったかもしれない。
だが今は、あまりに分かりやすく“そう見える”ことの方が気になる。
別の重臣が口を挟む。
「逃げたと決めるには早い。口を塞がれたやもしれぬ」
すると、すぐ反対が来る。
「では、誰が何のために、下使い一人を消します」
「そこに筋があるからでございましょう」
「筋があるのは、むしろそちらの言う重臣筋ではないか」
「そう見せたい者がおるやもしれぬと申しておる」
また、割れる。
義重は黙ってそれを見ていた。
ここで見えるのは、誰がどちらの味方かではない。
誰が“早く誰かを黒にしたいか”だ。
人は不安が深くなると、分かりやすい犯人を欲しがる。
そうすれば、ひとまずその形へ怒りを流し込める。
城中の者たちも、結局は人なのだ。
理で座っていても、腹は早く白黒を欲しがる。
義重は、そのことに少し冷えた気持ちになった。
本当にそれが黒ならよい。
だが違ったなら、その黒の陰で本当の手がさらに深く潜る。
評定の後、義重は老臣をつかまえた。
「追う」
「何をにございます」
「消えた使いの足だ」
老臣は少しだけ苦い顔をした。
「若君は本当に、逃げた者より“消された者”を先に疑われますな」
「逃げたかもしれぬ。だが、それだけでは気に入らぬ」
「何がにございます」
義重は即答した。
「都合がよすぎる」
老臣は頷いた。
「はい。わしも、そう思わぬでもございませぬ」
「なら」
「追いますとも」
老臣はすぐに数人の者を動かした。
義重はそれに付き従う形で、城の裏手から使いの詰める部屋、荷役の出入り口、南へ抜ける小道、城下へ続く道までを順に見て回った。
人を追うとは、顔を追うのではない。
もう義重は、そのことを知っている。
足がどこへ向いたか。
誰と交わったか。
何を残したか。
何を残さなかったか。
消えた使いの部屋は、拍子抜けするほど整っていた。
寝具は乱れていない。
銭もごっそり持ち出された様子はない。
衣も、急ぎ逃げたなら持っていきそうなものがいくつか残っている。
義重は部屋の入口で立ち止まり、しばらくそこを見た。
「若君」
近くにいた下役が緊張した声を出す。
「この者、几帳面な質ではございましたが……」
「几帳面だからではない」
義重は低く言う。
「逃げるなら、もっと荒れる」
老臣が部屋の隅を見ていた。
床板。
文箱。
小さな衣櫃。
どこも手早く探られた形跡はない。
「確かに、逃げ出す前の部屋には見えませぬな」
老臣が呟く。
「呼び出されたのか」
義重が言う。
「その可能性はございましょう」
「自分の足で出た」
「はい」
「だが、戻るつもりで」
老臣はちらと若君を見た。
「そこまで見えますか」
「銭を持たぬ。着替えも半端。逃げる気なら、もっと持つ」
老臣は頷く。
近くにいた下役たちは、そのやり取りを半ば呆然として聞いていた。
若君はやはり、見るところがおかしい。
たぶん皆、そう思っている。
だが義重はもう、その視線に少し慣れ始めていた。
部屋の外へ出たあと、老臣が静かに言う。
「若君は、“犯人らしさ”を嫌われますな」
「何だそれは」
「見るからに怪しい者、見るからに逃げそうな者、そういうものにすぐ飛びつくのを」
義重は少し考え、それから答えた。
「怪しすぎるものは、たいてい誰かの都合だ」
老臣はその一言に、ほんのわずか目を見開いた。
「……若君」
「何だ」
「今のは、ようございました」
「褒めるな」
「そう申されても、ようございましたものはようございました」
義重はそれ以上何も言わなかった。
ただ、胸の中では自分の見方が少し変わってきたことを感じていた。
最初は誰が黒かを見ようとしていた。
今は、誰が“黒らしく見えると得をするか”を見ている。
それは少し、嫌な変わり方でもあった。
夕刻前、さらに一つ報せが入った。
消えた使いがよく使っていた小部屋の文箱から、数枚の覚え書きが見つかったという。
たいしたものではない。
日付、荷の数、村の名、誰へ伝えるか。
それだけだ。
だが、その紙の中に一つだけ、義重の目を引くものがあった。
「これだ」
義重が指したのは、村名と道筋の走り書きだった。
そこには、境の村から戻る脇道ではなく、城下の南へ回り込み、さらに寺の裏手へ抜けるような細い筋が記されている。
老臣が目を細める。
「寺の裏……」
「第21話の下役が出入りしていたところと同じか」
「そのように見えますな」
そこへ、別口の調べをしていた者も戻ってきた。
「申し上げます。消えた使いにございますが、城下南の通りとの繋がりがあったのは間違いございませぬ。加えて……」
「加えて何だ」
「ある寺の裏手にも、たびたび出入りしておったとの話が」
義重と老臣が、ほぼ同時に顔を上げた。
やはり、だ。
消えた使いの部屋から出た覚え書き。
そして別口から上がる証言。
南の通りだけでなく、寺の裏手へも通っていた。
城下の表ではなく、裏の継ぎ目。
荷と人が半端に交わる場所。
人目がありそうで、実は意外と顔を隠せる場所。
そこがまた一本、繋がった。
義重は、その時ようやく確信に近いものを持った。
この使いは、ただ逃げたのではない。
少なくとも、そう見せるには都合がよすぎる。
しかも道筋は、南の通りから寺の裏へ続いている。
誰かがそこへ呼んだのか。
あるいは、そこへ行くよう仕向けたのか。
まだ分からない。
だが、もう“分かりやすい犯人”へ飛びつく気にはなれなかった。
老臣が若君を見て言う。
「次は、寺の裏にございますな」
義重は頷いた。
「うむ」
「若君」
「何だ」
「人の足跡を追うのは、面白うございますか」
その問いに、義重はすぐには答えられなかった。
面白い。
たしかに、どこかでそう感じる。
ばらばらのものが繋がる時の感覚は、筆や木刀では得られぬものだ。
だが同時に、それが人の裏と都合へ繋がることも知ってしまった。
やがて義重は、少しだけ嫌そうな顔で答えた。
「……面白い」
老臣は小さく笑う。
「はい」
「だが、怖い」
今度は老臣が笑わなかった。
「それでよろしゅうございます」
若君は、寺の裏手へ続く細い道を胸の中に描いた。
人は逃げたのか。
消されたのか。
まだ答えはない。
だが少なくとも、その答えは城の表ではなく、裏手の方へ隠されている。
若君はもう、それを追う側へ足を踏み入れていた。




