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第十三話「ここは、私の席だ」

 身体が涙を欲していた。頬を伝う涙はぽつぽつと原稿に流れ落ち、文字の周囲を赤く滲ませる。奈月が慌てて原稿の涙を払うと、滲んだ赤はすっと一筋の線を描いた。


 奈月は、子どものころ、母親に読んでもらった絵本を思い出していた。保育園に連れてこられた男の子が、帰ってしまった母さんを恋しがって「あーんあん」と泣き出す話だ。他の園児たちがつられて一斉に泣き出すと、その涙が溜まって池になり、園児たちは魚になってしまう。最後は母さんが網とバケツを持って、魚になった男の子を助けてくれる。


 絵本と同じように、このカフェにいる人たちが一斉に泣き出したらいいのに……奈月は思った。涙が溜まって魚になって、どこか遠くへ泳いでいけたなら、どんなにいいだろう。魚になって、いつか遠足で見た玉川上水の取水堰を越えて、どこまでも遡上して、冷たい湧き水のせせらぎにゆられてみたい。想像すると心地よい気持ちになれた。


 そんな思いを巡らせれば巡らせるほど、奈月の頬は余計に涙で濡れた。しかし、いくら奈月が泣いても、その涙はせいぜい原稿の文字を滲ませるだけで、池にもならず、他の客も一緒に泣いてくれることはなかった。


 差し込む午後の日差しが、店内のあらゆるものを柔らかな光で照らす。テーブル、ティーカップ、花瓶、伝票、ストロベリーサンデー、ソファー……。そして、その反対側に切り絵のようにくっきりとした影を落とす。その影は、わずかだが確実に、奈月に向かって伸びているように感じられた。

 客のざわめきがそよ風のように、近づいたり遠のいたりして微睡を誘う。奈月は、なんだか息苦しさを感じて、天井を見上げ、深呼吸をした。ほのかにエスプレッソの香りが漂う。


 そもそも、〝あの人〟を待つことが正しいのかすら、奈月にはもうわからない。それだけが、この最悪の二週間を乗り切るための唯一の糧だった。でも約束の時間はとうに過ぎている。いつの間にか遅れることを知らせるメッセージの音沙汰もない。


 それでも奈月は、あの人の物語の端々に感じられる温かさに、どうしようもなく心を奪われていた。メールのやり取りはしていたが、顔はおろか、声すら聞いたことがない。出所のわからない原稿だけで繋がっている見ず知らずの人に、奈月は魚をすくいあげてくれる〝網とバケツ〟を重ねていた。いや、そうあって欲しいと切望していた。


 急にひどい寒気がした。始まったばかりの夏を差し置いて、奈月の座るソファーの下には凍るような寒さが迫っていた。慌ててサイドテーブルのティーカップを握ると、その温もりを何度も喉の奥へと流し込む。じんわりとした温かさが身体に染み渡ると、奈月の涙は自然に止まった。


「これが、ミルクティーじゃなくて、あの人の温もりだったらいいのに……」そんな思いが、ふっと、心をよぎる。奈月はあの人の手を握って、直接〝生きている〟体温を感じたいと望んだ。


「でも、そんなことしたら、怒られるかもしれない……」


 冷静に考えたら、会ったこともない人に望むようなことではない。奈月は勝手な妄想をしている自分に、思わず頬がゆるんだ。

 ニヤけた途端、これまでの緊張の糸がぷつっと切れた。心は緩み生ぬるい安心感に染められていく。「やっぱり待とう」迷いは消えていた。


「トイレ……!」奈月はトートバッグから化粧ポーチを無造作に掴み取ると、不意に席を立ち、カフェの奥にある化粧室へ駆け込んだ。

 サイドテーブルに残されたティーカップはすっかり空になっていた。使わなかった角砂糖がひとつ、恨めしそうにソーサーの上で佇む。


 トイレのあと、手洗い台に備え付けられた鏡で、奈月は自分の顔を眺めた。アイシャドウはすっかり落ちて、パンダのような隈取りが目元をあしらっている。酷い顔だと思った。「こんな顔、あの人に見せられないよ」。奈月は時間をかけて化粧を直し、なんとか見られるように頑張った。


 化粧室のドアを開けると、店内の様子が変わっているように感じられた。どこか、別のカフェにいる気がする。しかし、景色は今までいた吉祥寺のカフェと何も変わらない。ただ、わずかに異なる匂いが店内を埋め尽くしている。


 困惑を覚えつつ自分の席に戻ると、奈月の窓際席に知らない男が一人で座っていた。男はこちらに背を向けて、左側に置かれたソファーをぼんやりと眺めている。窓から差し込む日差しが男の横顔に輪郭を描き、まるで絵画のように現実感がない。


「あの、すみません。そこ、私が座っていた席なんです……」


 声をかけると男は、ゆっくりとこちらを向き、細い目で奈月を見据えた。日差しが薄っすらとした影を男の顔に落とす。左腋には三つ折にした新聞紙を挟んでいる。そして、奈月の問いに答えた。


「ここは、私の席だ」


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