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第七話「鈴木か佐藤か、斎藤か 中」

 それはボクからの宣戦布告だった。不意を突かれた美花と白石は、理解が追いついていない。作戦通りだ。しかし、太宰は違う。何かを探るような鋭い目つきでボクを見据えている。


「ほう、興味深い……。それは、なぜだい?」


「簡単なことですよ、太宰さん。ワンという苗字は、中国に一億三千万人くらいいますから、確率論からいっても、あの人が王さんである可能性は極めて高い……そうでしょう?」


 いや、そんなわけない。あのお客さんが王さんではないことぐらい、ボクにも想像がつく。どう見ても日本人の顔だ。いくらなんでも無茶苦茶な理論だ。さすがに彼らも馬鹿らしくなって、こんなお遊びは止めるだろう……ボクはそう望んでいた。


 外はもう、すっかり暗くなっている。雨が降ってきたのか、傘を差した会社員が店の脇を通り過ぎるのが見えた。今日は忙しかったし、少し早く店じまいしてもよさそうだった。


「確かに。ネットで検索すると、中国本土で一番多い苗字は王です」


 白石はナポリタンを食べながら、スマホを片手に言う。控えめな口調だが、その声には熱がこもっていた。美花はスマホの画面を確認して、怪訝な表情でボクに詰め寄る。


「マスターは、なんでそんなこと知ってんの!?」ちょっと顔が近い。


 ボクは何も答えずに少し顎を突き出し、ゆっくりと頭を振った。

 そこで会話が途切れ、妙な間が訪れた。一瞬、誰かが覗いているような気がした。最近、たまにこういうことがある。誰もいない店内で、カップのぶつかる音がしたり、エスプレッソを抽出する音が聞こえたり……。

 見回しても、特に違和感はないように見える。同じように見回していた太宰と不意に目が合う。鋭い目つきのままだ。太宰はポケットから赤いペンとメモ帳を取り出して何かを書きつけた。今日の太宰は何か変だ……いや、いつも変か。


 結局、あの客の名前はわからずじまいだ。でも、もう、どうでもよくなってきた。ボクは閉店準備を始めようと、美花に「そろそろ──」と言いかけた。それを太宰が遮る。


「ムハンマド……」まるで独り言のように太宰は言った。


「世界で一番多い名前は〝ムハンマド〟だ。細かいスペルや発音の違いをすべて含めたら、世界中で推定一億五千万人以上いる。確率で論じるのなら、無視できない数字だと思うが」


 太宰は畳みかけるように言うと、テーブルに置いてあったアイスカフェオレを一気に飲み干し──普段は紅茶しか飲まないのだが──、「ふう」とため息をついた。それは、白石が注文したカフェオレだ。


「あ……」白石が嘆きの声を漏らす。


「地域で限定するならベトナムの〝グエン〟も多いよ。世界で四番目に多い苗字だから、確率で言えばあり得るね」


 スマホを手に、食い入るように見ていた美花が続く。それは、白石のスマホだ。


 グエンが世界で多いのは、別に自分の手柄ではないだろうに。なぜ美花はしたり顔なのか。

 スマホを白石に手渡すと美花は、空いた右腕を白石の頭に軽く乗せ、そのまま頬杖をついて寄り掛かった。白石は嫌がるどころか嬉しそうだ。


「世界で言ったら〝リー〟は、漢字文化圏全体で多い苗字ですよ。ざっと一億人以上はいるはずです」白石も続く。


「中国では功績を挙げた家臣などに、皇帝と同じ苗字を与える習慣があったそうだ。特に李は唐王朝の建国者の苗字だから、その影響が大きいといえる。加えて、中国や韓国は苗字が極端に少なくて──」 太宰は誰も求めていない補足説明を始める。


 美花と白石は太宰の話を食い入るように聞いている。……またこのパターンか。なんだか嫌な予感がしてきた。さっき、話を終わらせられる雰囲気のうちに、強引に終わらせておけばよかった。ボクはそんな後悔を抱き始めていた。いや、まだ間に合う。いますぐ、この無意味な議論から抜け出して、閉店準備を始めるべきだ。


「マスター!」そう言うと、美花がボクの腕を掴む。


 ……遅かった。


「マスターの提案を受けて、あたしたち三人で論理的かつ活発な議論を交わした結果、あのお客さんの名前は、確率論的に判断して、ムハンマド、グエン、李のいずれかであると結論付けました」美花は言った。


 ボクが提案したのは王だ。それを入れずに、一体何を「受けて」いるのだろう。誓ってもいいが、あの人は日本人だ。そもそも、ここにいる全員が、以前、あの人と会話をしたことがあるから、苗字を知っているのだと思うのだけれど、その大前提はどこへ行ってしまったのだろう。


「マスター。あの人の名前を聞いてきてください!」


 ボクは逃げるように、ふっと外へ目をやった。降り出した雨が強くなっているようだ。その中を、赤い傘を両手で握りしめた女性が、足早に通り過ぎていった。

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