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神代先生のお世話日誌  作者: 志に異議アリ


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第3話 優しい夫



神代先生の家に来るようになって一か月ほど経った。

もちろん通っているつもりはない。


ただ暇だっただけだ。

たまたま近くを通っただけだ。

そういうことにしている。


「田中くん」


「はい」


「先週も同じことを言っていました」

神代先生は本を読んだまま言った。


「覚えてるんですか」


「気になったので」

その言葉が少し怖かった。


神代先生は引っかかったことを忘れない。

それが人でも言葉でも。

たぶん何年経っても。


インターホンが鳴った。

俺は立ち上がる。

もう慣れた。

慣れてしまった。


────────

依頼人は四十代半ばの女性だった。

佐伯由美。


座るなり言った。

「夫が浮気しています」

神代先生は頷いた。


「そうですか」


「絶対です」


「証拠は?」


「ありません」


「なるほど」

由美は真剣だった。


「でも分かるんです」


「何がですか」


「夫が優しいんです」

俺は思わず吹き出しそうになった。


由美は本気だった。

「最近、家事をするんです」


「はい」


「花を買って帰るんです」


「はい」


「結婚記念日を覚えてるんです」


「それは良いことでは」


「違うんです!」

由美は身を乗り出した。


「付き合って二十年です」


「はい」


「分かるんです」

神代先生は黙った。

由美も黙った。


その沈黙を先に破ったのは神代先生だった。


「佐伯さん」


「はい」


「今度、ご主人を連れてきていただけますか」


────────

三日後。

夫婦で神代先生の家を訪れた。

夫の名前は浩一。

穏やかな人だった。


少なくとも浮気を楽しんでいる人には見えない。


神代先生はコーヒーを出した。

そして聞いた。


「最近、花を買っていますね」


「はい」


「なぜですか」

浩一は少し困った顔をした。


「なんとなくです」


「昔は買っていませんでした」

妻に横から言われ、沈黙。


「結婚記念日も覚えていますね」


「はい」


「昔は忘れていました」

また沈黙。


浩一が視線を落とす。

神代先生は何も言わない。


ただ待つ。


俺の方が落ち着かなくなってくる。


数十秒。


いや、一分近かったかもしれない。



やがて浩一が口を開いた。


「先生」


「はい」




「……浮気じゃありません」

神代先生は頷いた。


「そうでしょうね」

由美が息を呑む。


「え……」


浩一は俯いたまま続けた。

「三か月前に会社を辞めました」


部屋が静まり返った。


────────

浩一は解雇されていた。


毎朝スーツを着て家を出る。

図書館へ行く。

求人を見る。

資格の勉強をする。

夕方になると帰る。


何もなかったように。

それを三か月続けていた。


「どうして」

由美の声が震えた。


「どうして言わなかったの」

浩一は答えない。



長い沈黙。



そしてようやく言った。

「怖かった」


由美が目を閉じる。

「私が?」


浩一は頷いた。

「失望されると思った」


────────

帰り際。

由美が聞いた。


「ねえ」

浩一が顔を上げる。


「私が怖かった?」


「うん」


「馬鹿ね」

浩一は少し笑った。


「うん」


「今も怖い?」

少し考えて、

浩一は答えた。


「少し」

今度は二人とも笑った。


その笑い方は、

夫婦にしかできない笑い方だった。


────────


二人が帰ったあと。

俺はソファに座ったまま言った。


「先生」


「はい」


「最初から分かってたんですか」


「いいえ」


「でも浮気じゃないと思ってましたよね」


神代先生はコーヒーカップを見つめた。


「優しさの向きです」


「向き?」


「浮気を隠している人は外を向きます」

俺は黙る。


「彼は家の中ばかり見ていました」


────────


帰ろうとすると、先生から豆が切れたから。と珈琲店に送迎を頼まれしぶしぶ車に載せた。


当然という顔で先生は助手席に座る。


「あの旦那さん。家族のためだったんですよね」

俺は言った。


「半分は」

神代先生は答えた。


「残り半分は?」


「自分のためです」


「自分?」


「弱った自分を見せる勇気がなかった」


窓の外の街灯が流れていく。

しばらく沈黙が続いた。


やがて神代先生が言った。

「田中くん」


「はい」


「人は本当のことを言うより、優しくする方が簡単な時があります」


「そうですかね」


「ええ」

神代先生は静かに頷く。


「優しさは与えられます」

少し間が空く。



「弱さは見せなければ伝わりません」


買い出しが終わり家に着く。

神代先生が車を降りる。

玄関の前で振り返る。


「それに」


「はい?」


「本当に優しい人は」

先生は少しだけ笑った。


「花より先に、本当のことを渡します」

そう言って家の中へ消えた。


俺はしばらく閉まったドアを見ていた。

その言葉が妙に胸に残った。



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