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神代先生のお世話日誌  作者: 志に異議アリ


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第6話 盗まれた財布




その老人と出会ったのは

いつもの珈琲店だった。


「だから盗まれてないって言うなら、財布を出してみろ!」

店内に怒鳴り声が響く。


俺は思わず顔を上げた。

七十代くらいの老人だった。

向かいには四十代くらいの女性。


娘だろうか。

困り果てた顔をしている。


「お父さん、落ち着いて」


「落ち着けるか!」

周囲の視線が集まる。

娘は申し訳なさそうに頭を下げていた。


「財布が消えたんだ!」

老人が言う。


「三回目だぞ!」


神代先生は珈琲を飲みながら静かに見ていた。


「先生」


「はい」


「見ちゃダメです」


「そうですね」

そう言いながら見ていた。


数分後。

娘がこちらへやって来た。


「すみません……」

疲れ切った顔だった。


「父がご迷惑を」

神代先生は首を振る。


「何かあったんですか」

女性は苦笑した。


「最近、財布がなくなるんです」

その一言で。


神代先生の目が少しだけ変わった。


──────

女性の名前は村瀬由美。

老人は村瀬義男。

七十五歳。

財布がなくなる。

お金も減る。

そして毎回。


「誰かが盗った」

と言う。


病院も勧めた。

認知症外来も受診した。

だが義男は怒る。


「俺はボケてない!」

由美は泣きそうな顔で言った。


「施設の話まで出てるんです」


「そうですか」

神代先生は静かに頷いた。


「お父様と少しお話できますか」


──────

義男は不機嫌だった。


「俺は正常だ」

開口一番だった。


「そうですか」

神代先生はいつも通りだった。


「今日は何日ですか」


「六月四日」

即答。


「ここは?」


「珈琲屋だろ」


「店名は?」


「青葉珈琲」

神代先生は頷く。


「昨日の夕飯は」


「鯖だ」


「味噌煮ですか」


「違う。塩焼きだ」


即答だった。

俺は少し驚いた。

確かに。

全然ボケているようには見えない。


──────

話は続く。

義男はよく喋った。


戦後の話。

若い頃の仕事。

初任給。

結婚した日。

娘が生まれた日。

細かい。

異常なほど細かい。


「昭和四十七年の十二月だった」


「雪が降っていてな」


「駅前の饅頭屋が閉まってた」

そんな話まで出てくる。


なのに。

財布をなくした日の話になると。


急に曖昧になる。

「その日は何をしていましたか」


「覚えてる」


「教えてください」


「昼にテレビを見て」


「その後は」

義男が黙る。


「……分からん」

初めてだった。

神代先生が静かに聞く。


「財布を確認したのは?」


「夕方だ」


「それまでは」


「覚えてない」


──────

帰り道。

俺は言った。


「やっぱり認知症じゃないですか」

神代先生は首を振った。


「違うと思います」


「なんでです」


「忘れ方です」


「忘れ方?」


「彼は覚えていることと忘れていることが極端です」

俺には分からなかった。


「認知症なら」

神代先生は続ける。


「もっと広く崩れます」


「でも財布のことだけ」


「ええ」

少し間。


「まるでそこだけ抜け落ちています」



翌週。

先生は義男と由美を家に呼んでいた。


来て早々また

「俺は盗まれたと言ってる」


「だから違うって」

先生の前で2人は言い合いになる。



「前は押し入れの奥だった」


「その前は台所の棚だった」


「今回は違う」

ここで神代先生が引っかかる。


「前回の財布は見つかったんですか」


「はい」


「どこで」


「押し入れです」


「前々回は」


「台所の棚」

神代先生沈黙。


陸はまだ分からない。

すると先生。


「見つかる場所に共通点はありますか」


「え?」


先生は少し悩んでから

「お宅にお邪魔したいです。」

と告げた。


──────

数日後。

神代先生は義男の家を訪ねた。


部屋を見て回る。

押し入れ。

本棚。

仏壇。

そして古い箪笥。


先生の手が止まった。


引き出しの奥。

布に包まれた財布。


「ありました」


由美が固まる。

義男も固まる。


「知らん」

震える声だった。


「こんな場所知らん」

神代先生は財布を見つめる。

そして聞いた。


「昔、お金を隠していましたか」

義男の顔色が変わった。



長い沈黙。

やがて。



「借金取りが来てた」

小さな声だった。


「若い頃な」

その頃は。

給料を隠した。

通帳を隠した。

財布を隠した。

毎日。

誰にも見つからない場所へ。

生きるためだった。


神代先生は静かに頷いた。

「その習慣だけが残ったんです」

義男は黙っていた。


「記憶ではありません」


「習慣です」


「体が覚えていた」

義男の目に涙が浮かんだ。


由美も泣いていた。

「ごめんね、お父さん」

義男は首を振る。


「俺も怖かった」

その言葉だけだった。


──────

数週間後。

神代家のチャイムが鳴った。

俺が玄関を開ける。

そこには義男がいた。

大量のみかんを抱えて。


「先生おるか!」

俺は思わず笑った。


「いますよ」

義男は得意げにみかんを掲げる。


「盗んだんじゃないぞ!」

神代先生は少しだけ笑った。


「そうですか」


「ちゃんと買った!」


「良かったですね」

相変わらず変な会話だった。


でも。

義男は以前よりずっと穏やかな顔をしていた。


先生と話すといつもこうだ。


解決したと思っていたことが、

実は全然違う姿をしている。


そして人間は、

自分が思うよりずっと長く、

昔の自分を連れて生きている。


そんなことを、

俺は少しずつ知り始めていた。



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