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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第20話 春の村に、まだ煙は残る

春の光は、何もかもをやわらかく見せる。


田の水も、土の色も、遠くの山の線も、春先の光の中ではどこか薄く霞んで、いかにも穏やかそうに見える。だが実際には、穏やかそうに見えるものほど、中に別のものを抱えていることがある。


境の村が、まさにそうだった。


小さな火が上がってから幾日か。

火そのものは消えている。

藁束も焼けきってはいない。

家が一面に灰になったわけでもない。

それでも村には、まだ煙の匂いが残っていた。


義重は、ついにその村の近くまで来ていた。


もちろん、真正面から「若君が見に参った」と乗り込んでいるわけではない。

父も老臣も、そこまで軽々しくは許さなかった。

だが第十九話までに、寺の裏手へ続く道と城下南の通り、消えた使いの足取りがかなり具体的になり、境の村の様子もまた若君の目に入れてよいだろうと判断されたのだろう。


「近くで見るだけにございます」


そう言った老臣の顔は、まったく信用ならぬ顔をしていた。

若君が「見るだけ」で済むなら、この男の胃はもっと丈夫でいられたはずだ。


村の手前、道が少しだけ高くなった場所で馬を下りた時、義重はまず匂いを嗅いだ。


焦げた藁の匂い。

湿った土の匂い。

川から上がる水気を含んだ風。

そして、人がまだ怯えている場所特有の、声の低い気配。


村そのものは立っている。

だが、立っていることと、元に戻っていることは違う。


田の外れに焼け跡がある。

黒くなった藁の残りがまだ片づけきれていない。

水を引く溝の脇には、踏み荒らされた跡が乾きかけている。

近くの家の戸は開いているが、開き方が少し用心深い。

子どもの声もある。

だが、どこか弾まない。


「……小さい」


義重がぽつりと漏らすと、老臣が横で応じた。


「火にございますか」


「違う」


義重は村を見たまま言う。


「傷だ」


老臣は何も返さなかった。


小さい傷。

だが、小さいからこそ厄介だ。


大きく壊されれば、怒りも向けやすい。

どこを直し、誰を責めるかもはっきりする。

けれど今回のような傷は違う。

家は残る。

田も残る。

人も死にすぎてはいない。

だから外から見れば「まだまし」に見える。

だが村の者には、その“まだまし”がじわじわ効く。


また来るのではないか。

今度はもっと奥まで来るのではないか。

城は本当に守る気があるのか。

そういう不安が、目に見えぬ煙のように残る。


若君はそれを、初めて実際の土地の上で感じていた。


村の名を覚えた。

舟を出す家があることも、薪道が冬に重みを持つことも知った。

だが、名や役目を知るのと、その場所の沈黙を受けるのとでは、まるで違う。


「若君」


老臣が低く言う。


「何だ」


「顔が、少し険しゅうございます」


「険しくなる」


「はい」


「これで“もう済んだ”とは思えぬ」


老臣は静かに頷く。


「思えては困ります」


その言葉に、義重は少しだけ横目を向けた。

老臣は村の外れを見ている。

いつもの穏やかな年寄りの顔ではあるが、その目はよく見ていた。


村の長らしい男と、郷のまとめ役がこちらへ来た。

若君の立場をあまり表に出しすぎぬよう、供は少なくしてある。

だが、見る者が見ればただの家臣筋の子ではないと分かるのだろう。

二人とも、どこまで畏まるべきか迷う顔をしていた。


老臣が先に話を整える。


「ご苦労であった。火の跡と、村の様子を確かめに参った」


長は深く頭を下げた。


「恐れ入りまする」


郷役の男も続く。


「薬も布も、確かに届きましてございます」


義重は、その言葉にわずかに胸の奥が動いた。


第十八話で命じた荷だ。

あの時は、自分の言葉がちゃんと届くかどうか、喉の近くでずっと重かった。

それが、たしかに届いたと言われる。

それだけで少しだけ、肩の力が抜ける。


だが、その安堵のすぐ後に、村の顔が目へ入る。


届いた。

それでも、不安は消えていない。


「怪我人は」


義重が問うと、長は少し驚いたように顔を上げた。

若君がまっすぐそこを聞くとは思わなかったのかもしれない。


「見張りの者二人は、まだ腕と肩に痛みが残っております。村の男の一人も、動けぬほどではございませぬが」


「田は」


「春先ゆえ、取り返しがつかぬほどではございませぬ。ですが、皆、夜を気にしております」


夜を気にする。


その言い方が、義重には強く残った。

田が焼けたとか、米が減ったとか、そういう分かりやすい損だけではない。

夜を気にする。

それは、もう暮らしそのものが一段狭くなっているということだ。


郷役の男が続ける。


「女や子どもらが、日が落ちる前に戸を閉めたがるようになりまして」


「舟は」


「出す者がおりますが、以前ほど気軽ではございませぬ」


「薪道は」


「まだ春でございますゆえ表立っては……されど、山手の者らも“次はこっちか”と顔色が変わっております」


義重は黙ってそれを聞いていた。


結局、守るとはこういうことなのだろう。


敵を討つ。

兵を出す。

それも守りだ。

だが、それだけでは足りない。

戸を閉めるのが早くなった村。

夜を怖がる子ども。

舟を出すのにためらう家。

山手まで伝わった顔色の変化。

そうしたものまで元へ戻さねば、「守った」とは言い切れない。


義重は、少しだけ自分の中の何かが沈むのを感じた。

刀を振れば済む話ではない。

分かっていたつもりだった。

だが実際の村の匂いの中で聞くと、その“分かっていたつもり”が薄く剥がれていく。


村を離れ、少し高みに戻ったところで、義重はようやく大きく息を吐いた。


老臣がそれを聞きとめる。


「若君」


「何だ」


「重うございますか」


「重い」


「はい」


「……誰か一人を斬れば済む話ではないな」


老臣は静かに頷いた。


「左様にございます」


義重は視線を前へ向けたまま続ける。


「分かりやすい黒が欲しくなる気持ちは、少し分かった」


老臣がわずかに目を細める。


「ほう」


「誰か一人の首を据えれば、全部そこへ押し込められる。そうすれば村の顔も、自分の腹も少しは楽になる」


「……」


「だが、それでは終わらぬ」


老臣は答えなかった。

答えぬことで、その通りだと示していた。


村の傷は、誰か一人の首では塞がらない。

内の綻びも、外の小勢も、道の揺れも、噂の広がりも、全部が少しずつ噛み合って村の夜を重くしている。


若君はようやく、それを肌で知ったのだ。


やがて老臣が、低く言った。


「若君」


「何だ」


「守るとは、壊されぬようにすることだけではございませぬ」


「うむ」


「壊れたものを、立て直すことでもございます」


義重はその言葉を、村の戸と、舟の話と、夜を気にする女たちの顔と一緒に受け取った。


立て直す。


それは、敵を討つより長い。

怒るより、ずっと根気がいる。

だが、その方が本当は大事なのだろう。


しばらくして、城へ戻る道すがら、若君は何度も後ろを振り返った。


村は遠く、春の光の中に薄く見える。

火そのものはもう大きくは見えない。

だが煙の残りは、まだ胸の内にある。


城へ戻ると、空気はまた別の重さで張っていた。


家中の疑いは消えていない。

消えた使いの件も、寺の裏手への出入りも、道役が二つに分かれているらしいことも、すべてまだ土の下でくすぶっている。


つまり、外の火も内の火も、どちらも消えていない。


村では火の跡。

城内では疑いの跡。

どちらも、ただ静かにしているだけで、終わったことにはならない。


その夜、義重は珍しく、自分から老臣を呼んだ。


「何でございましょう」


「第十話で、おまえは言ったな」


「いろいろ申しておりますが、どれにございます」


「若君は、もう“見て覚えるだけの御身”ではいられぬ、と」


老臣は少し黙り、それから答えた。


「申しましたかな」


「申した」


「では、申したのでございましょう」


義重は少しだけ眉を寄せた。


「とぼけるな」


「若君のお言葉は忘れませぬが、自分の言葉には時々自信がなくなります」


「ずるい」


「年寄りのたしなみにございます」


義重はそれ以上そこを責めなかった。

今夜は別のことを確かめたかったからだ。


「……俺は、まだ見ているだけか」


老臣は、その問いにはとぼけなかった。


しばらく若君の顔を見てから、静かに言う。


「いいえ」


「なら」


「ただし、いきなり前へ出られるわけでもございませぬ」


義重は頷いた。

それはもう分かっている。

若君が一人で駆けていって済むほど、事は軽くない。


老臣は続ける。


「若君は、もう“見て覚えるだけの御身”ではございませぬ」


その言葉は、前と同じでいて、今度はもっと重く聞こえた。


「見るだけでは足りぬ。ですが、動くにもまだ段がございます」


「段」


「はい。目で見る。足で見る。人を動かす。そして、最後はご自身が責を負う」


義重はそれを聞きながら、村で見た焼け跡と、城中の沈黙を思い出していた。


もう分かっている。

見ているだけでは足りぬ。

だが、闇雲に動けばもっと悪くする。

その間をどう進むかが、たぶん“当主になる”ということなのだろう。


「なら」


義重は低く言った。


「次は、もっと近くで見る」


老臣の目がわずかに細くなる。


「村を、でございますか」


「外も」


一拍。


「内もだ」


老臣は、そこで初めて深く頷いた。


「左様にございますな」


その時だった。


障子の向こうで、控えていた近習が息を切らせた声を上げる。


「若君! 老臣どの!」


「何事だ」


老臣が声を返す。


近習が入ってきた顔は青い。

ただ急いだだけではない。

報せそのものが嫌な形なのだろうと、義重にはすぐ分かった。


「境の方にございます」


「申せ」


「また小勢が動いたとのこと! 今度は見張りだけでなく、村の外れで荷を持つ者どもへも手をかけた由!」


義重は、胸の内で何かがひとつ定まるのを感じた。


やはり終わっていない。

小さな火は、まだ消えていない。

むしろ、こちらの出方を見ながら、次の小さな刃を寄越してくる。


老臣もまた、その報せを聞いて若君へ視線を向けた。


見て学ぶだけの時期は、もう終わりに近い。

次は、もっと足を入れねばならぬ。

内も外も。


義重は短く言った。


「……分かった」


「若君」


「次は、外も内も、もっと近くで見る」


その言葉は、自分自身へ向けたものでもあった。


春の村には、まだ煙が残る。

そして城の中にも、見えぬ火は残っている。

若君はその両方を抱えたまま、次の段へ足をかけようとしていた。

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