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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第18話 若君、初めて命じる

命じる、ということは、思っていたより喉の近くで重かった。


人にやらせる。

人を動かす。

たったそれだけのことのはずなのに、義重は朝から妙に胸のあたりが落ち着かなかった。


前日の第十七話で、傷を負った男のうわ言から「道役は一つではない」「荷を扱う手と、道を扱う手が別にあるらしい」という気配が出たことで、城の中はまた少し騒がしくなっていた。だがその騒がしさは、表に出る類のものではない。評定の場で怒鳴る者はいない。廊下を走る者も少ない。けれど、書付を持つ手が増え、呼ばれる名が増え、使いの足が目に見えぬところで細かく動いている。


つまり、実務の騒がしさだった。


そして、そういう時にこそ、細い綻びはよく見える。


「若君」


朝のまだ早い時分、老臣が部屋へ来るなり言った。


「境の村へ回すはずの見舞い物資が、一部、止まっております」


義重は顔を上げた。


「止まっている?」


「はい」


「なぜだ」


「帳面の上では“積み替え待ち”にございます」


義重は眉を寄せた。


積み替え待ち。

便利な言葉だ。

急ぎの用でも、誰かがそう書けば、その場ではそれらしく見える。だが、急ぎでなければ困るものほど、そういう言葉の陰で止まる。


「何が止まっている」


「薬、乾飯、布。それと小さな銭包みも少々」


「村へ回すものだな」


「左様にございます」


義重は机の上に広げていた紙から手を離した。


境の村は、旗なき小勢に揺さぶられている。

大きく焼かれたわけではない。だが小さな火は、村人の腹と心を冷やすには十分だった。だからこそ、見舞いと手当ては急ぎのはずだ。


「なぜ今止まる」


「表向きは、荷を出す役の者と、受ける側の手違いにございます」


「表向きは、か」


老臣は答えず、わずかに肩をすくめた。


義重は立ち上がる。


「行くぞ」


「どちらへ」


「荷のところだ」


老臣は一拍置いた。


「若君」


「何だ」


「これは、本来は大人どもの手で片づけるべき細事にございます」


「細くない」


「はい」


「村へ届くものが止まっている。なら細くない」


老臣は少しだけ口元を緩めた。


「その通りにございますな」


荷が置かれている蔵のそばは、朝のうちから人の出入りが多かった。

米俵、薬箱、布包み、縄、木札。

誰かが運び、誰かが記し、誰かが持ち出す。

兵が出る前、戦はこういう場所からすでに始まっているのだと、義重はもう知っていた。


蔵役の男は、若君の姿を見るなり露骨にぎくりとした。


「わ、若君」


「止まっている荷を見せろ」


男は、すぐには返事をしなかった。

一瞬、老臣の顔を見た。

その一瞬だけで、義重には十分だった。


――若君に直接見せてよいものか。

――いや、本来は上の差配を待つべきではないか。

――だが老臣がいる。

――しかし若君は若君だ。


そういう逡巡が、男のまばたきの速さに出ていた。


老臣が静かに言う。


「若君のお望みにございます」


「は、はい」


蔵役は慌てて道をあけた。


蔵の中は、乾いた藁と木と、少し湿った土の匂いがした。

積まれた包みの中に、たしかに“境向け”の札が下がっているものがある。

薬。布。乾飯。どれも大きな荷ではない。だが、村にとっては喉から手が出るほど必要なものだ。


義重は木札を見た。


「いつから止まっている」


「昨夕よりにございます」


「長い」


「い、いえ、その……本来は今朝出す手筈で」


「なぜ出ていない」


蔵役は困り果てた顔をした。


「受け渡しの印が揃わず……」


「誰の印だ」


「そ、それは……」


また老臣を見た。

義重は、その視線の動きに少し苛立つ。


「老臣を見るな」


蔵役はびくりと肩を震わせる。


「お、恐れながら……」


「印が揃わぬなら、誰が揃えていない」


蔵役はようやく答えた。


「道役の下の者にございます」


義重の中で、昨日のうわ言が繋がる。

道役は一つではない。

荷を扱う手と、道を扱う手。

そして今、荷は道役の下で止まっている。


「呼べ」


義重は言った。


蔵役が凍る。


「い、今すぐでございますか」


「今だ」


「ですが、若君、筋というものが……」


「筋?」


義重は一歩、男へ近づいた。


「村の方が先に飢えれば、その筋とやらが飯を食わせるのか」


蔵役は言葉に詰まった。

近くにいた下役たちも、目を伏せる。

若君の言い方は鋭い。

だが、理そのものは外しようがない。


老臣がその場へ一歩進み、場を少しやわらげるように言った。


「若君のお心は、村へ早う届けたいという一点にございます。筋を乱すためではございませぬ」


「は、はい……!」


蔵役は慌てて人を走らせた。


待つ間、義重は荷を見た。

薬箱の縄の締め方。

布包みの札。

乾飯の数。

どれも大した量ではない。

だが、たとえば怪我人に包む布が一つ遅れれば、それだけで村の不安は深くなる。乾飯が遅れれば「城は後回しにした」と思う者も出るかもしれぬ。


大きな戦でなくとも、人心は小さな遅れで離れる。


そのことが、若君の胸にひどく重く感じられた。


やがて、道役の下で動く若い役人が来た。

まだ三十にも届かぬくらいか。

顔立ちは整っているが、どこか自分の仕事に自負を持つ者の顔だ。


「若君」


一礼はきちんとしている。

だが、その目の奥には「これは本来、若君が出る場ではない」という戸惑いがあった。


義重はそのまま問う。


「なぜ止めた」


男は少しだけ目を瞬かせた。


「恐れながら、止めたのではございませぬ。順を待っているだけに」


「順が村の腹を満たすのか」


男の眉がわずかに寄る。


「若君、物の流れには乱してはならぬ定めが」


「今は平時か」


「……」


「村が揺れ、火が上がり、見舞いを送ると決まっていて、なお順を待つのか」


男は言葉を選んだ。


「定めを崩せば、後で別の荷も崩れます」


その理は分かる。

だから厄介だ。

ただの怠けでも、露骨な邪魔でもない。

順を守るという理屈はもっともで、もっともだからこそ、人を止める。


義重は、そこで初めて気づいた。


命じるとは、理と理の間でどちらを切るか決めることなのだ。


今までは、見ることが多かった。

誰がどう言い逃れ、誰がどう濁すかを見てきた。

だが今、自分はここで決めねばならない。

順を守るか、急ぎを優先するか。

もし急がせて別の荷が乱れれば、それは若君の責だ。

けれど今止めれば、村の不安はもっと膨れる。


胸の奥が少し熱くなる。

喉のところに、見えぬ石が乗ったようでもある。


老臣は黙っていた。

助け舟を出さない。

つまり、若君に決めさせるつもりなのだろう。


義重は、ゆっくりと言った。


「今ある荷は、半分を先に出せ」


蔵の中がしんとなる。


道役の若い役人が顔を上げた。


「若君」


「全部ではない。半分だ」


義重は続ける。


「残りはおまえの言う順に乗せろ。だが半分は、今ある手で先に村へ入れろ」


「しかし」


「薬と布を先にしろ。乾飯は後でも飢えぬとは言わぬが、怪我人は待たぬ」


役人は黙った。


義重はさらに言う。


「これは“筋を乱す”ためではない。村へ“忘れておらぬ”と見せるためだ」


老臣の目が、少しだけ細くなる。


蔵役も、近くの下役たちも、息を詰めたまま若君を見ている。


義重自身、胸の内では少し震えていた。

命じた。

しかも半端な理屈ではなく、自分の判断で順を切った。

これでうまくいかなければ、若君の軽挙と見られるだろう。

それでも言わねばならぬと思った。


道役の若い役人は、しばらく考えていた。

やがて、深く頭を下げる。


「……承知いたしました」


その言葉を聞いた瞬間、蔵の空気が少しだけ動いた。

止まっていたものが流れ始める気配だ。


老臣が、そこで初めて口を挟んだ。


「よろしい。若君のお言葉どおり、半分は今すぐ、半分は順を崩さぬよう運べ。誰がどれを持つかも今ここで決めよ」


「はっ」


蔵役たちが動き出す。

薬箱が持ち上がり、布包みが選り分けられ、荷札が改められる。

大きな軍勢が動くわけではない。

だが、この小さな動き一つで、村へ届く時間は変わる。


義重は、その様子を見つめていた。


命じたことが現場で機能する。


それは思ったより妙な感覚だった。

嬉しい、だけではない。

むしろ怖い。

自分の言葉で人が動く。

人が動けば、よい方へも悪い方へも、結果は必ず若君へ返ってくる。


蔵を出たあと、近習の少年がほとんど囁き声で言った。


「若……あ、いや……」


「何だ」


「今のは、その……」


「何だ」


「少し格好よく見えました」


義重は思わず足を止めた。


「少し、とは何だ」


少年は慌てた。


「い、いえ、かなり、でございます!」


もう一人の少年が慌てて口を挟む。


「最初からそう言え!」


「おまえが先に言え!」


義重はため息をついたが、完全に怒る気にはなれなかった。

胸の内にまだ、命じた後の妙な震えが残っていたからだ。


老臣が横で静かに言う。


「若君」


「何だ」


「今のは、ようございました」


義重は横目で老臣を見る。


「叱らぬのか」


「叱るところもございます」


「どこだ」


「本来なら、もう一呼吸置いてからでもよろしかった」


「……」


「ですが、今すぐ動かねばならぬものを見切ったのはよろしゅうございました」


義重は少しだけ顔をしかめた。


「半分だけ褒めるのか」


「半分だけではございませぬ。七分ほどは」


「中途半端だな」


「若君に全て満点をつけると、次にもっと大きくはみ出されそうで怖いのでございます」


義重は鼻を鳴らした。

だが、その言い方の下にあるものは分かる。


老臣は、今の判断を認めている。

そして同時に、若君がこれで“命じること”の味を覚えすぎぬよう、釘も刺しているのだ。


それはたぶん正しい。

義重自身も、命じた後の気分が少し危ういことを感じていた。


人が動く。

すぐ結果が見える。

それは、くせになれば怖い。


夕刻近く、村へ向けた先の荷がきちんと出たとの報せが入った。

薬と布は予定より早く届く見込みだという。

義重はそれを聞き、胸の石が少しだけ軽くなるのを感じた。


だが、軽くなったそのすぐ後に、別の報せが入った。


老臣がその書付を見て、眉をひそめる。


「どうした」


義重が問うと、老臣は一瞬、返す言葉を選んだ。


「……疑いの目が向いていた重臣筋の者にございます」


「何だ」


「下の使いの一人が、姿をくらませた由」


義重の目が鋭くなる。


「逃げたのか」


「まだ分かりませぬ」


だが、その場にいた誰の顔にも、そうは見えなかった。

あまりに出来すぎている。


村への荷がようやく流れ、若君が初めて小さく命じ、少しだけ城の中の流れが整った、その直後に。

今度は疑われた重臣側の使いが、不自然に消える。


これは誰かが逃げたのか。

それとも、また誰かが“分かりやすい形”を作ったのか。


義重は、胸の軽さがたちまち別の重みへ変わるのを感じた。


命じることは、ひとつ事を前へ進める。

だが前へ進んだ分だけ、次の綻びも見えやすくなるのだろう。


若君はその日、初めて人に命じた。

そしてその日のうちに、命じた先の世界が、決して自分の思う通りだけには動かぬことも知り始めていた。

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