第十二話「地球最後の夜 下」
父が行方不明になったときと同じだ。ボクは既視感を覚えた。
父は、閉店間際に「ツナ缶を取りに行ってくる」と言い残したまま、二度とバックヤードから戻ってこなかった。二カ月前の話だ。普通に〝いなくなった〟のではない。美花や常連客はおろか警察や市役所に至るまで、父がいたことを示す証拠ごと消えてしまったのだ。
それは、ボクも例外ではなかった。他の人たちよりずっと緩やかだが、いまや父の存在を示す痕跡はボクの記憶からも抜け落ちようとしていた。
「茜、どうした? 早く第二ラウンドやろうぜ」
横瀬がボクを急かす。白石が消えたことよりも、勝敗の行方の方が気になるようだ。ボクは黙って応じた。横瀬のカードをシャッフルしながら、それとなく尋ねてみる。
「ねえ、白石さん、帰っちゃったのかな」
「誰のこと?」横瀬はそっけなく答えた。
「さっきまで、ここに五人いたの覚えてない? ボク、お前、蒼井さん、美花ちゃん、そして白石さん」ボクは言った。
それを聞いた横瀬は視線を逸らし、困惑した表情で蒼井に助けを求めた。蒼井も首を傾げている。この様子だと蒼井の記憶も怪しい。
「あっ……、五人いたわ」何かを思い出したように、蒼井が明るい表情で言った。「太宰さんを忘れてた。ここには、確かに五人いるよ」
「なんだ、そういうこと!?」
横瀬が大袈裟にリアクションする。ボクはもう何も言い返せなかった。太宰は相変わらず、そのやりとりをじっと見ていた。
第二ラウンドは、さっきとは打って変わって早い展開になった。横瀬は「遅すぎた援軍」カードを起点にして、あっという間に自軍を編成してみせると、狙ったように「最後まで立つ男」を切って勝利した。
続く第三ラウンドも、横瀬があっさりと勝ちを奪う。さすがは数々の大会で磨き上げてきたヨコセ・ブリッツだ。その強さは伊達ではない。
「よっしゃあああ!」
横瀬は両手を突き上げて勝利を噛み締めた。ボクは大人気ないと感じながらも、どこかその様子を懐かしく見ていた。そして、微笑みながら言った。
「喜びすぎだろ。まるで子どもみたいじゃん。ねえ、蒼井さん」
返事は聞こえない。
「蒼井さん?」
蒼井はどこにもいなかった。見回してみても、そこにいた痕跡すら感じない。白石に続き蒼井も消えた。もうゲームどころではない。だが、ボクのシャッフルする手は止まらない。どうしてもゲームの続きをしたい衝動が抑えられない。
「山崎くん」
窓際の席でこのやりとりを見ていた太宰が、音もなくテーブルの脇に立っていた。
「太宰さん、これは……」
止まらない手をそっと包むように、太宰が上から手を乗せると、山崎はようやく動きを止めることができた。
「わかってる。いまは、とりあえずゲームを終わらせよう。ジャッジを引き継ぐよ」
「ジャッジ、できるんですか?」と、ボクは聞いた。
「ずっと見てたからね、だいたいわかったよ」
太宰は目を細くして微笑んだ。ボクは少しだけ安心した。
横瀬と美花はお互いに笑い合うばかりで、なぜか、これまでより希薄な存在になった。横瀬は無意味なカードを繰り返しプレイし、鮮やかなブリッツは精彩を欠いていた。すでに、まともな勝負は成立していない。
ラウンドの途中で美花も消えた。そんなことはもう誰も気にしていない。喫茶セレニティの店内では閉店準備を放置したまま、残された三人が意味のない勝敗を巡ってカードゲームに興じていた。それはちょうど、壊れたメリーゴーランドが、いつまでも回り続けるようなものだ。どこが始まりでどこが終わりなのか。誰にもわからない。
山崎は簡単に第四ラウンドに勝利を収め、勝敗は第五ラウンドにもつれ込んだ。
「レッツサバイブ!」
太宰が最後の試合開始を告げる。しかし、山崎の対面には、もう誰も座っていなかった。テーブルにはカードが無造作に散らばっている。その中に「見知らぬ部屋」と書かれたカードがあった。初めて見るカードだ。どんな効果なのか気になって手を伸ばした。そして、山崎がそのカードに触れた途端、別の手に持っていたカードがパラパラとテーブルの上に散らばった──。
店内は、誰かの瞬きの音が聞こえそうなくらいの静寂に包まれた。
太宰はテーブルに残されたカードを集め、側面をトントンと叩いて揃えてから、シャツの胸ポケットに収めた。しんとした店内は普段と何も変わらない安らぎに満ちている。〝地球最後の夜〟が明けようとしていた。
窓の外には朝焼けが垂れ込めて、玉川上水の流れを赤く染め上げている。その赤をうんざりするような表情で眺めていた太宰は、深いため息を漏らすと、カウンターまで歩いて行き、ティーカップを取って紅茶を淹れ始めた。
山崎が作り置きしたポットの電源は切れ、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。壁の時計が嘆くように午前六時ちょうどを告げる。
太宰は、紅茶にたっぷりのミルクを注ぎ、カウンターに置かれていた朝刊を左腋に挟み、窓際に並んで置かれた二脚のソファーまで歩いて行って、右側の席に座り、紅茶をサイドテーブルに置いた。そして、おもむろに朝刊を広げた。
◆
「熱っ」
奈月は、いつの間にかサイドテーブルに置かれていたミルクティーをすすって、そうつぶやいた。無言で注文が置かれることに、もはや違和感すら覚えない。ミルクティーの温かさが口に広がり、奈月の心を満たしていく。しかし、やはりなんの味も感じない。
ふっと、何かが奈月の頬を伝った……、涙だった。堰を切ったように頬を伝い、次々と溢れてくる。なぜ泣いているのかはわからない。悲しいことなどなにもないのに。
溢れる涙をぬぐいもせず、奈月はただ、壊れたメリーゴーランドの雄叫びを待っていた。




