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第十四話「あの男は右側に座る」

 男は背が高く痩せていて、襟のない黒っぽいシャツを着ていた。清潔そうな身なりは、一見サラリーマン風だ。しかし、髪は所々で跳ねていて、無精ひげが顎や頬を覆っている。しかも、足元はなぜかビーチサンダルだった。どこかちぐはぐな男の容姿は〝世捨て人〟のような印象を奈月に与えた。


 その間も男は猫のような細い目で、ある種の思慮深さを湛えたまま、横顔で奈月を凝視していた。そして、おもむろに左手をソファーのひじ掛けに置くと、その体勢をさらに奈月の方へグイっと向けて座り直した。左手の甲に大きな〝古傷〟が見えた。


 奈月はその傷に見覚えがあった。つい最近、これと同じものを見た気がする。「もしかして、この人を知っている?」そう感じたが、どんなに記憶の糸を手繰り寄せても何も思い出すことができない。仕方なく奈月は、再び男に声を掛けた。


「そこ、私が座ってました。トイレに行ってたんで。飲みかけの紅茶や……、荷物も置きっぱなしです」


 男の足元に奈月のトートバッグが置かれていた。サイドテーブルには、すっかり溶けたストロベリーサンデーとコーヒーカップ、そしてティーカップがある。ソーサーにあった角砂糖を見つけると、男はそれを指でつまんでクルっと回転させた。それから、思いついたように振り返って言った。


「隠し味は砂糖だ」


「えっ……」


 隠し味、新聞紙、右側の席、細い目、そしてティーカップ──。奈月の中でバラバラだったピースがひとつに繋がった。「そっか、ツナサンドの……。確かに隠し味ってほどじゃない」奈月は男に親しみを感じ始めていた。


「ひょっとして、太宰さんですか?」


 奈月が聞くと、男は頷いた。これまで奈月は、太宰は山崎の創作した作中キャラクターだと考えていた。あまりにも現実離れした人物だったから、まさか実在する人物がモデルだとは夢にも思っていなかったのだ。奈月は勝手に眼鏡を掛けているイメージを抱いていたのだが、それは外れていた。


 太宰がここにいるのなら、山崎も来ているはずだ。そう思ったのだが、店内を見回しても姿は見当たらない。もっとも、奈月は山崎の容姿を知らない。


「それで、山崎さんは……?もう二時間近く遅れてます」奈月が尋ねる。


「知らない」


 太宰は素っ気なく答える。まるで原稿から飛び出してきたような、作中そっくりの態度だ。奈月は妙な興奮を覚えながら尋ねる。


「……じゃあ、太宰さんは何しにここへ来たんですか?」


 まさか、来る途中で山崎の身に何かあったのではないかと、奈月は少し不安を感じた。太宰はそんな心配をよそに自分の話を続ける。


「君を助けに来たんだ。 あとこれ……」


 太宰はそう言って、文庫本サイズのリング式のメモ帳を差し出した。ずいぶん使い込まれていて、表紙にはコーヒーをこぼしたような染みが点々とあった。


 ページをめくると、赤い文字で「異臭さわぎ」「チョコレートサンデー」「エスプレッソマシーンの音」と書きなぐられている。しかし、奈月には、このメモ帳の意味も、太宰の意図するところもさっぱりわからない。


「そこにある通り、君に残された時間は少ない」太宰は諭すような口調で言った。「水遊びは、浅瀬でチャプチャプやっているうちは楽しくていい。ただ、足が付かなければ、もう遊びじゃない」


 言い終えると、太宰は満足そうに微笑んだ。「さあ、これでちゃんと理解できたね」とでも言いたげな表情だった。

 しかし、奈月にとってこれは、数学の難解な方程式を家庭教師に教わっているようなものだ。問題は解けても理解が追いついていない。

 何より厄介なのは、当の太宰は、肝心な箇所の説明がごっそり抜け落ちていることに、気づきもしていないことだ。せっかく開き始めていた奈月の心は急に突き放され、困惑の殻へと後退りした。


 メモ帳の意味を一向に理解しない奈月に、太宰は確信を突く質問をした。


「君は、いったい誰を待っているんだい?」


「え、誰って、だから、この原稿の作者の山崎さんです……。太宰さんのお友達でしょう?」


 しばらくの沈黙が流れた。外の日差しは何色なのか、奈月の目にはもう映らない。ただ時間だけが流れていく。

 太宰は、焦燥とも辟易ともとれる表情を浮かべて大きく息を吸い込むと、ゆっくり吐き出しながら言った。


「山崎なんて男は、はじめから存在しないんだよ……」


 太宰の手から、奈月はすり抜けようとしていた。

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