もしもの姿
それは至福の一時だった。朝から晩まで、煩わしいことは何もない。
「むぅ~……お姉ちゃん、休憩しようよぉ」
「じゃあ、このページが終わったらね。そうしたら、おやつ食べましょう」
「やった! 雪子ってば、料理とか菓子作りは異様に上手いんだよねー」
未来と一緒に勉強をしたり、雪子さんと映画を見たり、皆と一緒にご飯を食べたり……思い描いていた通りの、夢のような時間。
「何よ、そんな顔して。何か文句でもあるの?」
「別に良いけどさぁ……こんなに手の込んだコーヒーを淹れるのに、なんで全部台無しにするみたいに砂糖爆盛りなの……?」
「これが一番美味しい飲み方だからよ。未来だって、ミルクと砂糖を入れるじゃない」
「いや、カップ一杯に角砂糖三つはやり過ぎでしょ……溶けきってないじゃん、それ」
「この底に溜まった砂糖が良いのよ。糖分を取ってるって感じがするわ」
仲睦まじくする二人を眺めながら、私は笑っている。心の底から、本当に笑顔を浮かべられていた。
……その度に、誰かの顔が朧気になっていく。とても大切な、誰かのことを。
私は、何か大切なことを、忘れてしまった、よう、な……
「胡桃」
「ふぇっ!? あ、あれ……? 私、寝てた……?」
「そのままで良いわ。楽にしていて」
気が付けば、私はソファで横になっていた。頭を雪子さんの膝に乗せ、髪を梳かされている。私はそんな状況に一抹の違和感を感じつつも、その心地よさに流されていた。
「明後日にはまた学校ね。そうしたら、元の生活に戻らなくちゃ」
「…………そう、ですね」
嫌だ、と……そう思った。口には出さずとも、私はありえない妄想を繰り返し続けている。このまま未来と雪子さんと一緒に暮らせたら、なんて……
「ふふっ……そんな顔しなくても、また来れば良いじゃ無い。貴女は部活も入っていないし、休みの間はこっちに来たって良いのよ?」
「でも、そしたらお父さんが……」
「あいつのことは心配しなくて良いわ。胡桃のためなら、分かってくれるわよ」
くらくら、くらくら……視界が揺れる。瞼が重くなって、頭がぼんやりとしていく。
「良いのよ……何も心配しなくて」
何だか、雪子さんの言葉が前よりも質量を持っているような気がした。何かを囁かれる度、それは確かな重さを持って、私の中に沈殿している。
その度に誰かの顔がよぎっていく。もう名前も思い出せないその人。とても大切な人だったような気がするのに……もう、何も思い出せない。そんな異常にすら、気が付かない。
頭が、痛い……身体が、気怠い……私は、一体どうしてしまったのだろう……?
思考が纏まらない。何かを忘れていると言うのに、その異常に何ら違和感を持てない。ただ、喉に小骨が刺さったような不快感だけがずっと消えないのだ。
「何も考えなくて良いんだよ。ただ、一緒に溺れようね」
「ぇ……? ぁ…………」
「そうよ。違和感なんてない。不快感なんてない。胡桃は何も……忘れてないわ」
脳に響いていく。どうして、私はベッドで横になっているの?
分からない。ここに来てから、突然意識が飛ぶことが何度かあった。そうして、私はその明らかな異変に対して、疑問を持つことすらなかった。
……あぁ、そうだ。私は、すっかりと毒されてしまったのだ。
頭を茹だらせ、溶かされ、トロトロにされた。その状態では雪子さんと未来の愛を拒むことができなかった。だからこそ、私はこんな状態に陥ってしまったのだろう。
きっと、これが最後だ。今の状況を異常だと思うことも、何かを忘れてしまったと思うことも、その全てがこれで終わりだ。私は何もかもを受け入れ、大切にしていたはずのものすら、なくしてしまう。
これが、私に相応しい罰なのだろうか……? 震えるほど熱い快感を受け止めながら、私は意識を沈めていった。
9
眼が、覚めた。私はゆっくりと身体を起こすと、隣で眠る未来の頭を撫でた。サラサラとしていて、凄く気持ちが良い。思わず、夢中になって触り続けてしまう。
「ん、ぅ……? おねぇ、ちゃん……?」
「あぁ、ごめん。起こしちゃった」
目を擦りながら、未来が起き上がる。私はそんな可愛い妹に対して、いつも通りハグをした。
「ふぇっ!? お、お姉ちゃん!?!?」
「なぁに、未来。そんなにビックリして」
「い、いやだって、きゅ、急に抱き着いてくるから……!?」
「変な子ね。いつも通りの、姉妹のスキンシップじゃない」
まぁ、そんな未来も可愛いけれど。
ひとしきり未来を愛でた後、リビングへ降りていく。朝食を並べている雪子さんへ、同じように朝の挨拶をした。
「おはようございます、雪子さんっ♪」
「っ!? び、びっくりした……お、おはよう、胡桃」
「今日もお綺麗ですね。エプロン姿、とっても可愛いです」
纏められた金髪と、黒い無地のエプロン。普段はキリッとしているのも相まって、その家庭的な姿は、とても素敵だった。
「そ、そう……ありがとう」
「何かお手伝いしましょうか?」
「もう終わるから、座って待っていて頂戴」
「分かりました!」
イスに座って待っていると、未来も降りてきた。何故か困惑した表情を浮かべる未来は、雪子さんを引っ張っていくと、何かをコソコソと内緒話を始めた。一体、どうしたのだろう?
「雪子! なんか朝からお姉ちゃんがおかしいんだけど!?」
「前に言ったでしょう? 胡桃の罪悪感と、贖罪の欲求を忘れさせたって。あの子は元々、明るくて元気な子だったんだから」
「だからって! こ、こんなに積極的なお姉ちゃんは……! 何というか、頭がバグる!」
「二人ともー? なーに話してるのー?」
「「っ!? い、いや! なんでもない(わ)!」」
全くもう……二人とも、どうしちゃったんだろ? 私は首を傾げた。




