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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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琳太郎の過去

雛形は自宅で夕食をとった後、自室に向かった。ベッドの上でうつ伏せになり、音羽が新たに編曲した、「パッヘルベルのカノン」の楽譜を見返した。バッグの中から五線譜ノートも取り出した。そこには、琳太郎や梅子、錬三郎から教わった音楽用語や、それにまつわる知識がぎっしり書き込まれていた。

楽譜と五線譜ノートを突き合わせ、用語を調べた。雛形は頷きながら勉強しているうち、しだいに眠くなってきた。やがて頭をベッドに伏せ、目を閉じた。桂木と会った日のことが思い出された。


「連絡いただいて、ありがとうございます」

帝国音楽大学の研究室に雛形を招き入れ、桂木が言った。研究室には入って正面奥に窓があり、グランドピアノとアップライトピアノが置かれている。両脇には背の高い本棚とローボード、デスク、オーディオ機器、黒板が並び、複数ある譜面台の周りをオーケストラチェアが取り囲んでいる。雛形と桂木はそれぞれチェアに座った。桂木がペットボトルのお茶を差し出したので、雛形は会釈して受け取った。

「私、音大って来たことなくて。レッスン室がたくさんあるし、音楽ホールとかもあって素敵ですね」

雛形は室内をきょろきょろ見回しつつ、社交辞令を言った。桂木は品よく微笑む。

「ああ、私、音楽の知識とか、全然なくって。なぜか琳太郎先生と一緒に、吹奏楽部の顧問をやらせてもらってます」

雛形は恐縮して、正直に言った。

「琳太郎はよく、一番東側のレッスン室を使ってました」桂木は懐かしそうに目を細めて穏やかに言うと、ペットボトルのお茶を飲んだ。「朝一番にくると、東側の窓から朝日が差し込んでくるのが好きだからって、よく言ってました」

「そうなんですね」

雛形は相槌を打つ。当時の琳太郎を想像して、少しだけ口元に笑みを浮かべた。二人は互いを探り合うように、しばらく沈黙した。

「あの、」

雛形は切り出した。どう言えばいいのか、少し迷った。桂木は優雅な所作で、静かに足を組み、両手の指を組んだ。

「琳太郎先生は、あるとき突然ピアノにときめかなくなって、ピアニストをやめたって言ってました」

雛形が切羽詰まった口調で言うと、桂木は口元をきゅっと締め、小さな瞳を雛形に向けた。天井のシーリングライトの明かりを受け、瞳は白く輝いた。雛形は緊張しながら見返した。深くため息をつきながら、桂木は口を開いた。

「琳太郎は、そういう言い方をしたんですね」

「はい」

「でも、雛形先生は違うと思ったんですね」

「はい」

桂木は顎の髭を撫でて口を開け、憂いを込めた眼差しを窓の外に送った。気まずくなった雛形は、手に持つペットボトルに視線をずらした。

「琳太郎先生は、嘘をつくときに少し、声が高くなりますから」

口元に手を近づけ、それをグーパー、グーパーして、声を出すジェスチャーをしながら雛形が答えた。

「あと、頷く回数も増えます」

雛形は、今度は首を縦に何度も振ってみせた。

桂木は不意を突かれ、笑い出した。雛形もつられて、少し笑った。それでも笑いはすぐに潰えて、二人は再び沈黙した。それから、ようやく決意したように、桂木が口を開いた。

「事故がありました」

瞳から輝きを消して、桂木が言った。

「事故、ですか」

ペットボトルを空いているチェアの上に置き、雛形は聞き返した。

「ええ。交通事故です」

桂木は立ち上がり、窓のブラインドをおろした。

「そのときに左腕を怪我しました。指の神経を損傷したんです」

桂木は椅子に戻ると、額に手を当てながら言った。雛形は姿勢を正す。

「それで、どうなったんです」

雛形は履いていたスカートを膝の辺りで掴み、落ち着き払った声で尋ねた。

「手術して、リハビリもしました。琳太郎は、当時の若手ピアニストの中でも飛び抜けていました。私を含め、周りも再起することを願いました。日本の将来を担うピアニストだったんです」

桂木がデスクに近づき、デスクトップパソコンのキーボードを叩き、ブラウザを開いた。検索欄に「鳥飼琳太郎」と打った。雛形も立ち上がってデスクに近づき、モニターの前で目を見張った。琳太郎の画像入りの記事が大量にヒットした。ほとんどがピアノコンクールに優勝した記事で、どの記事でも絶賛されていた。なかには子どもの頃の記事もあった。幼い頃からその才能を遺憾なく発揮していたことがよく分かる、ベタ褒めの記事ばかりだった。画像のなかの琳太郎はグランドピアノに向かっているものが大半だったが、数々の音楽家達と肩を並べ、カメラに向かって笑顔を向ける姿も多々あった。帝国フィルハーモニーオーケストラと共演した記事は複数見つかり、そこには普段、ミド中に顔を出す講師たちの顔もあった。

「先生って、有名人だったんだ…」

デスクに両手を置いてもたれかかり、雛形はつぶやいた。

「琳太郎は学生のときからすでに注目されていました。奴は作曲家へのリスペクトを大切にしていたし、曲に対する独自の解釈にも評価が高かったので。琳太郎と共演すると、楽団のコンサートチケットがよく売れたんですよ。琳太郎もオーケストラとやるのが楽しかったみたいで、積極的にオファーを受けていました」

桂木がチェアに戻って座ると、説明した。雛形も座り、黙って相槌を打った。

「これは他の学生に聞いた話です。琳太郎は卒業後、すぐに婚約しました。婚約者と一緒に暮らしていたようです。琳太郎と同じピアノ科出身だったので、私は彼女のこともよく知っています。ですが…。事故があってしばらくして、琳太郎が一方的に、婚約破棄しました」

「はい」

雛形は内心驚いていたが、おとなしく相槌を打った。

「彼女自身は仕事をしながら、リハビリにも付き添っていたし、琳太郎が活動できない間、ずっと支えてやったようなんです。琳太郎がまた、活動再開できるようにって」桂木はため息をついた。「いい()だった」

桂木は目を伏せ、ペットボトルの蓋を開けた。雛形もつられて開けた。桂木は一口、お茶をのむと蓋を閉め、再び口を開いた。

「私は琳太郎本人に聞いたんです。お前、どうしてそんなことしたんだって。そしたら、本人はこう答えたんです。『心変わりしたから』って。『もう何とも思わない』とも。あいつ、顔がいいでしょ。学内でも女子学生に物凄く人気がありました。だからって、なんて野郎だって思いましたよ」

桂木は足を組んで背もたれに寄りかかり、苦笑した。雛形は瞬きを繰り返し、深呼吸をすると、背筋を伸ばして頷いた。

「婚約解消して、あいつは実家に帰ったみたいなんです。しばらくして、コンサートをやるって、私にも連絡が届いたんです」

「そうなんですね」

雛形が身を乗り出し、相槌を打った。

「私はコンサートに行きました。人間性はともかく、奴は私の教え子の一人です。一番いい席を取りました。琳太郎は堂々とステージに出てきました。会場は満席だったし、みんな拍手で迎えました。嬉しかった。やっと復活したんだ、よかった、って、心底ほっとしたんです」

「はい」

雛形はゆっくり頷いた。

「でも」

桂木は大きく息を吐くと、しばらく沈黙した。研究室の壁掛け時計の音だけが、チッチッと小さく鳴った。雛形は桂木が目を瞑る様子を見守った。

「最後まで弾けませんでした」

桂木が無機質な声をこぼした。雛形は黙り込んだ。桂木はこれ以上ないほど、苦悶に満ちた目をしている。

「あいつ、長い時間はもう、弾けないんです」桂木は囁くような声で言うと、一方の手で他方の手をトントンと叩いた。「おそらくですが、後遺症があるんでしょう」

雛形はその手を見つめ、黙って頷いた。桂木は再び席を立ち、デスクに近づいた。雛形も続いた。パソコンの画面に向き直り、一つの記事を雛形に見せた。それは琳太郎の事故当時の記事だった。

「高校生の命を救ったんです」

桂木はさらに弱々しく、震える声で言った。雛形は目を見開き、記事を速読した。当時23歳の琳太郎が、16歳の少年をかばって大型トラックに轢かれたと記載があった。

「あいつは間違いなく天才です」

桂木はデスクから離れ、本棚に向かった。そこには歴代の教え子達の写真がフォトフレームに収まっていた。そのうちの一つを手に取り、雛形の前に持ってきた。

「ショパンの国際ピアノコンクールで優勝したときのものです」

今より若い琳太郎が、グランドピアノに向かって弾く姿があった。雛形はそれを食い入るように見つめた。

「世界中を回って、どこのピアノが最高だとか気難しいとか、いつも楽しそうに話してくれました」

桂木の声は震えた。雛形は変わらず写真を見入った。琳太郎がピアノと一つになっているような、不思議な感覚がした。

「今、また違う道を志して、充実した生活を送れているなら、それでいい。私は、そう思うことにしているんです」

細い管から無理矢理ねじり出すように、桂木は低く弱々しく、か細い声で言った。雛形は大きく、何度も頷いてみせた。

「どうか、これからも奴のことを見守っててほしい」

桂木は聞き取れないほど微かな声で言うと、雛形に向かって深く頭を下げた。


突然、スマートフォンが鳴り響いた。目の前から桂木の姿が消え、代わりに自分の部屋が映し出された。雛形はスマートフォンを手に取って画面を見た。「海斗」と表示されていた。

つづく

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