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神代先生のお世話日誌  作者: 志に異議アリ


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9/21

第10話 裏切られる女



この日もいつもの珈琲店だった。


最近ここへ来る頻度がおかしい気がする。


神代先生のせいだ。


たぶん。


店主はもう何も言わない。


俺が来るのが当然みたいな顔をしている。


それも少し腹が立った。


────────


「田中くん」


神代先生が言う。


「はい」


「今日は相談があります」


嫌な予感しかしなかった。


「俺にですか」


「違います」


少し安心した。


────────


相談者は三十代の女性だった。


名前は中村彩香。


会社員。


落ち着いた雰囲気の人だった。


だが顔が疲れている。


神代先生と向かい合って座る。


俺は少し離れた席にいた。


最近は自然とそういう立場になっていた。


認めたくはないが。


────────


「どうされましたか」


神代先生が聞く。


彩香は少し迷った。


そして言った。


「裏切られるんです」


俺は首を傾げた。


「誰にですか」


「みんなです」


────────


話を聞いた。


恋人。


友人。


職場。


どこへ行っても同じだった。


頼られる。


相談される。


お願いされる。


彩香は引き受ける。


できる限り応える。


だが最後には裏切られる。


約束を破られる。


感謝されない。


都合よく扱われる。


そして関係が終わる。


それが何度も続いているらしい。


────────


「最近もありました」


彩香が言う。


「同僚に仕事を頼まれて」


「代わりにやったんです」


「でも私の名前は出なくて」


「全部その人の手柄になりました」


神代先生は黙って聞いていた。


「怒りましたか」


「いいえ」


「なぜです」


彩香は少し笑った。


「揉めたくなかったので」


────────


別の話も出た。


恋人。


友人。


家族。


どの話にも共通点があった。


彩香は断らない。


怒らない。


嫌と言わない。


そして最後に傷つく。


俺ですら少し分かり始めていた。


────────


神代先生が聞く。


「中村さん」


「はい」


「最後に誰かへ期待を伝えたのはいつですか」


彩香が止まった。


「期待?」


「はい」


「私は伝えてます」


神代先生は首を傾げる。


「例えば」


彩香は答えられなかった。


────────


沈黙が落ちる。


店内には珈琲を挽く音だけが聞こえていた。


やがて神代先生が言う。


「失礼ですが」


少し間。


「裏切られたのではなく」


彩香が顔を上げる。


「期待を伝えていなかったのかもしれません」


────────


彩香は何も言わなかった。


神代先生も続けなかった。


代わりに店主が新しい珈琲を置いた。


静かな時間だった。


やがて彩香が小さく呟く。


「私」


少し笑う。


だが泣きそうだった。


「一度も言ってないかもしれません」


────────


それから数週間後。


彩香から連絡が来た。


同僚に初めて言ったらしい。


「それは引き受けられません」


と。


友人にも言った。


「それは嫌です」


と。


すると何人かは離れた。


だが。


残った人もいた。


「裏切られませんでした」


彩香はそう言った。


神代先生は頷いただけだった。


────────


その日の帰り道。


俺は妙に静かだった。


神代先生が気づく。


「どうしました」


「別に」


珍しく別にではなかった。


────────


会社のことだった。


不満はない。


上司も悪くない。


給料も普通だ。


同僚とも上手くやっている。


だが。


ずっと違和感があった。


────────


「先生」


「はい」


「人って」


少し考える。


「何も悪くない場所から離れることありますか」


神代先生は歩きながら答えた。


「あります」


即答だった。


────────


「なぜです」


神代先生は少し考える。


「その場所が悪いから離れる人もいます」


少し間。


「ですが」


街灯の光が眼鏡に反射する。


「別の場所へ行きたいから離れる人もいます」


────────


俺は黙った。


神代先生は続ける。


「辞める理由は見つかりましたか」


「見つかりません」


「そうですか」


少し間。


「始める理由はどうでしょう」


その言葉だけが残った。


────────


翌週。


俺は退職届を書いていた。


自分でも驚いた。


勢いだったのかもしれない。


そうじゃないのかもしれない。


よく分からなかった。


────────


上司に呼ばれる。


「田中」


「はい」


「本気か」


「たぶん」


「たぶんで辞めるな」


正論だった。


────────


「もったいないな」


上司が言う。


「そうですね」


「後悔するぞ」


「するかもしれません」


「じゃあ何で辞める」


俺は少し考えた。


そして正直に答えた。


「分からないんです」


上司は呆れた顔をした。


当然だった。


だが。


続ける。


「ただ」


「うん」


「行ってみたい場所があるんです」


上司はしばらく黙っていた。


やがて笑った。


「若いな」


そう言った。


────────


その日の夕方。


俺は神代先生の家へ向かった。


退職したことを報告するためだった。


神代先生は珈琲を淹れていた。


「先生」


「はい」


「辞めました」


神代先生は頷く。


「そうですか」


いつもの反応だった。


────────


「もっと何かないんですか」


俺が言う。


神代先生は少し考えた。


珍しく。


本当に少し考えた。


そして言った。


「あります」


「何です」


「求人票は捨てられていると思っていました」


俺は黙る。


「意外でした」


────────


しばらく沈黙が続く。


やがて俺は言った。


「先生」


「はい」


「時給千五百円でしたよね」


神代先生が顔を上げる。


「はい」


「交渉します」


神代先生は少しだけ笑った。


俺もつられて笑った。


────────


その日。


神代先生の助手になった。


……わけではない。


まだだった。


ただ。


求人票はもう机の引き出しにはなかった。




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