第16話 下野の風、下総の影
国というものは、絵図の上では思ったより狭く見える。
墨で囲い、川を引き、村の名を記してしまえば、あとはその中を自分のものとして眺められるような気がする。城の中にいると、とくにそうだ。太田の城にいて、家中の者に囲まれ、村々の報せがこちらへ集まってくるのを見ていると、常陸という国がひとつの器に収まっているようにも思えてくる。
だが実際には、そんなに都合よく閉じてはいない。
義重は、そのことをこの日、老臣から骨のように硬く教えられた。
きっかけは、前日の評定で小田の名が出たことだった。
同じ常陸の中で食い合う相手。
その言葉は、若君の胸に思いのほか深く残っていた。
遠くの名だたる大名ではなく、まず厄介なのは同じ国の中にいる相手だと知ったばかりである。
ところが老臣は、そこにさらに別の話を重ねてきた。
「若君」
その朝、老臣は書の間ではなく、またしても絵図のある部屋へ若君を連れていった。
義重は少しだけ嫌な予感がした。
この男が自分を絵図へ向かわせる時は、たいてい気持ちのよい話ではない。
「今度は何だ」
「常陸の外にございます」
「外?」
「はい。内ばかり見ておりますと、かえって内が分からなくなります」
義重は眉を寄せた。
「分からぬ」
「分からぬで結構。これより分かるように申し上げます」
部屋の中央に、大きめの絵図が広げられた。
昨日見た村絵図より、もっと広い。
川筋も、街道も、郷の名も、城の位置も、すべてが少しだけ粗い。その代わり、一国の内に収まりきらず、外へ続いている。
老臣が絵図の上に指を置く。
「ここが常陸」
「知っている」
「知っておられるでしょうな」
「馬鹿にしているのか」
「めっそうもございませぬ。ただ、その常陸は絵図の縁で終わってはおらぬ、という話にございます」
義重は黙った。
老臣の指が西へ動く。
「こちらは下野方面」
さらに南西を指す。
「こちらは下総方面」
義重は絵図を見下ろした。
常陸の輪郭があり、その向こうにもまた道があり、川があり、村があり、城がある。分かっていたはずのことだが、改めて見せられると少し感触が違う。
「常陸は一国で完結いたしませぬ」
老臣が静かに言う。
「人も物も噂も、出入りいたします」
「うむ」
「こちらが閉じておるつもりでも、向こうからは閉じておりませぬ」
義重は、その言い方が少し気に入らなかった。
「閉じぬなら、塞げばよい」
「塞げるなら誰も苦労はいたしませぬ」
老臣はため息にも似た息をついた。
「道は一本ではございませぬ。街道もあれば、川筋もあり、郷から郷へ抜ける細道もあり、商人が覚える宿場のつながりもある。兵が通らずとも、噂は通ります」
噂は通る。
その言葉に、義重は自然と城下で見た見慣れぬ旅人を思い出した。
顔を隠し、名を隠し、旗を隠しても、草鞋の泥や言葉の端までは隠しきれぬあの者たち。
人が通れば、物も通る。
物が通れば、話も通る。
常陸の中だけ見ていても、それでは足りぬのだろう。
老臣はさらに説明した。
「下野の方からは、人も情報も西寄りの筋を通じて入りやすうございます」
「下総は」
「南西から、道と商いでじわりと来ます」
「じわり、か」
「はい。兵よりも、先に荷と話が来ることも多うございます」
義重は絵図の上の線を目で追った。
太い街道。
細い脇道。
川に沿った筋。
村と村を結ぶ細い帯。
その帯は、昨日老臣が語った村の暮らしの網目と同じだった。
国境とて、その外側に急に何もなくなるわけではない。
郷があり、道があり、人が歩く。
常陸が一国で立っているようでいて、実際には周辺から押され、擦れ、時に吸われながら形を保っているのだ。
「国境とは」
義重がぽつりと呟く。
老臣がその先を取るように言った。
「線ではなく、人の往来が薄くなる帯にございます」
義重は、その言葉に顔を上げた。
「帯」
「はい。絵図では線で引けましょう。ですが実際には、ある村を越えたから急に別の空気になるわけではございませぬ。人は行き来し、商いは続き、婚姻もあり、寺社の縁もある。少しずつ、誰が顔を利かせるかが変わっていく。それが国境にございます」
義重は、その説明を頭の中で絵にしようとした。
城の上から見ていた時、境目とはもっとはっきりしたものだと思っていた。
ここから先は向こう、ここまでがこちら。
だが実際にはそうではない。
人の往来が少しずつ薄くなり、言葉が少しずつ変わり、噂の流れ方が少しずつ変わる帯のようなもの。
そうだとすれば、旗なき兵がその帯に紛れ込むのは、ずっと容易い。
「……厄介だな」
義重が言うと、老臣は即座に頷いた。
「まことに」
「はっきりせぬ」
「はい」
「だから見えにくい」
「はい」
「見えにくいから、誰かがあえて揺らせば、すぐ乱れる」
老臣は目を細めた。
「若君はよう結びつけてご覧になりますな」
義重は答えず、絵図の上へ指を置いた。
常陸の南寄り。
城下。
南の通り。
境の村。
そしてその先へ伸びる道。
これまで義重の頭の中では、城と村がまずあり、その外に敵がいるという図だった。
だが今は違う。
外というのは、ただ遠くにあるのではない。
道の先に、帯の向こうに、じわじわと接している。
囲まれている、とまではまだ言い切れない。
けれど、孤立しているわけではまったくない。
むしろ、どこからでも風が入ってくるような場所に立っているのだと、初めて実感した。
その感覚に、義重は少しだけ息苦しさを覚えた。
「若君」
老臣が静かに問う。
「何だ」
「顔が少し、固うございます」
「囲まれている気がした」
それは、若君らしくないほど素直な言葉だった。
老臣は驚かなかった。
ただ、深く頷く。
「その感覚は、間違うておりませぬ」
「……」
「国は、囲まれてこそ国にございます」
義重は顔をしかめた。
「よく分からぬ言い方をする」
「閉じていれば楽でございましょう。ですが閉じた国は痩せます。出入りがあるから富み、出入りがあるから揺れる」
「揺れぬ方がいい」
「その通り。されど、揺れを断てば今度は流れも断たれます」
義重はそれを聞きながら、少しむっとした。
老臣の言うことはいつもこうだ。
理にかなっている。
だが、その理がきれいに気持ちへ収まるわけではない。
揺れぬ方がよい。
けれど流れを断てば痩せる。
開けば揺れる。
閉じれば細る。
国を持つとは、そういう嫌な勘定を抱えることなのかもしれない。
老臣はさらに、具体名を乱発することなく説明を続けた。
「下野の方には、あちらなりの理がございます。常陸にとって都合のよい時もあれば、その逆もございます」
「下総は」
「商い筋が太い。ゆえに、話が先に来る」
「兵より先にか」
「はい。兵は最後に来ることもございます」
義重は、そこで少しだけぞくりとした。
兵より先に来るもの。
話。
噂。
商人。
旅人。
草鞋の泥。
荷の流れ。
それらはもう、城下へ来ている。
つまり外圧というものは、いきなり国境で旗を翻して現れるとは限らない。
常陸南部へ届く頃には、もう別の顔をしているのだ。
「……南の通りにいた奴らも、そうか」
義重が呟くと、老臣は少しだけ間を置いた。
「その可能性はありましょう」
「下総の方から入る者もいる」
「ええ」
「下野の方から来る風もある」
「ございます」
「そして常陸の中には、小田のような近い相手もいる」
老臣はうなずいた。
「若君、ようまとまりましたな」
義重は絵図の上から目を離さなかった。
これまでは、敵と味方を分ける時、城の外と内くらいの粗い感覚しかなかった。
だが今、常陸という土地が、外からいくつもの風を受けながら立っていると少しずつ分かる。
西の風。
南西の影。
内の競り合い。
その間に村があり、郷があり、街道があり、城下がある。
若君は初めて、国が“囲まれている”という感覚を持った。
それは恐れというより、重みだった。
自分がいずれ背負うかもしれぬものが、思ったよりずっと広く、しかも閉じていない。
そのことが、じわじわと胸へ来る。
しばらくして、外から一人の者が呼ばれた。
城下の宿筋や旅人の出入りに目の利く、半ば使いのような男だった。
「近ごろの旅人筋、何か変わりはあるか」
年長の重臣が問う。
男は頭を下げたまま答える。
「数そのものは急には増えておりませぬ。ですが、顔ぶれに少々……」
「申せ」
「南の通りや、川沿いの宿に寄る者の中に、言葉が少し妙な者どもがおります」
義重の目が動く。
「妙とは」
男は言葉を探すように答えた。
「常陸の者の訛りではございませぬ。かといって、はっきり他国とも申せぬ。されど、下総の方の響きに近いかと」
場が静かになった。
老臣が、若君の横でごく小さく言う。
「ほう」
義重は、その報せを受けて絵図の南西を見た。
下総の影。
さっきまで絵図の上の話だったものが、もう城下の宿の声に繋がった。
最近増えた見慣れぬ旅人。
その中には、下総訛りらしい者がいた。
風はもう、常陸の外から内へ入り始めている。
若君はそのことを、はっきりと覚えた。
村の名を覚えたように。
道の筋を覚えたように。
今度は、風向きそのものを覚え始めていた。




