酉の章 一
十一月――
それは、菜々子のもとへ届いた一通の手紙から始まった。
差出人は、妹のロック。
手紙には、こう記されていた。
『フローラ姉さんへ。
叔母さまたちが、巳の長の血を狙っています。
叔母さまから巳へ話が行く前に、一度会いたいです。』
「…………」
手紙を持つ手が固まる。
そして――指示された待ち合わせ場所へ向かう。
そこにはすでに、ロックが待っていた。
「フローラ姉さん」
「ロック」
久しぶりに会う妹の姿に、菜々子の表情が少しだけ緩む。
「姉さん、会いたかった。急に呼び出してしまってごめんなさい」
「ううん。それより――」
すぐに表情を戻す。
「手紙に書いてあったこと、本当なの?」
「……うん」
ロックが頷く。
「叔母さまたちから命令されたの。八郎くんの血を手に入れろって」
「…………」
菜々子の顔から笑みが消える。
酉の一族は、代々魔法を扱うヴィランの一族。
現在その長を務めているのは、菜々子の姉、ボルティナ。
だが――実権を握っているのは、叔母にあたるゴルゾン姉妹だ。
「何のために……?」
「分からない。叔母さまたちは理由を話してくれなかった」
少し間を置き、ロックが続ける。
「叔母さまの命令には逆らえない。でも……何か嫌な感じがして。だから、姉さんには先に知らせておこうと思ったの」
「ロック……」
菜々子がロックを見つめる。
「わざわざ伝えに来てくれて、ありがとう」
少し考え込み――
「叔母さまたちの方から巳に接触しようとするなんて、今まで一度もなかったわね」
「うん……」
「理由は分からないけど、何か急いでいるのかもしれない。……とにかく、今日はもう帰りなさい」
「姉さん……」
「二人で会っていることが叔母さまに知られたらまずいわ。」
「…………分かった」
心配そうに菜々子を見つめながらも、その場を離れていく。
一人残った菜々子が――もう一度、手紙へ目を落とす。
『巳の長の血を狙っています』
「…………八郎」
家路を辿る菜々子。
家に着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「今日は遅かったね。何かあったの?」
八郎が声をかける。
「ちょっと仕事が立て込んじゃって……」
「そっか」
菜々子がいつものように笑ってみせる。
それから数日――ロックの言葉が頭から離れずにいた。
『八郎くんの血を手に入れろって』
理由は分からない。だが、ゴルゾン姉妹が八郎の血を求めている。
どんな手段で手に入れるつもりなのか。考えれば考えるほど、嫌な予感が拭えない。
「菜々子のやつ、最近元気ない気がするんだが」
健司が言う。
「やっぱりそうだよね」
八郎も心配そうに頷く。
「こりゃ……お便秘だな」
大吾が真顔で言う。
「デリカシー皆無かよ」
睦子が即座に突っ込む。
深夜――ふと目を覚まし、トイレへ向かう八郎。
その途中、縁側に座る菜々子の姿を見つける。
「菜々子?」
「あら。八郎」
八郎が隣へ腰を下ろす。
夜風が、二人の間を静かに抜けていく。
「だんだん寒くなってきたね」
「そうね」
「そういえば、菜々子が家に来た時もこんな季節だったよね」
「あら、覚えてるの?」
菜々子が笑う。
「あんなに可愛らしかった子が、今や巳の長。口も達者になっちゃって、最近可愛げないわよー?」
「仕方ないだろー。威厳がないとやってけない仕事なんだから」
八郎も笑う。
そして――菜々子の横顔を見る。
「それに、最近変なのは菜々子もでしょ」
「…………」
「何かあったの?」
菜々子は答えない。
しばらく――八郎の顔を見つめる。
「……ううん。なんでもないわ」
そして、いつもの笑顔を見せる。
「なんだか今が楽しくてね」
「え?」
「こんな日々が――ずっと続けばいいなって思ってただけよ」
「…………」
菜々子が立ち上がる。
「さぁ、明日も学校なんだから寝ないと遅刻するわよ?」
「菜々子だって学校あるだろ」
「先生は遅刻しませーん」
「なんだそれ」
小さく笑いながら、菜々子は部屋へ戻っていく。
一人残された八郎は――その後ろ姿を、しばらく見つめていた。
そして翌朝。
菜々子は――巳から姿を消した。
「えー?今日、菜々子先生いないのかよ!?」
教室で大吾が肩を落とす。
「学校にも来てないか……」
八郎が呟く。
「今朝から菜々子の姿が見当たらないんだ。それに――」
一枚の手紙を取り出す。
「こんなのが置いてあった」
手紙には――
『今までありがとう!私は私で楽しくやってくから、心配しないでね!それじゃ!』
それだけが書かれていた。
「…………」
「大吾が乙女心を傷つけること言ったんじゃないの!?」
睦子が大吾を睨む。
「なんで俺なんだよ!」
「でも……何か事情があるんだろうね」
八郎が手紙を見る。
「しばらく待ってみよう。菜々子なら、きっと帰ってくる」
しかし――
一日。
二日。
そして三日。
菜々子が戻ってくることはなかった。
「……こりゃ、よっぽどのことがあったな。」
健司が腕を組む。
「探しに行こう」
八郎がすぐに答える。
「どこか心当たりある?」
「そういや菜々子、落ち込むとよくあそこに行ってたな」
「どこ?」
健司が答える。
「荊の城だ」
そこは――八郎たちが、初めてフローラと出会った場所。
今では、菜々子以外に訪れる者もほとんどいない。
城へ辿り着いた巳の一行、崩れた石や瓦礫を踏みながら中へ進んでいく。
今回は、半三も一緒だ。
「……いないね」
城内を探しても、菜々子の姿はない。
だが――ある石像の前で、八郎が足を止める。
男性の石像。
その足元には――まだ新しい花束が供えられていた。
「やっぱり……ここに来たんだね」
睦子が呟く。
「…………」
八郎が石像を見つめる。
そして――幼い頃、菜々子から聞いた話を思い出す。
フローラの過去
フローラは、五人姉妹の次女として生まれた。
姉妹の中でも特にゴルゾンの血を濃く受け継ぎ、片目には――見つめた者を石に変える「蛇眼」を宿している。
若かりし頃。
酉の本部である城での暮らしに嫌気が差したフローラは、
「せっかく若いんだから、もっと自由に生きたい!」
「三十路までには絶対結婚する!」
と城を飛び出し、自分だけの城――荊の城で暮らし始める。
村人たちからは、薔薇の魔女――『バジリスク』と呼ばれ恐れられていたものの、フローラ自身は誰にも縛られない暮らしを気に入っていた。
そんなある日。
荊の城に、一人の青年が訪れる。杖をつきながら、ゆっくりと門をくぐる。
「すみません」
声に気づき、フローラが振り返る。
「道に迷ってしまいまして。一晩だけでも泊めていただけないでしょうか?」
「…………」
見知らぬ青年を、フローラがじっと見る。青年は杖を頼りに歩き、目を瞑っている。
どうやら目が見えないらしい。
「ここがどこだか分かってる?」
「いえ……」
青年が困ったように笑う。
「もしかして……怖い人のお家でしたか?」
「……ふふっ」
思わずフローラが笑う。
村人なら近づくことすら恐れる荊の城。そこへ何も知らず、一人でやって来た青年。
「いいわ。一晩だけよ」
「ありがとうございます」
こうしてフローラは一晩だけという約束で青年を城へ入れる。
しかし。
久しぶりに誰かと食事をし、会話をして、気づけば夜が更けて。
翌日になると、フローラの考えは変わっていた。
その次の日も、またその次の日も。青年はフローラの城にいた。
話し相手など必要ないと思っていた。
一人で自由に暮らすことが、自分の望んだ生活だったはずなのに。
いつしかフローラは、青年がいる日常を楽しむようになっていた。
そして青年もまた、フローラのもとを離れようとしなかった。
ある日の午後。
「少し庭を歩きたいんだけど、付き合ってくれないか?」
青年がフローラの手を取り、庭へ連れ出す。
最初の頃こそぎこちなかったものの、いつしか二人で庭を歩くことが日常になっていた。
「今日はどんな花が咲いてる?」
「薔薇よ。綺麗に咲いてるわ」
青年が嬉しそうに笑う。
だが――その笑顔が、ほんの一瞬だけ曇る。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
すぐにいつもの笑顔へ戻る青年。
フローラも、それ以上は聞かなかった。
別の日。
フローラは部屋で一つの物を見つける。
「……なにこれ?」
手に取ったのは、金色の懐中時計。
青年は庭へ散歩に出ており、その場にはいない。
蓋を開く。
「…………」
秒針が静かに時を刻んでいる。
懐中時計の蓋に自分の顔が写る。
その時。
「それ……」
後ろから青年の声がする。
「!」
慌てて懐中時計を閉じる。
「ご、ごめんなさい!勝手に触るつもりじゃ――」
「いや、大丈夫」
青年が優しく笑う。
「父の形見なんだ」
「……お父さんの?」
「僕にとって、とても大切な物さ。」
「…………」
フローラがもう一度、手の中の懐中時計を見る。
そして、そっと青年へと返す。
それから一年。
二人の距離は、さらに近くなっていた。
共に食事をし、会話をして、気づけば、青年がそばにいることが当たり前になっていた。
そんなある日。
荊の城の外が騒がしくなる。
「……何かしら?」
フローラが窓から外を見る。
城の門前には――武器を手にした大勢の村人たちが集まっていた。
「ここに青年がいることは分かっている!」
「バジリスク!青年を返せ!」
怒号が城へ響く。
「…………」
隣に立つ青年の表情が変わる。
「ごめん、フローラ」
「え?」
「僕のせいなんだ」
青年が静かに話し始める。
「僕は村長に頼まれて、この城へ来た」
「…………」
「魔女の弱点を探ってこいって」
フローラが青年を見る。
「村のみんなは君を恐れていた。君を殺すための手掛かりを探してたんだ」
「…………」
「僕も最初は、同じだった」
青年が俯く。
「君のことが怖かった」
そして――顔を上げる。
「でも、今は違う。君は優しく、美しい心の持ち主だ。」
真剣な表情でフローラへと向き合う青年。
その時――城の門が破られる。
村人たちが、一斉に城内へとなだれ込む。
「行こう!」
青年がフローラの手を取る。
二人は城の奥へと走る。
しかし、次第に追い詰められていく二人。
「……フローラ」
青年が懐から、あの懐中時計を取り出しフローラに握らせる。
「僕は村を裏切った。このままじゃ、きっと殺される。だから、これを君に持っていて欲しいんだ。」
「何言ってるのよ!」
フローラが青年の手を強く握る。
「大丈夫。何があっても、あなたを死なせたりしないわ」
「…………」
そこで初めて――フローラは気づく。
この人を失いたくない。ずっと一緒にいたい。
そして青年もまた、同じ気持ちだったのだと。
だからこそ、かつて青年が暮らしていた村の人々をフローラは傷つけることができなかった。
「魔女め!」
一人の村人が剣を振り上げる。
刃がフローラへ振り下ろされる。
その瞬間――青年がフローラの前へ出る。
そして、フローラの眼帯に手をかける。
「……え?」
眼帯が外れる。
フローラの蛇眼が露わになる。
そして――青年が、その瞳をまっすぐ見つめる。
「………!」
青年の身体が、石へと変わっていく。
振り下ろされた剣は、石となった青年の身体に弾かれ…
フローラの手から、懐中時計が落ちる。
目の前には――もう動かない青年の姿。
「……どうして」
返事はない。
「どうしてよ……」
悲しみが、やがて怒りへと変わっていく。
フローラが顔を上げる。
蛇眼が――村人たちを捉える。
やがて、荊の城から、人の声が消えた。
青年も、村人たちも、すべて石へと姿を変えた。
「…………」
そしてフローラは、この世界に絶望する。
自らの身体を荊で包み――そのまま、長い眠りにつく。
十数年後。
荊の城は、フローラの毒の花粉と陰獣植物に覆われていた。
そこへ現れたのは、ヴァイパーたち。全員ガスマスクを着けている。
「ヴァイパーさん、毒効かないんじゃなかったでしたっけ?」
若き日のクボケンが尋ねる。
「俺、花粉症なんだよなぁ」
襲いかかる陰獣植物を難なく倒しながら、城の奥へ進むヴァイパー。
やがて、フローラを覆う巨大な荊へ辿り着く。
ヴァイパーが次々と荊を切り裂いていく。
フローラの身体に絡みついていた荊が、次々と地面へ落ちる。
長い間閉じられていた瞼が、僅かに動く。
そして――ゆっくりと目を開ける。
「アンタが噂のバジリスクだな」
目の前に立つヴァイパーを、フローラが睨む。
「なぜ私を起こした!?私はもう、この世界に関わりたくないのに!」
怒りを露わにするフローラ。
しかしヴァイパーは、まるで怯む様子もなくその場に立っている。
「俺たちの仲間になってくれないか?アンタには俺の一番大切なものを守ってもらいたいんだ」
「…………」
ヴァイパーの後ろから、小さな顔がひょこっと覗く。
幼い男の子。
フローラを見るなり、安心したようにヴァイパーの陰から出てくる。
「あのおチビちゃんは?」
「俺の自慢の息子だ。どうだ、可愛いだろ」
幼い八郎が、青年の石像へ近づいていく。
石像のそばにあった花を手に取り、青年の前へそっと置く。
「…………」
八郎の姿を見つめるフローラ。
かつて――自分に大切なものを託した青年。
そして今、自分の一番大切なものを守ってほしいと言うヴァイパー。
しばらく、八郎を眺め黙り込むフローラ。
そして――
「……分かったわ」
静かに微笑み答えるフローラ。
ヴァイパーが笑う。
「よし!決まりだな!」
そして、ふとフローラを見る。
「ところでよ」
「なに?」
「あんたいくつなんだ?」
「それ……レディに聞く?」
青年の石像は――今も、あの日と変わらぬ姿で立っている。
「バジリスクって名前は、もともと菜々子が持っていた名前なんだ」
八郎が石像を見つめながら話す。
「あの時、僕を見た菜々子の顔が、写真で見た母さんに少し似ててさ。なんだか安心したんだ。」
「俺はいつ石にされるか、めちゃくちゃビビってたけどな」
クボケンが苦笑する。
「菜々子は普段、蛇眼を色のついたコンタクトで隠してるんだ」
城内を見回すクボケン。
「でも、ここにもいないとなると……」
表情が変わる。
「もう考えられるのは、酉の本拠地くらいだな。どうする?八郎」
「そんなの決まってるじゃん」
八郎の言葉に、巳の一同が頷く。
そのまま城を出ようとしたところで、八郎がふと足を止める。
「……その前に、一人連絡しておきたい人がいるんだ」
そして――
巳の一行は、菜々子を連れ戻すため、酉の本拠地がある宮城県へと向かう。
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