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第六話「鈴木か佐藤か、斎藤か 上」

 その日、店は忙しかった。ボクとアルバイトの黒川美花くろかわみかは、なんとか客を捌くために奮戦していた。

 太宰はずっと二階に籠って、たまに本を落とす音を店内に響かせていた。たぶん、調べものでもしていたのだろう。夕方過ぎにようやく降りてきて、「なにか手伝おう」と言ってエプロンを着けたものの、その頃には、店はすっかり落ち着きを取り戻していた。


「太宰さん、手伝いに来るの、遅いです」


 美花は眉間にしわを寄せて抗議する。


「ごめん、コンタクトレンズを落としちゃって……探してたんだ」


 太宰は眉毛を下げて答える。ん、コンタクトをつけているなんて初耳だ。


「それならしょうがないけど、今日、めちゃくちゃ忙しかったんですよ。あたしとマ

スターで手一杯。太宰さんの手も借りたかったくらい。本当は猫の手の方がマシだけど、いないし」


 美花は少しきつい冗談を言って軽やかに笑う。この子は昔と少しも変わらない。実家はすぐ近所で、小学生の頃から父親に連れられて、よくクリームソーダを食べに来ていた。昨年、武蔵野美術大学に合格すると「クリームソーダが作りたいから」という理由で、募集していないアルバイトに志願してきた。

 そんな話をしていると、客が一人、店の扉を開けて入ってきた。


「こんばんは。マスター、いつものを頂けますか」


 客は白石喜平しらいしきっぺい。この時間によく来店する常連客だ。面長の顔にフレームのない丸メガネがよく似合っている。柔らかい物腰の中年男性だ。地味な服装のせいか、実際の年齢よりも少し老けて見える。後退した額の生え際が、それに拍車を掛けた。


「あ、白石さんこんばんは。ナポリタンとアイスカフェオレですね」


 そう応えると、ボクはカウンターに下がって調理を始めた。美花が慣れた手つきでコーヒーをドリップする。

 ふと店内を見渡すと入口脇のテーブルに客の姿が見えた。読書をしながらコーヒーを嗜んでいる。喫茶店ではいたって普通の光景だ。だが、気になって美花に尋ねる。


「入口のところにいるお客さんの注文、美花ちゃんが取ったの?」


 美花は手を止め、ちらっと見てから答える。


「してないです。……ていうか、あのテーブルにお客さんいたっけ!?」


「だよね、ボクも見覚えがない。でもコーヒー飲んでるし、誰かが注文を取ってるはずだよ」


 ボクと美花は顔を見合わせ、同じタイミングで太宰に顔を向ける。そして、思ったことを同時に口に出した。


「いや、ないない……」


 ボクらは再び顔を見合わせて吹き出した。


「あたし、太宰さんが注文取ってる姿が想像できない」


「いや、一度あったんだよ。でも、お客さんの前で固まっちゃって、口をパクパクやってるだけだった」ボクがそう言うと、美花は腹を抱えて笑った。


 ただ、さっきから気になっていることがある。ボクはあの客の顔を知っている。あからさまに日本人顔で、これといった特徴のない容姿。逆に、その特徴の無さが特徴にさえ感じる。白石と同じように、この時間によく来店するお得意さん、だと思うのだが名前が出てこない。


「ねえ、あのお客さん誰だっけ?」


 美花に尋ねると、考える間もなく即答した。


「やだな、あの人は常連の〝鈴木〟さんでしょ」


 ……なにかが違う気がする。しかし、まるで思い出せない。思案していると、太宰が出来上がった白石の注文を取りに来た。美花がすかさず尋ねる。


「太宰さん、入口のテーブルにいるお客さんは鈴木さんですよね」


 太宰も客を見て即答する。


「いや、あの人は〝佐藤〟さんだよ。おかしいな、さっきまで、あそこには誰もいなかったと思うが……」


 いよいよ雲行きが怪しくなってきた。客はいつの間にか座っていて、名前を思い出そうとすると記憶が遠ざかっていく。最後の望みは同じ時間帯の常連、白石にかかっていた。太宰は白石に注文を運びながら尋ねる。


「白石さん、あそこにいるお客さんは、佐藤さんですよね」


 すると、白石は拍子抜けした顔で即答する。


「え? あの人は〝斎藤〟さんです」


 ……誰!? なぜ人に客の名前を聞くと、芋づる式に選択肢が増えるのだろうか。結局、問いは振り出しに戻ってしまった。いや、悪化したといってもいいだろう。頭を抱えているボクに、太宰は薄ら笑いを浮かべて、さらに追い打ちを掛ける。


「さて、この三人の発言のうち、一人は必ず嘘で、一人は必ず真実だ。そしてもう一人は適当なことを言っている。さあ、君は誰の言葉を信じるんだい?」


 はぁ!? そんな、前提のぶっ壊れたロジックなど、答える前から破綻している。そもそもボクは、ただ名前が知りたいだけだ。難しいことじゃない。しかし、この店に限っては、それが容易ではないらしい。なんだか腹が立ってきた。

 ……じゃあもういい、ボクが勝手にあの人の名前を決めたら、三人はどんな顔をするだろう。


「あの人は〝ワン〟さんにする!」


 ボクは心の中でほくそ笑んで、そう宣言した。

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