第17話 守るために隠すもの
朝の城は静かだった。
静かだが、落ち着いているわけではない。
人の声が低い時ほど、城の中では何かが動いている。義重はもう、そのことを知り始めていた。
廊下を行き交う近習たちの足は速い。
台所では鍋の蓋を置く音までどこか控えめで、書付を運ぶ役の者たちは、いつもより余計に視線を合わせようとしない。
何かを隠している者がいる時、隠していない者まで口数が減る。
それもまた、城というものの妙な癖だった。
義重は、文机の前に座っていた。
座ってはいるが、筆は進まない。目の前の紙に向いているようで、頭の中は昨日までの話を追っていた。
境の村。
旗を隠した小勢。
失踪した者。
矢による口封じ。
文書役。
荷の流れ。
そして、家中で小さく濁り始めた空気。
今の佐竹家の中には、ただ敵を憎めば済む話ではないものがある。
それが義重には気に入らなかった。
「若君」
背後で老臣が声をかけた。
「何だ」
「お顔に“気に入らぬ”と書いてございます」
義重は振り返らぬまま答えた。
「書いているなら、そのままでよい」
「その顔のまま評定へ出られると、場が余計に固まります」
「固まるなら、浮かれた顔よりましだ」
老臣は小さく息をついた。
そして、そのまま義重の向かいへ腰を下ろす。
「若君」
「何だ」
「本日は、少しばかり耳に痛い話にございます」
「痛くない話など、ここしばらく聞いていない」
「まこと、その通りにございますな」
老臣は、そこで少し声を落とした。
「傷を負うたあの者のことにございます」
義重の目が、ようやく老臣へ向いた。
町外れの茶屋で見つけ、矢で射られ、それでも辛うじて命を繋いでいる、失踪していた佐竹方の者のことだ。
「何か言ったのか」
「断片ではございますが」
「申せ」
老臣は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「どうやら、誰かが“家のため”と称して、表へ出せぬ形で動いていた気配がございます」
義重の眉がぴくりと動く。
「家のため?」
「はい」
「ふざけている」
老臣はそれを否定しなかった。
「若君がそう思われるのも、もっともにございます」
「家のためなら、なぜ隠れる」
「隠さねばできぬこともございます」
「それは家のためではない。勝手だ」
言い切る義重の声は、まだ若い。
若いが、真っ直ぐだった。
老臣は庭の方を一度見やってから、静かに言った。
「若君。乱世では、表へ出せぬ忠義もございます」
義重は露骨に顔をしかめた。
「またその話か」
「またその話にございます」
「嫌いだ」
「はい。若君はそうでなくてはなりませぬ」
「……何だ、それは」
「嫌いと思えることが、まずは大事にございます」
義重は、かえって腹が立った。
嫌いと思え。
だが、あるとも知れ。
老臣の言うことはいつもそうだ。まっすぐ若君の気持ちを肯定するようでいて、その実、まっすぐなままでは済まぬ現実を横に置いてくる。
「俺は、納得せぬ」
「はい」
「家のためと言いながら、若君にも当主にも知らせず、人を使い、道を隠し、口を塞ぐ。それのどこが忠義だ」
老臣は、そこで初めて強く頷いた。
「そこに私心が混じれば、もう濁ります」
「混じるどころではない」
「はい。ですが」
また、その“ですが”だった。
義重はそれだけで少し苛立つ。
「何だ」
「人は、守りたいものがある時ほど、きれいに動けぬことがございます」
義重は黙った。
老臣は続ける。
「自分の家を守りたい者もおりましょう。仕えておる筋を守りたい者もおりましょう。上の怒りを避けたい者もおれば、自分なりに“ここで騒げば家中が割れる”と考えて隠す者もおる」
「それがもう、勝手だ」
「はい。勝手にございます」
「なら斬ればいい」
その言葉は、若さの勢いで出たものだった。
だが、義重は半分本気でもあった。
老臣はそれを聞き、目を細めた。
「若君は、斬る相手を白黒ではっきり分けたいのでございますな」
「当たり前だ」
「それができぬから、皆が困っておるのです」
義重は口をつぐんだ。
痛いところを突かれたのだと、自分でも分かった。
しばし沈黙が落ちる。
庭では風が木を揺らしていた。
遠くで桶の鳴る音がして、また静かになる。
老臣が、少しだけ声を低くした。
「昨夜のうちに、あの者のうわ言がいくつか拾われました」
「うわ言」
「はっきりした名ではございませぬ。ですが、ある役職を気にしておるように」
「役職?」
「道や荷の通りを扱う側の、下役筋にございます」
義重の目が鋭くなる。
「文書役ではないのか」
「文書役とも繋がりはありましょう。ですが、どうやらそれだけではございませぬ」
つまり、一人ではない。
文。荷。道。人。
それぞれの継ぎ目に、別々の手がかかっているのだ。
義重は、そこに一種の寒気を覚えた。
「……やはり、一人の黒では済まぬのか」
老臣は頷いた。
「おそらくは」
「厄介だな」
「はい。しかも、もっと厄介なのは」
「何だ」
「その中に、本気で“家のため”と思っておる者が混じっておるかもしれぬことにございます」
義重は、はっきりと嫌そうな顔をした。
「嫌だ」
「ええ」
「そいつが利で動くなら、まだ分かる。金、保身、恨み。そういうものならまだ敵にできる」
「はい」
「だが、“家のため”と思っているなら、そいつは敵なのか味方なのか、分からなくなる」
老臣は静かに義重を見た。
「若君は、そこまで辿り着かれましたか」
「辿り着きたくなかった」
「それもまた、大事にございます」
義重は舌打ちこそしなかったが、胸の内では近いものがあった。
乱世とは、本当に面倒だ。
裏切りなら裏切りで、もっと分かりやすくあってほしい。
敵なら敵の旗を立て、味方なら味方の顔をしていてほしい。
だが現実には、味方の顔をしたまま勝手な忠義に走る者がいて、その勝手な忠義が家を腐らせることもある。
それは若い義重にとって、どうにも我慢のならぬ現実だった。
「老臣」
「はい」
「守るために隠す、というのは、本当にあるのか」
老臣はすぐには答えなかった。
しばらく考え、それからゆっくり言う。
「あります」
「……」
「ただし、守ったものが何であったかは、後にならねば分からぬことが多うございます」
「ずるい」
「はい」
「おまえの言い方はいつもずるい」
老臣は少し笑った。
「若君は正しすぎるゆえ、年寄りが少しずるくならねば話が進みませぬ」
義重は、ようやくほんの少しだけ口元を動かした。
だがすぐに真顔へ戻る。
「では、もし“家のため”と称して隠しておる者がいるなら、どうする」
老臣の目がわずかに細くなる。
「見極めます」
「何を」
「何を守ろうとしておるかを」
「またそれか」
「またそれにございます」
義重は深く息を吐いた。
結局、答えは簡単ではない。
だがその簡単ではないものから、目を逸らしてはならぬのだろう。
昼過ぎ、評定の場でその話はもっと露骨な形になった。
傷を負った男の供述そのものは曖昧だ。
けれど、その曖昧さの中に、勝手な動きをした者がいるらしいという気配は濃くなっていた。
重臣の一人が言う。
「もしや、家中の一部が若君や御当主に知らせず、独断で道を探らせていたのではございませぬか」
別の者が返す。
「探りそのものは責められますまい。問題は、それがどこと繋がっておったかです」
「繋がり方によっては、ただの過ぎた働きとも見えましょう」
「“ただの過ぎた働き”で人が消え、矢が飛びますか」
場の空気が重くなる。
義重は、重臣たちの顔を見ていた。
誰もが「悪いのは誰か」を探している。
だがその裏で、「悪いのは誰とも言い切れぬ」と思っている顔もある。
なぜなら、勝手な働きは家中のどこにでも芽を出しうるからだ。
ここで、一人の重臣が苦い声で言った。
「表へ出せぬ働きは、どの家にもございましょう」
義重は反射的にそちらを見た。
その男は言い訳をしている顔ではない。
だが、きれいごとで済まぬ現実を知っている顔だった。
「それでも、度を越せば家を損ねる」
と別の者が返す。
「度を越したかどうかは、結果にございます」
「結果で家が揺れておるではないか」
義重は、その応酬の中に、今までと少し違う種類の恐ろしさを感じた。
皆、同じ言葉を使っている。
家のため。
守る。
揺らす。
損ねる。
だが、その中身は一つではない。
若い義重の中では、善悪はまだ真っ直ぐな線で引かれている。
引かれているが、現実の方がその線へ泥を投げてくる。
評定の後、義重は縁側へ出た。
夕方前の光が庭へ斜めに落ちている。
風はやわらかいのに、胸の中は少し重かった。
老臣が後ろから来る。
「お疲れにございますか」
「疲れる」
「それはようございました」
「何がだ」
「疲れるほど考えておられるということにございます」
義重は庭を見たまま、低く言った。
「嫌なことばかり分かる」
「はい」
「白黒では足りぬ」
「はい」
「だが、灰色だから放っておけば、もっと腐る」
老臣はゆっくり頷いた。
「その通りにございます」
義重はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「守るために隠す、などという理屈は嫌いだ」
「はい」
「だが、嫌いなだけでは切れぬものもある」
老臣は、その言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
若君は、まっすぐなまま現実へぶつかっている。
まだ飲み込んではいない。
だが、もう見てしまっている。
「若君」
「何だ」
「今それを嫌いと思えることを、大事になさってくだされ」
「……なぜだ」
「嫌いと思えぬようになれば、今度は濁りを当たり前と思うようになります」
義重は、その言葉に少しだけ息を詰めた。
濁りを当たり前と思う。
それは、今の義重が最もなりたくないものだった。
その時、廊下の向こうから近習が急ぎ足で来た。
だが、声は抑えている。
「若君、老臣どの」
「何事だ」
「先の男が……またうわ言を」
老臣の顔が引き締まる。
「何と」
近習は首を近づけるようにして言った。
「道役、という言葉のあと……“あの役目は二つに分かれている”と」
義重と老臣が、ほぼ同時に顔を上げた。
一つではない。
しかも、役目が分かれている。
荷を扱う手。
道を扱う手。
文を整える手。
そして、それぞれが別の理屈で動く。
火は、まだ一つの形にならない。
だが確実に、土の下で広がっている。
義重は庭の向こうを見た。
見えぬものほど、掘り当てるのは骨が折れる。
それでも、もう掘るしかないのだろう。
若君の胸には、不快さと怒りと、ほんの少しの覚悟が、前より重く残っていた。




