東京、金曜の夜
金曜日の夜だった。雛形は電車に乗り、都心へ向かった。海斗の職場の近く、大手町のバーで海斗と会った。二人はカウンター席に案内され、並んで座った。
「来てくれてありがとう」
わずかに口角をあげ、海斗が礼を言った。雛形は軽く頷いた。
「こないだは、本当にごめん」
椅子の座面を九十度回転させると、海斗は雛形に向き直り、頭を下げた。雛形はそれには反応しなかった。二人がオーダーしたサングリアとバラライカのグラスを見つめていた。
「俺、どうかしてた」
海斗は膝の上で握り拳をつくった。
「うん」
雛形は頷いた。
「最低な奴だって分かってる」
海斗は続ける。雛形はサングリアに口をつけた。海斗もバラライカを一口飲んだ。
「でも、それでも。俺は、桃子とやり直したい」
海斗は両手でカウンターの縁を軽く掴み、挑むように雛形の横顔を見た。雛形は物憂げな目をした。カウンターの正面にあるリキュールの瓶を一つ一つに、視線を送る。
「カッコ悪いっていう、自覚はあるんだ」
雛形はつぶやいた。
「ああ、もちろん。ほんっとうにカッコ悪いよな、俺」
海斗は正面に向き直り、頭上に取り付けられたワイングラスホルダーを見つめる。自分の顔が、グラスの表面に映った。
「カッコ悪いところをちゃんと認められるのが、海斗のカッコいいところだよね」
雛形は伏目がちになりながら、優しく言った。海斗は何も言わずに頷いた。二人はしばらく黙り込んだ。海斗は落ち着かない様子で、グラスの足を指でつつく。雛形はバーテンダーがシェイカーを振るのをぼんやり眺める。
「桃子」
「うん?」
「『琳太郎先生』とは、何もないのか」
海斗は目を伏せて聞いた。全身が小刻みに震えている。雛形はその様子を横目で傍観した。
「なんでこの前、連絡くれなかったんだ」
海斗の震えは少し大きくなった。雛形は視線を正面に戻し、沈黙を続ける。
「あいつと、いたのか」
海斗は血走った目で雛形を見た。雛形は深呼吸した。口を真一文字にして前髪を掻き分け、椅子を座り直す。海斗はその一挙手一投足をつぶさに観察した。
「そうだよな。俺は一度、お前を捨てたもんな。すごく後悔してるよ。本当にごめん。何度謝っても謝りきれない」急に早口になり、海斗はまくし立てた。「そんな奴が言うセリフじゃないって、分かってる。分かってるよ。でも…」
「そうだよ」海斗が言い切らないうちに、雛形がはっきり答えた。「一緒にいたよ」
続けざまに言い切ると、雛形は海斗の横顔をまっすぐ見据えた。海斗はグラスを素早く傾け、一気に飲み干した。ガタンと音を立て、グラスを置いた。
「へえ」
海斗は声を張り、大きく頷くと、空になったグラスを見つめた。バーテンダーがそれを静かに下げた。
「すげえいい男だもんな」
海斗はカウンターを見つめ、よく通る声で言った。雛形は微動だにせず、海斗の横顔を見続ける。
「お前は、すげえいい女になったし」
突然手を伸ばし、海斗は雛形の手首を握った。雛形は反応しなかった。
「昔から、俺には高嶺の花だった。それでも」
海斗は雛形の手首を指で撫でた。さらに、腕、肘を撫でた。雛形は沈黙したまま傍観する。
「桃子のこと、愛してるよ」
メガネを外し、海斗は目元を手で拭った。一筋の涙が頬を伝った。
「奴に会わせてくれ」
海斗が顔をあげ、震え声で言った。雛形を見つめた。雛形は表情をこわばらせ、黙って見つめ返した。
「深夜の訪問、大歓迎ー」
萌が玄関ドアを開け、満面の笑みで雛形を迎え、力いっぱい抱きしめた。雛形は唇をかみしめ、なかに入った。
萌は雛形の高校時代からの友人だ。高校時代からの雛形と海斗のことをよく知っていて、現在はグラフィックデザイナーとして渋谷のデザイン事務所で働いている。本人は特定の彼氏を持たず、永福町のマンションで一人暮らしをしていた。海斗と駅で別れてから、雛形は終電で萌の自宅を訪問したのだ。
「かわいい部屋だね」
雛形はホワイトとグレーでまとめられた室内を見回した。萌はにこにこして、雛形を深紅のビーズソファに沈めた。
「何飲む?」
シンクの前に立ち、萌が機嫌よく聞いた。
「アルコールならなんでも」
雛形はビーズソファに埋もれながら、少し元気を出して答えた。萌は赤ワインのボトルとワイングラスを二つ抱え、雛形のテーブルの前に置いた。
「桃子の好物」
萌が笑ってコルク栓を開けた。雛形も笑った。
「それで、どうしたの」
グラスになみなみと赤ワインを注ぎ、萌がはきはきと聞いた。
雛形はグラスを受けとり、これまでの経緯を話した。中学で吹奏楽の顧問をしていること。琳太郎とのこと。桂木に聞いたこと。海斗とのこと。錬三郎のこと。萌は遮らず、ワインを飲みながら耳を傾けた。
「へえー」萌はラグの上で足を伸ばして座り、テーブルにワイングラスを置くと、雛形の顔を下から覗き込んでほくそ笑む。「モテ期が来ちゃったんだ。すっごいね」
雛形は居心地悪そうに、ワインに口をつける。
「まず、そこから中学生は振り落とされる、と」
萌が愉快そうに笑って聞いた。
「当然でしょ」
雛形は即答した。
「可愛いけど、犯罪になっちゃうもんね」萌がケタケタ笑った。「残されたのは弁護士と、音楽教師、か」
雛形は流し目で萌を見やり、ゆっくり頷く。
「あんたには、どっちも選ばないっていう選択肢はないんだね」萌に指摘され、雛形は目を見開いた。「どっちも大概じゃない?」
辛辣な口ぶりで萌は軽く笑い飛ばした。
「でも。私、一人になりたくない」
桃子は萌から顔をそらし、悲しそうに言い訳した。
「へえー。じゃあなんでもいいから、誰かに依存したいだけなんだ」
顔を近づけ、萌は雛形に迫る。
「依存じゃない」
桃子はキッと睨み、萌の両肩を掴んで突き放した。
「えー、本当にそうなの? 依存とどう違うの?」
萌はワインを一口飲みながら、手厳しく聞き返す。
「どうせ私は、萌みたいに自立できてない。親と一緒に住んでるし、都会には出てこられないし、田舎者のバカ女だよ」
雛形はワインボトルを見つめ、投げやりに言い捨てた。
「自己肯定感、低っ」萌はワイングラスを高く掲げ、笑い飛ばした。「ねえ。海斗じゃなくって、そっちの彼の方の写真、ないの」
萌が立ち上がると、キッチンに向かいながら聞いた。雛形はスマートフォンを開き、写真フォルダを漁る。萌は小さなまな板とナイフ、それにチーズを持って戻ってきた。
「めっちゃイケメン」
スマートフォンを受け取った萌は眉毛を上げ、目を見開いて画面に喰らいつく。定演のときに控室で撮った画像で、琳太郎は黒いスーツを着こなし、堂々と立ってこちらを見、涼しげな顔で笑っている。
「海斗なんかより、全然こっちの方がいい」
萌は深く頷いて言う。
「顔だけで判断すればね」雛形はそっけなく言った。「ねえ、萌」
「んー?」
萌はスマートフォンを雛形に返すと、まな板をテーブルの上に置き、ナイフでチーズをカットし始めた。
「一人になりたくない、ってわけじゃ、ないんだ」
部屋の隅にあるルームライトの明かりを見つめながら、雛形は言い直した。萌はカットしたチーズを小さな皿に乗せると、雛形に向かって穏やかに微笑む。
「二人でいるのを、諦めたくないんだ」
今度はスマートフォンの画面を操作し、雛形は一つの画像の前で指を止めた。そこには、夏祭りのときに琳太郎と顔を寄せ、笑い合う二人の姿が写っていた。
「そっか」
萌もそう言ってビーズソファに乗り、雛形の腕に自分の腕を絡ませると、その肩にもたれかかった。雛形も自分の頭を萌の頭に乗せた。
「桃子が、幸せな方を選んで」
萌は温かい手で、雛形の手を握りしめた。
つづく




