第八話「鈴木か佐藤か、斎藤か 下」
ボクは美花の話が聞こえないふりをしてカウンターへ行き、太宰が飲んでしまった白石のアイスカフェオレの代わりを作り始めた。なぜ白石はいつもアイスカフェオレを注文するのだろう。真冬でも、真夏でも、決まってアイスだ。
「マスター! ちょっと、何してるんですか。早く名前を聞いてきてくださいっ」
美花がボクを咎めるように言った。太宰と白石も視線で圧をかける。ボクは何も答えずにアイスカフェオレを作り続けた。美花は、あるはずの会話が不意に途切れたからか不機嫌そうだ。
そもそも、どうやってあの客に名前を聞けというのだ。白石ほどではないが、結構な頻度でお店を利用している常連客だ。「すみません、どなたでしたっけ?」とでも言えばいいのか。恐らく、聞いたが最後、二度と来店することはないだろう。
だいたいあの客の名前がムハンマド、グエン、李のどれでもないことは、聞く前からわかっている。なんなら鈴木か佐藤か、斎藤である可能性の方が遥かに高いと思う。
そんなことをぼやっと考えているとカフェオレができた。「じゃあ──」ボクは息継ぎのように言うと、美花にアイスカフェオレを差し出した。そして「これを白石さんに持っていってくれる?」と頼んだ。
それから、カウンターに置いてあったトレーを小脇に抱えて、入口脇のあの客のテーブルへと歩いて行った。ボクは過去の自分を呪った。なぜ、あの客の名前を王だなどと言ったのだろう。ん、名前、そうか……。
ボクは、テーブルの脇に立つと、三人に会話が聞こえないように注意しながら、あの客に尋ねた。
「お客様、コーヒーのおかわりはいかがですか」
客は本を読む手を止めると、ボクの目を見て淀みなく答えた。
「あ、大丈夫です。もう1時間近く遅れてるから急がないと……」
そして、最後に「ありがとう」と付け加え、少しぎこちない笑顔を見せると、誰が淹れたのかわからないコーヒーを一口すすって、また読書に戻っていった。
「わかりました。それでは、時間の許す限りゆっくりしていってくださいね」
ボクはそう言い残してテーブルを離れた。なぜ1時間も遅れているのに、まだ読書を続けているのか不思議に思った。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。ボクの興味はいまや、さっき閃いた名前にあった。
「で、どうだい。彼の名前はわかったかい?」
太宰が身を乗り出して尋ねる。
「ええ、わかりました」とボクは言った。
「でもその前に、この店にいる人は一人は必ず嘘を言い、一人は必ず真実を言う。そしてもう一人は必ず適当なことを言います。さて、ボクの話は真実でしょうか?
そう宣言してから、ボクは「あの人は〝ジョン・ドゥ〟です」と、三人に伝えた。
「ジョン・ドゥって何? 本当にあのお客さんがそう言ったんですか!?」
美花は、ほぼ触れるくらいの距離に近寄ってボクを問い詰める。ボクは明後日の方向を見て、ただ「フフフフ」と不適な笑みを浮かべるだけで、何も答えない。
「非常に興味深い。意図的に身元を隠しているのか、あるいは、そう思わせたいのか……」太宰はつぶやく。
「多分、アメリカかイギリスの名前だよね。あの人どう見ても日本人顔だけど!?」美花が続けた。
「その前に、山崎くんの話の信ぴょう性を考慮しなければならない。真実か嘘か、適当か……」
太宰はもっともらしく言うが、それを言いだしたのは太宰の方だ。
「あー、もう、この店にはまともな話のできる人が一人もいないの!?」美花が嘆きの声を上げる。
「まったくです」白石は美花に共感するような口調で言う。「私たちは、あの人の名前が知りたいだけなのに……」
そんな三人の様子を、ボクは満ち足りた思いで眺めていた。思いつきで言った名前はボクの予想を遥かに超え、彼らを大混乱に陥れていた。「さて、そろそろ閉店準備を始めよう」そうボクが言おうとしたとき、白石がぽつりと声を上げた。
「あれ、あの人がいない」
「え!?」全員が店内を見回すと、客はいつの間にかいなくなっていた。
テーブルの上に残されたコーヒーカップだけが、その気配をボクたちに伝えている。ふと、カップの下に、五センチ四方の紙切れがあるのが見えた。その紙切れを手に取って裏返すと、そこには赤い文字が記されていた。
「あと2日」
ボクは一瞬、その文字が仄かに揺らめいた気がして、咄嗟に紙切れをくしゃくしゃにしてポケットへ突っ込んだ。誰も気がついていないようだった。
すると、美花が何かを思い出したように声を上げる。
「ねえ、あの人お会計した!?」
ボクらは一斉にお互いの顔を見合わせて、ゆっくりと首を振った。




