第九話「そこに、ひとつ足りないもの 」
……どこか深くから、助けを呼ぶ声がした。しばらく耳を傾けていると、それは小さな振動だとわかった。奈月は原稿を見つめたまま、右手でトートバッグを引き寄せると、底で小さく震えるスマホを救い出した。
「いま出た、すぐ着く」
それは恐ろしく短い、あの人からのメッセージだった。冷たく事務的な文面からは、普段の体温がまるで感じられない。奈月は、自分がどこかに取り残された気がした。わずかな温もりを手繰り寄せようと、スマホの画面を指でなぞり、これまでのあの人とのやり取りを読み返してみる。まるで、祈りを捧げるような仕草だった。しかし、そこに連なるのは、意味のわからない文字の羅列ばかりだった。
「繧ゅ≧譎る��俣縺後↑縺」
「鬮倥″繧ュ繝溘?xxQs繧剃セ?縺?※縺?k///、」
「逶ョx縲ょヲャマセ 早xXS....繝?繧ュ」
ふと奈月は、この文字に懐かしいインクの匂いを感じた。そして、壊れた機械がひたすら同じ動作を繰り返すように、ただ無心で上から下へと指を滑らせ続ける。
やがて、「鬮倥″繧ュ繝…繝「縲×××縺ァ縺�繧�繝ウ…」という文字が繰り返されるだけになって、ようやくその動きを止めた。
ほとんど溶けてしまったストロベリーサンデーをスプーンですくい、奈月は他人事のように口の中に放り込んだ。なんの味もしなかった。
カフェの店内は、ランチタイムらしい客のざわめきが響いていた。しかし、奈月の目に映るのは、朝、ここに来た時と変わらない、二三人の客がまばらにいるだけの店内だ。その客は相変わらず無口で、店員は、いつまでもカフェラテを淹れ続けていた。
カフェのソファーに座ってから、もう一時間以上になる。断片的に届くメッセージとは裏腹に、あの人は一向に現れない。気配はあるのに、実体がないのだ。波打ち際で永遠に揺れるビーチボールのループ動画のように、奈月には終わりが見えない。それどころか、もはや、始まりすら正確に思い出せなかった。
「妙な胸騒ぎがする……」奈月がそう感じる一方で、カフェの店内はゆったりとしたBGMを流し続け、コーヒーカップはぶつかり続け、優しく降り注ぐ日差しは窓際で揺らめき続け、お気に入りの緑のソファーは際限なく存在し続けていた。
「心配など、ない」奈月はつぶやいた。
ただ、ひとつ足りないのは、始めに注文したコーヒーがすっかり冷めてしまっていることだ、と奈月は思った。何か温かい飲み物をオーダーしよう。そして、また、あの原稿の続きを読もう。そうすれば、まもなくあの人はここにやってくるだろう……、きっと。
さっきまで感じてたいた胸騒ぎは、いつの間にか消えていた。奈月は店員を呼ぶと、笑顔と共に言った。
「紅茶ください、ひとつ。ミルクをたっぷり入れて」
そして、再び〝喫茶セレニティ〟へ、沈んでいった……。




