オルガン
「響が今週、あんまり部活来れないって言ってる」
第二音楽室に入ってきた梅子に向かって、直樹が話しかけた。
「ああ。書道部は冬が一番忙しいから。年明けに書き初めの展覧会があるし」
梅子が答えた。
「そうなんだ」
「書道部の三年生引退したし、鶴ちゃんが部長になったんだよ」
「ええ。それじゃあ大変じゃん」
直樹は驚いた。
「鶴ちゃんだから大丈夫だよ。うちの1stバイオリンだし」
クラリネットはオーケストラのなかでいうとバイオリンだ、と琳太郎が言っていたことを思い出しながら、梅子は信頼しきった様子で言う。響の根性は群を抜いている。少し忙しいくらいで弱音を吐くような人間ではない。直樹は部屋の正面に飾られた「初志貫徹」の文字をじっと見つめる。響が以前、筆をとって書いてくれたものだ。
「寂しい?」
梅子がにやりとしながら聞いた。
「別にそんなんじゃねーし」
直樹は顔を背けると、フルートとピッコロを持ち出し、部屋を出て行ってしまった。横で怜のトロンボーンが、バリバリと音を立てる。
「怜、音割れてるよ」
梅子が不快そうに言った。
「ああ」
怜は乱暴に答えた。
翌日は空に晴れ間が見えず、戸外は冷え込んでいた。放課後になって、直樹は母と二年一組の教室にいた。三者面談のため、二人は担任の教師と席を向かい合わせて座っていた。
「成績、上がりましたね」
担任の福田は四十代の女性で、国語教師だ。期末テストの結果を直樹の母に見せながら、にこにこして褒めた。
「本当にほっとしてます」
直樹の母は胸をなでおろした。
「偉いですよ。吹奏楽部の部長もやって、西関東大会までみんなを引っ張って、さらに勉強も頑張ってて。お母さん、直樹くんは一学期と比べても、大きく成長しました」
直樹の母は誇らしげに頷いた。直樹は胸が高揚し、ドヤ顔をしてみせた。
「部活は楽しい?」
福田が聞いた。
「はい。毎日楽しいです」
直樹ははきはき答えた。
「鳥飼先生の練習は厳しいらしいけど、どう?」
「大丈夫です。頑張ってついていってます」
直樹は普段の練習を思い浮かべながら答える。
「よかった。授業のほうはどう?」
「国語は難しいです」直樹は歯をむき出し、正直に言った。「あと、数学と理科と英語も」
「ほとんど全部ね」
福田が笑うと、母も笑った。
「俺、藍原高校に行きたいんです」
「え?」
母が驚いた。息子が進学校の藍原高校を目指しているとは、初耳だった。
「そこでまた、吹部に入りたいんです」
直樹は熱を込めて言った。
「藍原かあ」
福田が少し真顔に戻り、両手の指を組んで頷いた。直樹は頬を好調させて頷く。
「今の調子で勉強を続けていけば、いけるわよ」
福田は再び微笑み、優しく励ました。
「くそ寒い」
三者面談が終わって母が帰って行くと、直樹は震えながら廊下を歩き、第二音楽室のドアを開けた。中には伊久馬が来ていて、キーボードの前に座っていた。
「今日こんなに寒いのにお前、エアコン入れないでよく弾けるな」
直樹は歯をガチガチ言わせて壁のリモコンスイッチを押し、エアコンを入れた。それから手をズボンのポケットに突っ込んでキーボードに近づいた。
「僕、体温高いんで」
伊久馬は快活に笑った。
「それで、もうキーボードはマスターしたの」
直樹が聞くと、伊久馬は頷いた。
「上手くはないけど、つっかえずに弾けるようになりました」
伊久馬は音色をオルガンに設定して、弾いてみせた。
部員達が集まった頃、琳太郎は皆にハンドベルの個人練習をするよう伝えた。リーン、カーン、ゴーンと賑やかな音が飛び交うなか、指揮台の前で音羽と話し始めた。
「ハンドベルの持ち時間ってどれくらいあるんですか」
音羽が琳太郎に聞いた。
「十分間。二曲くらいできるから、みんなができそうならもう一曲入れてもいいんだよな」
琳太郎はカノンの楽譜を見ながら言う。
「こういうふうにやってみたら良くないですか」
音羽は自分で作ってきた楽譜を琳太郎に見せた。琳太郎はまじまじとそれを見て、小さな声で旋律を歌う。
「いい感じだな」
琳太郎が感心して頷く。
「ありがとうございます」
無機質な声で音羽が答える。
「伊久馬にできるか?」
琳太郎は少し心配して尋ねた。
「問題ないと思います」
「分かった。ちょっとコピーしてこい」
「はい」
琳太郎はその楽譜を音羽に返すと、音羽は部屋を出ていった。
少しして、音羽が戻ってきた。手にはコピーした楽譜を抱えている。
「おーし、お前ら注目」
琳太郎が指揮台の縁をタクトで叩きながら言った。皆は一斉に音出しをやめ、琳太郎を見つめる。
「カノンだが、十七小節目からラストの部分を二回、繰り返しにする」
琳太郎が言うと、皆はそれぞれ譜面に書き込みをした。
「一回目は今まで通り。二回目は音量を落としてやる。三回目はこの楽譜に従え」
琳太郎が音羽に楽譜を配らせた。伊久馬には別の楽譜も配られた。
「僕だけ二枚?」
伊久馬は意外そうに言った。
「二回目のところ、ここはオルガンが裏旋律を弾く。伊久馬、それ用の楽譜が手元に来てるだろ」
琳太郎が問いかけると、伊久馬は頷いた。
「お前の見せ場だ」
琳太郎はにやりとしてみせた。
「はい」
驚きつつも、伊久馬は頷いた。
「三回目の前半は二拍ずつ、ハンドベルとオルガンが掛け合いをする」
音羽のつくった新しい楽譜を見ながら、琳太郎は説明する。皆もうんうんと頷きながら楽譜を読み込む。
「後半はオルガンが主旋律。ハンドベルの低音部分が伴奏に回る」
琳太郎がさらに説明を重ねる。皆はなるほど、と頷き合う。
「難しい音は使ってないから大丈夫かな」
琳太郎が聞くと、低音担当の男子達が「ういーす」とリアクションした。
「じゃ、そんな感じにゴージャスになったやつ、試しに通しでやるぞ。音羽、伊久馬のフォローしろ」
琳太郎が楽しそうに指示すると、音羽は頷いて伊久馬の隣に座り、一緒にオルガンに向かった。
「雛形先生はちょっと見ててください」
「はい」
雛形も答えた。
「ワン、ツー、スリー、」
琳太郎はタクトを振り上げた。
「なんか感動的な曲になっちゃったね。俺、軽く泣きそうだもん」
ハンドベルの練習が終わると、健治が半笑いしながら直樹に言った。
「うん。オルガンがかなり、美味しいよな」
直樹も頷いた。
「偉大な編曲家が部内に一人いると、やっぱ違うな」
健治はキーボードの方を見て言った。新たな楽譜の部分を、音羽が伊久馬にレクチャーしている。
「朱雀さんの頭ん中ってどうなってんだろね」
直樹は尊敬の念を込めて笑った。
翌日、響が部活に顔を出した。直樹はすぐに駆け寄って、前日のハンドベルの進行が変わったことを伝える。ハンドベルラブな響は、面白そうに直樹の話に耳を傾けた。
「あとさ、三者面談、すげー上手くいったよ。ありがとう」
直樹は礼を言った。期末テスト前に勉強に付き合ってくれたのは、ほかでもない響だった。
「直樹、テストの点よかったもんね」
響も誇らしげに、可愛く微笑んだ。
「鶴岡」怜が無表情で、話に割って入ってきた。「ここ、よくわかんねーから教えて」
怜は新しい楽譜を見ながら聞く。響は目をぱちくりさせた後、辺りをきょろきょろと見回した。
「うーん、うちもまだ初見だから、他の人に聞いてくれない?」
「他のやつだとよくわかんねーから、鶴岡に聞きたい」
怜は頑なに譲らなかった。
「そう」
響は少し戸惑いながら、怜の担当するハンドベルのところへ向かった。直樹は少しムッとしたが、何も言わないことにした。
「怜先輩、私に聞いてくれてもいいのに」
まりあが怜と響の方を見て愚痴ると、結那が肩を撫でた。
「直樹」
錬三郎が直樹の肩を軽く叩いた。
「何?」
直樹が振り返った。
「頑張れよ」
錬三郎が意味ありげに笑うと、自分のハンドベルの持ち場へ向かった。
伊久馬はキーボードの練習に励んだ。この頃は練習に対する意識が百八十度変わった。嫌々やっていたオルガン役が、いつの間にかまったく苦痛でなくなった。むしろ楽しくなった。皆との合奏に参加するようになってから、オルガンとハンドベルの重なり合うハーモニーに魅せられるようになった。
何と言っても音羽との練習が楽しかった。本人は基本的に無表情だが、奏でる音色は表情豊かだった。パーカッションの練習の時と同じ、音羽は質問に対してなんでも嫌がらずに答えた。新しい見地も与えてくれた。
新たに加わった裏旋律の楽譜は、音羽の感性そのものだった。上手く言葉に表せないが、伊久馬にはなんとなく音羽らしさというものが掴めつつあった。ハンドベルの演奏をより魅せたい、退屈させたくないというサービス精神、オルガンをバランスよく組み込むための、全体を見渡せる統制力、女子らしい丁寧さ、繊細さが伝わってきた。
「音羽先輩、ここ、もう一回弾いてもらえませんか」
伊久馬がおずおずとお願いすると、音羽はすぐにキーボードを弾き始めた。伊久馬は一音一音噛み締めながら、耳を澄ませた。
つづく