第五話「サンデー、マンデー、ストロベリー」
奈月は原稿をめくる手を止めると、思わず吹き出した。はっとして店内を見渡す。幸い、どの客も気づいていないようだ。胸を撫で下ろすと、また笑いが込み上げてくる。自分でもどう表現していいのかわからない表情を浮かべて、その波が去るのを待った。
ソファーを照らしていた日差しは、もうかなり高くなっていた。窓際に残るわずかな光が、背比べをするように揺らめいている。カップのぶつかる音に混じって聞こえる、微かな会話がぼんやりと耳に響く。
「もう、お昼か……」
奈月は揃えていた足を投げ出して、ソファーに深く体を預けた。スマホには何の通知も届いていない。ふと、さっきまで読んでいた原稿を思い出す。笑えるのに、少しだけ、奇妙。そんな、不思議な印象だった。たぶん、作者もそういう人なんだろう。
そもそも、なぜ、この原稿がここにあるのか……奈月にもよくわからない。ある朝、出社すると原稿がデスクに置かれていた。一目でコピーだと気づく。「……校正かな」。出版社勤めの奈月にとっては通常業務だ。それはいい。ただ、わからないのは〝誰が置いたのか〟だ。上司や同僚に聞いても心当たりがないという。
腑に落ちないまま、奈月は、とりあえず原稿を読み進めた。そして、すぐに魅了された。くだらない日常が淡々と描かれているだけ、文章も上手いとは言えない。でも、なぜか読み進める手が止まらない。周囲の雑音すら耳に入らなかった。
物思いにふけっていると、エスプレッソを抽出する「シュー」という低い音が、奈月の鼓膜をノックした。応えるように、サイドテーブルに置いたスマホが震える。〝あの人〟からのメッセージだった。
「やっと終わった。いま、向かいます」
奈月はスマホの画面に指を滑らせ素早く返信する。
「全然、大丈夫です。何かありましたか?」
「駅の改札で、コンタクトレンズを落とした人がいて、駅員さんと一緒に大捜索していました。誰かとぶつかった拍子に外れてしまったみたいで……」
内心、時間に無頓着な人なのかもと心配したが、その言葉には、奈月が思い描いた通りの温かみがあった。些細なやり取りが安堵を運ぶ。
話を終え、スマホをサイドテーブルに戻すと、指先が何か冷たい物に触れた。そこには、さっき注文したサンデーが置かれている。奈月は違和感を覚えた。
これは──いつ持ってきたのだろう?
よほどメッセージのやり取りに集中していたらしい。注文が運ばれてきたことに、まるで気が付かなかった……。
いや、そうではない。ついさっき、スマホを取るときには、確かに無かった。店員はカウンターでカフェラテを淹れている。サンデーを持ってきた素振りや気配は感じられない。
それに、サイドテーブルにあるのは、色鮮やかな「ストロベリーサンデー」だった。注文したのは、チョコレートサンデーのはずだ。奈月は、それを横目に見ながら、店員を呼ぼうと手を挙げた。しかし、すぐにひっこめた。
「ま、いいか」
そうつぶやくと、脇に置かれた細長いスプーンを取り、苺色のクリームをすくって口に運んだ。奈月の顔が、とろける。原稿に手を伸ばすと、奈月は、そのまま物語の続きに吸い込まれていった。
どこかで、扉の閉じる音がした。




