後悔ばかりの日々に
私と胡桃との出会いは、今から10年ほど前。あの子が5歳の時だった。胡桃と未来の父である男から、いきなり相談を受けたのだ。
「求血病との付き合い方について、教えてほしい」
男は頭を下げて、私へ助けを求めた。男と私の親交はそれほど深く無かった。多少、大学で関わりがあっただけ。けれど彼は、私を頼ってきた。その必死さから、無下にはできなかった。
当時、市川家にはとある問題が巻き起こっていた。それは、3歳の未来が求血病であると、正式に認められたことだ。
市川美香……つまり、胡桃と未来の母にとって、それは許しがたいことだった。
私達世代の人間は、行き過ぎた求血病に対する偏見が蔓延っている。何故と言われれば、仕方が無かった、としか言いようがない。そういう風潮があったのだ。
数十年前まで求血病というのは奇病で、罹患している者は気持ちが悪いと、本当に信じられていた。それが当たり前だった。
その考えが時勢一つで払拭されることはなく、親世代になった人の教育は、やはり求血病の偏見が混じったものとなる。市川美香も、そういった環境で育ってきた。
むしろ、私に出会って早々、自分の間違いを認めたあの男の方が異端だったのだ。今思えば、そんな単純なことも、私は分かっていなかった。差別は無くせると、本気で思っていた。
市川美香は美しい女性だった。胡桃も、そんな彼女に似て可愛らしく、健康そのもので産まれてきた。
だからこそ、市川美香は未来の存在を受け入れられなかった。彼女からすれば今まで遠ざけて、穢れているとすら思っていた存在に娘がなってしまったのだから。
胡桃は普通なのに、どうして未来は求血病なんかに……彼女は、こともあろうに私の前でそんな言葉を口にした。あいつの制止が無ければ、殴っているところだった。
それでもあいつの頼みを聞いたのは、ひとえに子供達へ情が湧いてしまったからだ。
「ゆきこ、さん……? えへへ、こんにちは!」
なんて、可愛いくて愛らしいのだろう。初めて胡桃を見たとき、心の底からにそう思った。
あいつが愛おしそうに抱える未来も、胡桃に負けず劣らずの可愛さだった。一体どうして、こんな良い子を迫害できるのだ。市川美香への軽蔑が降り積もっていく。
私は別に子供が好きでは無かったし、むしろ幼少の頃にあまり良い記憶がないので嫌いだった。でも、そんな過去は忘れた。どうでもいい。
この子達にはずっと、今のように笑っていて欲しい。本気でそう願ったのだ。
だが、市川美香に求血病への偏見が燻り続ける限り、いつかそれは爆発する。私の手助けがそれを防ぐことに役立つなら、私は喜んで手を貸すべきだろう。
それから、市川家との交流が始まった。市川美香は、求血病である私へやはり良い顔をしなかった。必死に我慢しているようだったが、ふとした瞬間にそれが漏れ出る。
もちろん不快だった。けれど、胡桃や未来の顔を見れば、そんなことどうでもよくなった。月に何度か市川家へと赴いて、時には泊まったこともある。市川美香も、求血病の正しい知識を身に付け、偏見が減ったように見えた。
順調だと思った。上手くいっていると思った。大丈夫だと、思っていた。
確かに、市川美香は変わった。以前よりも求血病というものを理解し、偏見が無くなり、未来を愛せるようになっていた。
けれども、それ以外の現実は何も変わっていない。未だ、求血病への差別は無くなってはいなかった。求血病は気味が悪い。気持ち悪い。健全な子供には悪影響だ。そんな風潮は、彼女を追い込んでいた。
そして燻っていた火種に、燃料が撒かれた。
きっかけは、胡桃が深い傷を負ったことだった。あの子は周囲の言葉に惑わされることなく、求血病の友達を作った。それが、胡桃に一生モノのトラウマを作ってしまった。
あの時の胡桃は、本当に危うかった。子供が必死になって笑顔を取り繕うとしている様など、見ていられなかった。
部外者である私から見てもそうなのだから、実の母である彼女にとっては、それこそ心臓を抉られているような苦しみだったろう。
胡桃は内向的になり、笑顔が減った。代わりに、未来への執着が強くなった。
口を開けば未来が心配する、未来が可哀想と、妹のことばかり。必要以上に未来を贔屓し、彼女が喜ぶ時にだけほっとしたように笑う胡桃は、酷く痛々しかった。
あの子は言っていた。自分は友達を裏切ってしまったと。だから、未来のことは絶対に裏切らない。そう決めたと。
市川美香は、そんな胡桃を見て何を思ったのだろうか。きっと、世の不条理を呪ったはずだ。何が悪い。何を憎めば良い。一体、何がいけなかったのかと。
その着地点は、求血病という存在自体だった。こんなものが無ければ、未来を何の苦労も無く愛せたはずだ。胡桃は傷付かなかったはずだ。全て、こんな病があるのが悪いのだ……と。
改善されかけていた偏見は、全て憎しみと恨みへと変わった。
そして……それは爆発した。私は、何もできなかった。なにもできないまま、市川家は空中分解した。市川美香は、最後に私へ謝罪をして市川家から去って行った。
父であるあいつは酷く自分を責め立て、過剰なまでに労働へ身を費やし、愛おしいはずの娘見る度、苦しむようになった。
胡桃は更に社交性を失い、それまで以上に未来へ傾倒するようになった。もう、あの頃のような笑顔で笑うことは、無くなった。
未来は姉に依存し、ついには社会と関わることを拒んだ。家に引き籠もり、姉の歪んだ愛情を受け、それを良しとするようになった。
私は自惚れていた。今までの人生で、求血病で苦しんだことは幾つもあった。しかし、その全てを私は乗り越えてきた自負があった。だから、今回だって超えられると、愚かにも思っていたのだ。
きっと何かができたはずだ。こうなる前に、手を打てたはずだ。胡桃や未来に嫌われようとも行動すれば、結果は変わっていたはずだ。私には、それができたはずだ。
でも……何も、しなかった。泣きじゃくる胡桃を、ただ抱きしめて慰めるだけで、根本的な解決はしなかった。やらなかった。できなかった。
周囲と馴染めず、胡桃に依存していく未来を咎められなかった。私だって、幼少の頃に自分をずっと第一に考えてくれる姉が居たのなら、きっと縋ってしまうと思ってしまったから。その悪影響を理解していながら、何もしなかった。
……私はなんて無力なんだろう。救えたはずの姉妹を、家族を、救えなかった。なのに、誰も私を責めない。あいつも、市川美香も、胡桃も、未来も……雪子さんは悪くないと、口を揃えてそう言うのだ。
その日、私は初めて神に祈った。幼少の頃だって、天に中指を立てたことはあっても、縋ったことはなかったのに。もう、奇跡願うしか無かったから。
市川家の近くにあった古い教会を買って、毎日祈った。そんなことをしたって、あの家族は救われないと分かっているのに。それでも、私は毎日祈り続けた。
もし神様がいるのなら……こんな私の願いを、きっと聞いてはくれないだろうに。それでも、私は今日も祈りを捧げる。
どうか、あの子達の道が幸せで溢れていますように。また、あの時のような笑顔を取り戻せますようにと。
私が修道女の真似事をしている理由など、たったそれだけの理由だ。幸い、金には困っていない。大学時代に色々としていたおかげで、何にもしなくたって老後を過ごし、あの子達へ遺産を残せるくらいには貯金がある。
せめて、二人が立派に成人するまでは……傍で見守ってあげたい。私ではあの子達の母にはなれないけれど、せめて寄りかかれる存在にはなってあげたい。
だからこそ、あの子を傷付ける者は、絶対に許さない。
例え……それがあの子の親友を名乗るものであろうと、今度は迷わない。もう後悔は、絶対に繰り返さない。
「愛しているよ……胡桃」




