認め難い真実
夢を見た。これまでの、私の人生だった。
それは私の理想だった。アリサを裏切らず、市川家は分裂せず、雪子さんとも良好な関係を築いていた。
未来も、お父さんも、お母さんも、雪子さんも……アリサも、幸せそうに笑っている。
私も例外では無かった。罪悪感も無く、劣等感も知らず、綺麗な瞳で幸せそうにしていた。そんな……もう訪れることのない、イフの世界だった。
「っ……」
パチリと、眼が覚めた。知らない天井、乱れた寝具、何故か下着姿の私。数秒のフリーズを経て、私は状況を理解した。
「私は、なんてことを……!」
都合良く記憶が無くなっていれば、どれほど良かっただろうか。私は……何度罪を重ねれば気が済むのだろう。
全て覚えている。昨晩の痴態の、その全てを。私が行った、愚行の数々を。
「…………未来」
隣で眠る可愛い妹の頭を撫でて、私はベッドを降りた。クローゼットにあったワイシャツを1枚借りて、下に降りる。
「おはよう、胡桃」
「……おはようございます、雪子さん」
コーヒードリップからお湯を注ぎ、その香りを堪能する雪子さん。服装は私と同じワイシャツと、黒いズボンを着用していた。普段は着けていない丸眼鏡も相まって、知的な雰囲気を醸し出している。
「未来は?」
「起きてこないと思います。あの子、夜型なので」
「そう。胡桃はコーヒー飲む?」
「じゃあ、頂きます」
白と藍色のティーカップに注がれたコーヒーを一口飲む。私には味の違いとか旨味とかは分からないけれど、飲みやすくて美味しいと、そう思える味だった。
かち、かち……と、振り子時計の音と、コーヒーを飲む音だけが場を支配していた。雪子さんは微笑を浮かべながら、私の顔を眺めるだけ。何の問いかけもなく、時間だけが過ぎていった。
「……未来を呼んだのは、雪子さんですよね」
「えぇ。きちんと、アイツにも連絡はいれてあるわよ」
「どうして、こんなことを?」
責任転嫁をするつもりはない。結局、全ては私が不甲斐ないからこそ起こったことだから。だが、その真意は聞くべきだと思う。
「言ったでしょう? 私が……今となっては私達が、貴女の言い訳になってあげるって」
「必要ありません」
「あら? 本当にそう?」
「……何が言いたいんですか」
ポットから新しいコーヒーを注ぐと、雪子さんはそこへ角砂糖を三つ放り込んだ。それを美味しそうに飲むと、私の眼を見つめた。
「昨日起こったことは、全て私達のせい。貴女は抵抗虚しく、未来に美味しく食べられてしまった……それだけのことよ」
「だとしても、私のせいです。私が不甲斐ないから……こんなことになった」
「はぁ……胡桃ってば、本当に強情ね。貴女は被害者なのよ? どうしてそんなに自分を悪者にしたがるの?」
雪子さんは私の傍へ座ると、そのまま私の髪を撫で始めた。
「貴女の言い分は、襲われるような奴が悪いと、そう言っているようなものよ」
「…………」
「胡桃は悪くないわ。貴女は十分に抵抗し、最後まで愛園アリサに義理を立てた。胡桃は何にも、悪くないのよ」
……おか、しい。どうして、こんなことを思ってしまうのだ?
私は額に手を当てながら、混乱する心情を整理する。
私がしたことは許されないことだ。アリサへの裏切りと言っても過言ではない。彼女へは全てを包み隠さず今回の顛末を伝え、そして罰して貰わなくてはならない。
なのに……今の私は、雪子さんの言葉を認めようとしていた。私は悪くないと、悪いのはこんな大それたことをした雪子さんと未来だと……そう思ってしまった。
何より……! 私はこのことをアリサに罰せられることを、理不尽だと思ってしまった。その結果行われるであろう吸血を、されたくないと思ってしまった。
「雪子さんっ! 私に、何をしたんですか!」
「私はただ、貴女の素直な気持ちを引き出しただけよ。無意識のうちに蓋をしていた感情をね」
雪子さんは私の手を握ると、手を絡めてきた。振り払おうとしても、私の感情はその行動を許しはしなかった。
「どうして私がこんな眼に。こんな苦しみから早く解放されたい。誰か助けて欲しい……昨晩、そんな胡桃の声をたっくさん聞かせてくれたわね」
知ら、ない……そんな記憶は、一切無い。けれど、心は嘘を吐かない。私は、優しく笑みを浮かべる雪子さんへ、確かな安らぎを感じていた。
「良いわ。私が助けてあげる。私が許してあげる。私が守ってあげる。胡桃のために……生きてあげる」
抱擁を受け、そんな甘言を囁かれ続ける。ぐらぐらと、私の中の芯が揺らいでいくのが分かった。
「だめ、です……私にそんなこと、ゆるされ、ない……」
「良いのよ。許してあげる」
「アリサは、許してくれない……!」
「それも良いのよ。貴女は十分、贖罪を果たしたわ。あの子が許さなくたって、私が許してあげる」
罰せられるべきだと思っていた。いつか裁きを受けるのだと思っていた。こんな私が幸せになっていい訳がないと、思っていた。
そんな私が……許されて良いの?
崩れていく。今までずっと私を支えていた何かが、どんどん沈んでいく。
私は泥沼に嵌まってしまったのだろうか? そう思えるほどに、雪子さんの言葉が、酷く心地よかった。
こんな身勝手な主張が……本当に、私の本心なの……?
8
「ふふっ……こうやって胡桃とお風呂に入るの、久しぶりね」
「うん……昔はよく、未来と一緒に入りましたね」
緩んだ顔で湯船に浸かる胡桃を抱きしめながら、私の内心は穏やかではなかった。
今の胡桃は、酷く危うい状態だ。ふとした拍子に、また元に戻ってしまう可能性を常に孕んでいる。
……私は、胡桃に催眠をかけた。古典的な、命令に従ってしまうものだ。それを使って、彼女の本心を聞き出すことができた。
その結果は、残念ながら胡桃に話したものとはまるで違うものだった。
『私は、確かにアリサに罰して欲しいと思っています。でも、最近は少し違うような気がしてきたのです』
『アリサのことを……もしかしたら、私は好いてしまったのかもしれません』
『あの子に虐められると……ドキドキと罪悪感が混じりあって、訳が分からなくなってしまいます。だから……私は多分──』
『アリサのことが、好きなんだと思います』
私は……そんな心情の吐露を、受け入れられなかった。
あんな関係が、あんな行為が、あんな女が……! 胡桃の幸せになるだなんて、到底信じられない。いつか必ず、取り返しのつかない過ちを犯すに決まっている!
だから、私は一つの暗示をかけた。
『市川胡桃は、愛園アリサの執拗な吸血を疎ましく思っている』
たった、それだけだ。だが、それだけの暗示はここまで胡桃の態度を軟化させることに成功した。それほど、あの関係は胡桃にとって負担であるということの証明だった。
時間はたっぷりとある。その間に、私のすべきことは一つ。
愛園アリサとの関係が破綻するほどに、私達で胡桃の全てを独占する。愛園アリサのような被虐的な幸福の享受は間違っている。そう、証明してみせる。
「雪子さん……?」
「何でもないわ。えぇ、胡桃は何の心配もしなくて良いのよ」
胡桃の幸福が、私の幸せだ。未来の幸福が、私の幸せだ。その幸福を邪魔するのなら、私は悪魔にだってなってやる。
貴女をあんな女になんて……血の一滴どころか、髪の毛の一片すらも与えたりはしない。胡桃の全ては、私達のものだ。
「愛してるわ、胡桃♡」
「……わ、私も、で、す……♡」
私は胡桃の小さな身体を抱きしめながら、暗い感情を静かに滾らせ始めた。




