第10話 裏切られる女
この日もいつもの珈琲店だった。
最近ここへ来る頻度がおかしい気がする。
神代先生のせいだ。
たぶん。
店主はもう何も言わない。
俺が来るのが当然みたいな顔をしている。
それも少し腹が立った。
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「田中くん」
神代先生が言う。
「はい」
「今日は相談があります」
嫌な予感しかしなかった。
「俺にですか」
「違います」
少し安心した。
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相談者は三十代の女性だった。
名前は中村彩香。
会社員。
落ち着いた雰囲気の人だった。
だが顔が疲れている。
神代先生と向かい合って座る。
俺は少し離れた席にいた。
最近は自然とそういう立場になっていた。
認めたくはないが。
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「どうされましたか」
神代先生が聞く。
彩香は少し迷った。
そして言った。
「裏切られるんです」
俺は首を傾げた。
「誰にですか」
「みんなです」
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話を聞いた。
恋人。
友人。
職場。
どこへ行っても同じだった。
頼られる。
相談される。
お願いされる。
彩香は引き受ける。
できる限り応える。
だが最後には裏切られる。
約束を破られる。
感謝されない。
都合よく扱われる。
そして関係が終わる。
それが何度も続いているらしい。
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「最近もありました」
彩香が言う。
「同僚に仕事を頼まれて」
「代わりにやったんです」
「でも私の名前は出なくて」
「全部その人の手柄になりました」
神代先生は黙って聞いていた。
「怒りましたか」
「いいえ」
「なぜです」
彩香は少し笑った。
「揉めたくなかったので」
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別の話も出た。
恋人。
友人。
家族。
どの話にも共通点があった。
彩香は断らない。
怒らない。
嫌と言わない。
そして最後に傷つく。
俺ですら少し分かり始めていた。
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神代先生が聞く。
「中村さん」
「はい」
「最後に誰かへ期待を伝えたのはいつですか」
彩香が止まった。
「期待?」
「はい」
「私は伝えてます」
神代先生は首を傾げる。
「例えば」
彩香は答えられなかった。
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沈黙が落ちる。
店内には珈琲を挽く音だけが聞こえていた。
やがて神代先生が言う。
「失礼ですが」
少し間。
「裏切られたのではなく」
彩香が顔を上げる。
「期待を伝えていなかったのかもしれません」
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彩香は何も言わなかった。
神代先生も続けなかった。
代わりに店主が新しい珈琲を置いた。
静かな時間だった。
やがて彩香が小さく呟く。
「私」
少し笑う。
だが泣きそうだった。
「一度も言ってないかもしれません」
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それから数週間後。
彩香から連絡が来た。
同僚に初めて言ったらしい。
「それは引き受けられません」
と。
友人にも言った。
「それは嫌です」
と。
すると何人かは離れた。
だが。
残った人もいた。
「裏切られませんでした」
彩香はそう言った。
神代先生は頷いただけだった。
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その日の帰り道。
俺は妙に静かだった。
神代先生が気づく。
「どうしました」
「別に」
珍しく別にではなかった。
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会社のことだった。
不満はない。
上司も悪くない。
給料も普通だ。
同僚とも上手くやっている。
だが。
ずっと違和感があった。
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「先生」
「はい」
「人って」
少し考える。
「何も悪くない場所から離れることありますか」
神代先生は歩きながら答えた。
「あります」
即答だった。
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「なぜです」
神代先生は少し考える。
「その場所が悪いから離れる人もいます」
少し間。
「ですが」
街灯の光が眼鏡に反射する。
「別の場所へ行きたいから離れる人もいます」
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俺は黙った。
神代先生は続ける。
「辞める理由は見つかりましたか」
「見つかりません」
「そうですか」
少し間。
「始める理由はどうでしょう」
その言葉だけが残った。
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翌週。
俺は退職届を書いていた。
自分でも驚いた。
勢いだったのかもしれない。
そうじゃないのかもしれない。
よく分からなかった。
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上司に呼ばれる。
「田中」
「はい」
「本気か」
「たぶん」
「たぶんで辞めるな」
正論だった。
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「もったいないな」
上司が言う。
「そうですね」
「後悔するぞ」
「するかもしれません」
「じゃあ何で辞める」
俺は少し考えた。
そして正直に答えた。
「分からないんです」
上司は呆れた顔をした。
当然だった。
だが。
続ける。
「ただ」
「うん」
「行ってみたい場所があるんです」
上司はしばらく黙っていた。
やがて笑った。
「若いな」
そう言った。
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その日の夕方。
俺は神代先生の家へ向かった。
退職したことを報告するためだった。
神代先生は珈琲を淹れていた。
「先生」
「はい」
「辞めました」
神代先生は頷く。
「そうですか」
いつもの反応だった。
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「もっと何かないんですか」
俺が言う。
神代先生は少し考えた。
珍しく。
本当に少し考えた。
そして言った。
「あります」
「何です」
「求人票は捨てられていると思っていました」
俺は黙る。
「意外でした」
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しばらく沈黙が続く。
やがて俺は言った。
「先生」
「はい」
「時給千五百円でしたよね」
神代先生が顔を上げる。
「はい」
「交渉します」
神代先生は少しだけ笑った。
俺もつられて笑った。
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その日。
神代先生の助手になった。
……わけではない。
まだだった。
ただ。
求人票はもう机の引き出しにはなかった。




