第15話 小田の名、まだ遠く近く
人は、遠い敵を語る時ほど声を大きくし、近い敵を語る時ほど声を低くする。
義重は、その違いをこの頃ようやく聞き分けられるようになってきていた。
遠い国の名だたる大名の話なら、誰もが少し勇ましくなる。
あれは強い、これは侮れぬ、いずれ関わることもあるだろう。
そうした話は、どこか広く、どこかまだ自分の手から離れているぶん、語る声に余裕がある。
だが、同じ国の中で境を接し、道を争い、村を取り合い、人を引き抜き、噂を食い合う相手の名になると、場の空気は変わる。
声が低くなるのだ。
それは恐れというより、近すぎる現実の重さに近かった。
第十四話のあと、義重は父の評定を思い返していた。
怒りより先に国の勘定をする。
その言葉はまだ腹のどこかでざらついている。
だが、そのざらつきごと抱えたまま、若君は次の評定へ座るようになっていた。
境の村の件は、まだ火の跡が消えたわけではない。
旗なき兵の動きも、城下で見かける見慣れぬ旅人の気配も、失踪者の足取りも、なお一本へまとまりきってはいない。
だからこそ、今のうちに常陸の中を見直すべきだという話になった。
誰が近く、誰が遠いか。
どの家が静かすぎ、どの筋がよく動くか。
そして、常陸という国の中で、どこが一番“近い敵”たりうるのか。
評定の間には、いつもの重臣たちに加えて、土地勘のある者、郷や城筋に明るい者も呼ばれていた。絵図が広げられ、村や郷の名、城の位置、川筋と街道があらためて並べられる。
義重は、その中に座っていた。
以前なら、こういう整理の話は少し退屈に見えたかもしれない。
だが今は違う。
村の名を覚え始めたからか、絵図の上の点がただの墨ではなくなっている。
そこに田を持つ家があり、舟を出す家があり、冬に薪を下ろす道があると知ってしまった以上、もう「どこの郷か分からぬ」では済まなかった。
評定では、まず常陸の中の力の流れが静かに確認された。
「この辺りは佐竹の押さえが利いております」
「されど、郷ごとに人の心は別にございます」
「城ひとつ押さえたとて、村が揺れれば道は細る」
「ゆえに、国衆筋の顔色を軽う見てはなりませぬ」
義重は、その“国衆”という言葉に耳を留めた。
ひとつの家が国を丸ごと握っているように見えて、実のところ、その下には土地ごとにしぶとく根を張る者たちがいる。城主。領主。土豪。名目の大きさは違っても、土地に根ざしているという意味では皆、厄介だ。
その中で、ある名が出た時、場の声がほんの少しだけ低くなった。
「小田の筋にございますれば……」
義重は、その名に顔を上げた。
小田。
初めて聞く名ではない。
だが、これまでの義重にとっては、評定の中で時折聞こえる“どこかの家”の一つでしかなかった。
それがこの日は、妙に耳に残った。
年長の重臣が続ける。
「まだ露骨な動きとまでは申せませぬ。されど、常陸の内にて無視できぬ家にございます」
別の重臣がすぐに応じる。
「無視できぬ、では足りませぬな。近い相手にございます」
「近いからこそ、軽々しく敵とも言い切れぬ」
「言い切れぬから厄介なのだ」
義重は、そのやり取りを聞きながら、小田という名の重さを測ろうとした。
近い。
敵とも言い切れぬ。
だが無視できぬ。
遠国の大大名のように、名が轟いてくる相手ではない。
むしろ同じ常陸の中で、郷を取り、城を押さえ、人と道をめぐってじわじわ競る相手。
そういう家なのだろう。
老臣が、若君の視線を見て小さく言った。
「耳に残られましたか」
「小田、か」
「はい」
「どういう家だ」
老臣は少し考える顔をした。
簡単に一言で片づけぬところが、この男らしい。
「ひと言で申せば、同じ常陸の内で食い合う相手にございます」
義重は眉を寄せた。
「食い合う」
「はい。遠くから押し寄せてくる相手とは違う。郷を取り、道を競り、人を引き、こちらが手を伸ばせば向こうも伸ばしてくる」
「……」
「ゆえに、最も近く、最も面倒にございます」
その言い方は、妙に実感がこもっていた。
英雄譚の中で語られるような、分かりやすい強敵とは違う。
もっと土くさく、もっと近く、日々の綻びに触れてくる相手。
評定の場では、小田評が微妙に割れていた。
「油断のならぬ家です」
そう言う者がいる。
「侮れぬが、むやみに刺激すべきでもない」
そう返す者もいる。
「向こうもまた、こちらを見ておるにすぎませぬ」
「見ているだけでは済まぬから厄介なのです」
「同じ国の内で張り合う家にございますれば、善し悪しでなく都合で動く」
「こちらとて同じこと」
義重は、その最後の言葉に少しだけ引っかかった。
こちらとて同じこと。
たしかにそうだ。
佐竹が理でだけ動いているわけではない。
家を守り、国を守り、道を押さえ、村を揺らさぬために動く。
それは向こうも同じかもしれない。
つまり、小田氏をただの悪役として見るのは違うのだろう。
相手もまた一勢力だ。
同じ常陸の中で、同じように土地を保ち、人を繋ぎ、都合を計りながら生きている。
だからこそ厄介なのだ。
遠い敵なら、旗ひとつで心を決められる。
だが近い相手はそうはいかない。
昨日まで取引があり、今日も街道は繋がり、明日にはまた違う形で関わる。
切るにも、睨むにも、ただ怒るだけでは済まぬ。
義重は、胸の中に新しい重さが入るのを感じた。
敵とは、遠国の名だたる大名より先に、同じ常陸の中で食い合う相手なのかもしれない。
それは少し意外で、少し悔しく、そしてやけに腑に落ちた。
評定の中ほどで、父が初めて小田の名に応じた。
「近いからこそ、軽く見るな」
短い一言だった。
だが、それで場がまとまる。
誰もそれ以上、小田をただの一勢力として軽く扱わなくなった。
義重は、父のそういうところがまだ不思議だった。
声を荒げぬ。
名を並べて脅さぬ。
だが必要なところで一言だけ置き、その一言が場の重しになる。
若君は、その一言の下でさらに耳を澄ます。
「常陸の中で動く道筋を改めるべきにございますな」
「とくに城下から南へ出る商い筋は」
「村の件と、旅人の気配と、銭の流れが同じ方角へ寄りつつある」
「小田に直につながると断ずるには早い」
「だが、近いところは近い」
ここでも、誰も「小田がやった」とは言わない。
だが言わぬまま、皆が同じ方角を見始めている。
それが常陸らしいのかもしれぬと、義重はぼんやり思った。
名を決めて怒鳴り合うより先に、道と村と商いの流れがじわじわ相手の影を濃くしていく。
評定が終わりかけた頃、城下の商い筋に詳しい者が呼ばれた。
その男は平伏したまま、慎重に言葉を選んでいる。
「近ごろ、このあたりを行き来する商人どもに、少しばかり妙な流れがございます」
「妙とは」
年長の重臣が問う。
「荷そのものは大したことなく見せております。塩、布、細かな道具。されど、寄る場所と、泊まる宿が妙に偏っております」
「どちらへ」
男は一拍置いてから答えた。
「……小田方と通じる商い筋が、近ごろこのあたりへ顔を出しております」
場が、また一段静まった。
義重は、その言葉を胸で受ける。
小田の名、まだ遠く近く。
名そのものは、まだ評定の中の話だ。
だが商人はもう道を渡り、城下へ顔を出している。
つまり小田は、遠い敵ではない。
道の向こう、村の向こう、城下の商いの端に、すでに気配がある相手なのだ。
老臣が小さく言った。
「若君」
「何だ」
「同じ国の中に、最も厄介な相手がおると知るのは、あまり愉快なことではございませぬな」
義重は、ほんの少しだけ口元を引いた。
「愉快ではない」
「はい」
「だが、覚える」
老臣はゆっくり頷いた。
「それでよろしゅうございます」
評定の後、義重は廊下を歩きながら、小田という名を頭の中で何度も転がしていた。
まだ敵と言い切るには早い。
だが、近い。
近いというだけで、遠国の大名より厄介だ。
城と城の間ではなく、村と道と商いの間で競る相手なのだから。
若君はようやく知り始めていた。
戦国とは、ただ大軍がぶつかる絵巻のことではない。
同じ国の中で、同じ川の水を見、同じ街道の土を踏みながら、少しずつ食い合うことでもあるのだ。
そしてその食い合いの名として、初めて小田が、義重の胸に残った。




