第4話 怒らない女
「先生」
「はい」
「豆くらい通販で買えません?」
神代先生は真剣に考えた。
「買えますね」
「じゃあ何で店まで来るんです」
「匂いです」
「匂い」
「珈琲は匂いが大事なので」
よく分からなかった。
だが神代先生は本気だった。
変なところだけ妙に本気だ。
───────
先生お気に入りの珈琲店は駅前の路地裏にある。
木の匂いがする小さな店だった。
神代先生は豆を選び始める。
俺は暇だったので店内を眺めていた。
その時だった。
若い店員がトレーを取り落とした。
カップが倒れる。
コーヒーが客のブラウスに飛び散った。
店内が静まり返る。
「あっ……!」
店員の顔が青くなる。
コーヒーをかけられた女性は二十代後半くらいだった。
白いブラウスに茶色い染みが広がっている。
誰が見ても店員のミスだった。
だが女性は怒らなかった。
「大丈夫ですよ」
むしろ笑った。
「私も立ち上がろうとしてましたし」
「でも……!」
「本当に気にしないでください」
そしてなぜか。
店員ではなく彼女の方が頭を下げていた。
──────
店を出たあと。
俺は言った。
「優しい人でしたね。熱かっただろうに……」
神代先生は豆の袋を見つめている。
「そうでしょうか」
出た。
最近よく聞く言葉だ。
「またですか」
「何がです」
「その、そうでしょうか、です」
神代先生は少し考えた。
「怒らなかったので」
「優しいじゃないですか」
「怒れなかった可能性もあります」
「同じじゃないんですか」
「違います」
珍しく即答だった。
────────
翌週。
また同じ珈琲店へ来た。
神代先生は毎週来ているらしい。
俺は知らなかった。
いや、知りたくもなかった。
そして驚いたことに。
あの女性もいた。
窓際の席で本を読んでいる。
「常連だったんですね」
俺が言う。
神代先生は頷いた。
「そうみたいです」
その時。
女性がこちらに気づいた。
軽く会釈する。
神代先生も会釈を返した。
それだけだった。
───────
さらに翌週。
またいた。
今度は女性の方から声をかけてきた。
「この前はどうも」
神代先生は首を傾げる。
「何かありましたか」
「覚えてないんですか」
「はい」
覚えてなかった。
女性が笑う。
俺も少し安心した。
怒らない人は笑う人だった。
少なくともその時はそう思った。
─────
女性の名前は佐藤美咲といった。
それから何度か店で顔を合わせるようになった。
話す内容は他愛もない。
仕事。
天気。
珈琲。
好きな本。
そんなことばかりだった。
そしてある日。
神代先生が聞いた。
「佐藤さん」
「はい」
「最近怒ったのはいつですか」
美咲が固まった。
俺も固まった。
なんだその質問。
───────────
「どうしてですか?」
美咲が笑う。
だが少しだけ困った顔だった。
「気になったので」
神代先生は平然としている。
「怒りますよ」
「そうですか」
「普通に」
「最近は?」
沈黙。
初めてだった。
美咲が答えに詰まったのは。
────────
その日。
閉店時間を過ぎても話は続いた。
店主が苦笑していた。
「うちはカウンセリングルームじゃないんだけどね」
美咲が笑う。
「すみません」
その笑顔を見て。
神代先生は静かに聞いた。
「子供の頃はどんな子でしたか」
「いい子でした」
即答だった。
「よく言われました」
「誰に」
「両親に」
「怒ることは」
「迷惑でした」
少しずつ。
本当に少しずつ。
話が出てくる。
────────
父は短気だった。
母は空気を読む人だった。
怒るな。
我慢しろ。
波風を立てるな。
いい子でいろ。
美咲は従った。
長い間。
何年も。
何十年も。
そうしているうちに。
怒る前に謝るようになった。
相手が悪くても。
自分が傷ついても。
まず謝る。
そうすれば揉めないから。
そうすれば嫌われないから。
────────
店を出る頃には夜になっていた。
美咲は少し照れくさそうに笑った。
「変な話をたくさんしましたね」
「そうですね」
神代先生は頷く。
「私、おかしいですか」
美咲が聞いた。
神代先生は首を振った。
「いいえ」
「でも怒れません」
「そうですね」
少し沈黙が落ちる。
そして神代先生は言った。
「あなたは怒れないのではありません」
美咲が顔を上げる。
「怒ることを許されなかったんです」
その瞬間。
彼女の笑顔が消えた。
代わりに涙がこぼれた。
初めて見る表情だった。
────────
美咲が帰ったあと。
俺は先生の豆を持たされていた。
「先生」
「はい」
「自分で持ってください」
「重いので」
「一袋ですよ」
神代先生は無視した。
────────
駅へ向かう夜道を歩く。
「先生」
「はい」
「怒りってそんなに必要ですか」
神代先生は少し考えた。
「ええ」
「なぜです」
「怒りは境界線だからです」
「境界線?」
「ここから先は入るな、という心の柵です」
俺は豆の袋を持ち直す。
「ないとどうなるんです」
神代先生は静かに答えた。
「踏み荒らされます」
少しだけ風が吹いた。
────────
駅が見えてきた頃。
俺はもう一つ聞いた。
「優しい人と怒れない人の違いって何なんです」
神代先生は歩きながら答える。
「選べるかどうかです」
「選ぶ?」
「怒ることも」
少し間が空く。
「許すことも」
街灯の光が眼鏡に反射した。
「どちらも選べる人は優しい」
そして。
「どちらも選べない人は苦しい」
神代先生はそう言った。
俺はしばらく何も言えなかった。
その言葉が妙に胸に残ったからだ。
先生と話すといつもこうだ。
毎回どこかで胸に刻まれる言葉がある……




