水仙
「目白さん、ちょっと聞いてもいいかな」
第二音楽室で皆が個人練習しているところ、梅子はステージ床に大量の楽譜を広げ、整理をしていた。そこに、雛形が話しかけた。
「はい」
梅子は顔を上げた。
「あのね。私、みんなみたいに楽譜とか全然読めないから勉強中なんだけど、ちょっと教えてもらえない?」
雛形はグランドピアノの上に置いたハンドベルの楽譜を指さして聞いた。
「これ、何だっけ」
「ト音記号です」
梅子もグランドピアノの前にやってきて答えた。
「これは?」
「これは♭です。半音下がる、っていう意味です」
「へえ」雛形は梅子の言ったことをノートにメモしていった。「みんなはこんなの、見た瞬間に分かっちゃうんだ」
「難しいと、すぐに分かんないことも多いですよ」
梅子は苦笑して言った。
「うん。こっちのとか全然分かんなくて。この『C』って何なのかな」
雛形は「百年祭」のスコア譜を指さして聞いた。
「おい、梅子、ちょっと来て」
部屋の壁際でトロンボーンを吹いていた怜が、梅子に声をかけた。
「すいません、先生」
梅子は雛形に軽く会釈すると、怜の方へ駆けていった。
雛形は肘をつきながらため息をつき、スコア譜とにらめっこした。
「それ、四分の四拍子、って意味です」
ピアノを挟んで、向かい側から誰かの指がスコア譜を指さした。顔をあげると、錬三郎が立っていた。
「ああ、そうなんだ。何でこんな書き方するんだろう」
「よく出てくるやつだから、省略してそうやって書くんですよ」
錬三郎は雛形の顔を見ず、礼儀正しく答える。
「そうなんだ」雛形も顔を見ずに答えた。「もっと聞いてもいい?」
雛形がぎこちなく聞くと、錬三郎は頷いた。
琳太郎が第二音楽室にやってきた。雛形と錬三郎の姿が真っ先に視界に入った。雛形は驚いてスコア譜を閉じた。錬三郎もピアノに寄りかかるのをやめ、琳太郎の方を見た。
「ハンドベルの練習をしよう」
琳太郎はそれだけ言うと、二人とは目を合わせなかった。それから、他の部員とともに机を並べ始めた。
オルガン役の伊久馬を加え、ハンドベルの練習が始まった。雛形が指揮台の前に立ってタクトを振り、琳太郎は回転椅子に座りながら演奏をチェックした。
雛形がタクトを振っていると、右の方から視線を感じた。錬三郎がこちらをじっと見ている。雛形は動揺して、テンポが乱れた。琳太郎が背後に立ち、雛形の右手首を掴んだ。
「いち、に、さん、し、いち、に、さん、し。これくらいです。オルガン、もう少し音量下げろ」
琳太郎は雛形の手をコントロールしつつ、伊久馬に指示を飛ばす。琳太郎の顔がすぐ隣にあり、雛形は恥ずかしくなって、少しだけうつむいた。
「雛形先生、よくみんなを見て」
琳太郎はまだ右手首を掴んでいる。雛形は顔をあげ、皆を見渡した。錬三郎とまた目が合った。錬三郎の表情は強張っている。雛形はすぐそばにある琳太郎の横顔を見た。厳しい表情をした琳太郎の視線の先には、錬三郎がいた。雛形はなるべく錬三郎を見ないよう、他の皆を見ながら大きく指揮した。
「そうです、そうです」
琳太郎は手を離した。雛形はタクトを振り続け、皆もハンドベルを鳴らし続けた。
休憩時間になると、響が琳太郎に声をかけた。
「先生、そのパソコンちょっと貸してください」
「いいけど、何に使うの?」
「iTubeを見たいんです」
琳太郎が見ている前で響がブラウザを開き、動画投稿サイト「iTube」のトップページにアクセスした。キーボードを叩き、動画を再生した。
「最近、この人のピアノにハマってて」
響はそう言って画面を見つめる。音羽もやってきて、一緒になって見始めた。最近、話題の若手ピアニストらしく、画面内ではどこかのコンサートホールのステージでピアノを弾いている。
一方、雛形は少し離れたところで本を読んでいた。梅子が近づき、話しかけた。
「先生、その本、何ですか」
「花の本」
雛形は軽く笑って、本の表紙を見せた。
「そんなの、どうするんですか」
梅子も本の中身を見ながら聞く。
「先生のお母さんはね、生け花教室やってるの。今度、そのお手伝いするんだ」
雛形が言うと、梅子は少し嬉しそうな顔をした。
「私の家、造園屋なんです」
「へえ」
雛形は興味深そうに相槌を打った。
「うちのお父さんが言っていたけど、河津桜が人気あるって」
梅子が言うと、雛形は桜のページを開いた。
「桜の枝、いいよね」
「はい。あと、冬だから水仙とか」
梅子が言うと、今度は水仙のページを開いた。白や黄色、淡い紫などの花の写真が載っている。
「いいかも」
雛形はイメージを膨らまして頷いた。それから雛形はペンケースから付箋を取り出し、桜と水仙のページにそれぞれ付箋を貼った。
「これメインであとは適当に揃えればいいや。ありがとう、目白さん」
雛形がにっこり笑うと、梅子も嬉しそうに笑った。ふと、梅子の顔を見て、雛形は口を開く。
「目白さん。下の名前、梅子ちゃん、だっけ」
「はい。上のお姉ちゃんは松子で、下のお姉ちゃんは竹子です」
「へえー素敵」雛形は目を細めて笑った。「私は桃子だから、その家の四女にしてもらえないかな」
「ぜひ!」
梅子も楽しそうに笑った。
部活が終わり、琳太郎と雛形が第二音楽室を出て行った。部員達は片付けをしながら、ぱらぱらと帰っていった。錬三郎はグランドピアノの椅子に座り、ピアノを弾き始めた。
「お前、ピアノも弾けるのかよ」
怜が感心して話しかけた。
「簡単なのしか弾けないけどね」
錬三郎が弾いているのはショパンの「子犬のワルツ」だ。怜はグランドピアノの上で肘をついて、その様子を見守った。ふと、目の前にある本に気づいた。雛形が置き忘れていった花の本だ。怜がパラパラめくっていると、錬三郎は弾くのをやめ、怜のところへ歩み寄った。怜は興味なさそうに、その本を錬三郎に手渡した。錬三郎は思慮深そうな瞳でそれを見つめ、ゆっくりページをめくっていく。やがて部員達はいなくなり、怜と錬三郎だけになった。
「怜」
錬三郎が話しかけた。
「ん」
怜はあくびをする。
「花、贈ろうかな」
錬三郎は本から目を離さずにつぶやいた。
「うわ。お前、きしょいことすんなよ」
怜は驚いて笑う。錬三郎が黙っているのを見て、怜は徐々にフェードアウトし、笑いを引っ込める。
「あのさあ」
怜は切り出した。錬三郎は引き続きページをめくる。
「雛形先生は、やめといた方がいいんじゃね?」
怜は遠慮がちに、錬三郎の横顔を見て言った。錬三郎はページをめくるのをやめない。怜は気まずくなって、ピアノの椅子を蹴り続ける。
「お前、好きな人、いる?」
錬三郎にいきなり水を向けられて、怜は動揺した。
「いねえよ、そんなもん。俺のこと好きって女は、大勢いるけどよ」
怜は虚勢を張った。
「へえ、そうなんだ」
怜は顔を上げず、涼しげな声で頷く。怜は首を縦に振り続ける。
「なら、鶴岡さんが直樹に取られても、文句はないんだな」
錬三郎は顔を上げた。正面から怜を見据えた。怜は目を見開き、言葉を失った。
琳太郎と雛形が職員室に向かうと、雛形は猛スピードで帰り支度を済ませ、風のようにいなくなった。琳太郎はあっけに取られて、その後ろ姿を見送った。
帰宅すると、琳太郎はシャワーを浴びた。着替えて食事をとり、パソコンを開いた。登録している動画配信サービスのウェブサイトを開き、最新のライブ映像をチェックした。
来年のコンクールを鑑み、どうやって部員達を育てていくかを、琳太郎は考えていた。春の頃よりよほどマシになったものの、部員達には圧倒的に教養が足りていないと感じていた。鳴沢学園の演奏や、帝フィルの見本演奏を聴かせるだけではダメだ。もっと多くの音楽に触れさせ、耳を養わせたい。吹奏楽、クラシック、ポップス、ダンスミュージック、ジャズ、民俗音楽など、ジャンルにとらわれず、音楽に深く親しみ、もっともっと体に取り込んでいってほしかった。
琳太郎は無作為に様々なジャンルの動画を見た。適当に開いた動画を見ると、ピアノコンサートの映像が映った。ピアノに向かっていたのは、部活のときに響が見せてくれたピアニストだった。
ピアノの魅力は無限大だ。自分がピアニストだったことから、心底そう思った。7オクターブの音域を持ち、十本の指で様々な表現を創造する。一人でこれだけ幅広い表現ができる楽器はピアノをおいて他にない。琳太郎はテーブルに頬杖をつきながら、ピアニストの指の動きを目で追いかけた。
翌日の放課後、部活の休憩中に、梅子と雛形は再び花の話をしていた。
「水仙がないんだよね」
雛形は椅子に座り、足と腕を組みながら、梅子にこぼした。雪乃に花材を調達してくるよう頼まれていたが、水仙だけがどこの花屋にも卸業者にも取り扱いがなかった。もう一、二週間すれば手に入りそうだが、それだと明日の生け花教室に間に合わない。珍しくたくさんの新規受講者が入ったと雪乃が喜んでいたので、どうにか手配してやりたかった。
「他の花だとダメなんですか?」
梅子が聞いた。
「ダメってことはないんだ。しょうがないから他のにしようかな」
雛形がそう言うと、錬三郎が歩み寄った。
「水仙なら咲いてる場所、知ってますよ」
錬三郎が表情のない声で言った。雛形は腕と足を振り解き、錬三郎を見た。
部活が終わって、雛形は錬三郎に水仙の場所を聞いた。
「車で乗せてってください」錬三郎が言うと、雛形は身構えた。「何もしません」
錬三郎は寂しそうな眼差しを向ける。雛形はしばらく下を向いて考えた。
「分かった」
雛形は頷くと、目の前にいる錬三郎のすぐ後ろに、琳太郎が立っているのが見えた。手に持ったスマートフォンを指さし、何かあったら連絡しろと目で訴えている。雛形は琳太郎にアイコンタクトを送ると、錬三郎を自分の車に乗せた。移動中、二人は一言も発さなかった。
案内されたのは錬三郎の家だった。門の前に車をとめて降りると、門をくぐって庭に足を踏み入れた。完全に日が落ち、外は真っ暗だったが、見事な植栽がされた和風庭園だということは雛形にも分かった。錬三郎はすたすたと長い足で先へ進んでいく。雛形は小走りしながらついていった。
「ここです」
錬三郎がスマートフォンの照明で照らし、指をさした。雛形が見ると、そこにはつぼみをつけたたくさんの水仙が群生していた。
「すごい、たくさん」
雛形がつぶやいた。
「全部持ってっていいですよ」
母屋から出てきた錬三郎の祖父が、背後から声をかけた。
「いえ、そんなには」
雛形は遠慮して言ったが、錬三郎の祖父は鎌を持ち、ごっそり刈り取ってくれた。
「ありがとうございます」
雛形が深く頭を下げると、祖父は再び母屋へ戻っていった。錬三郎は新聞紙を敷き、刈り取った水仙をまとめて掴んで入れ、新聞紙で丁寧に巻いた。雛形も手伝った。何束か出来て、錬三郎は一束、手に持つと、雛形の前に差し出した。
「ああ、ありがとう」
雛形が受け取ろうとしたが、錬三郎が水仙をしっかり握り、受け取らせてくれない。
「鳳君?」
雛形が不思議に思って錬三郎を見上げるや否や、錬三郎は雛形の頬にキスをした。雛形はその場に固まった。
「先生のこと好きになって、ごめん」
雛形は頭の上で、声変わりした少年のやるせない声を聞いた。錬三郎は雛形に花を持たせると、母屋へと立ち去った。
雛形は自宅の玄関ドアを開けた。放心しながら廊下を歩き、リビングのドアを開けると、安彦がすっ飛んで来た。
「桃子。お前は護身術を習え」
お帰りを言うこともなく、安彦は一枚のチラシを押しつけた。チラシのタイトルには「護身術始めませんか」と書かれている。
「は?」
雛形は我に帰り、安彦の方を煙たそうに見た。
「どーも、最近のお前はうわついている。日も短いし、変なのが多いだろ。自分の身は自分で護っとけ」
「意味わかんないから」
雛形は安彦をスルーした。安彦はチラシを折り畳み、勝手に雛形のバッグに押し込んだ。雛形は大量の水仙を抱え、キッチンにいる雪乃に話しかけた。
「ねえ、今日もらってきたの」
雛形が水仙をダイニングテーブルの上に置いた。雪乃は手を洗うと、キッチンからやってきた。
「部活の男の子の家に水仙がたくさんあってね。全部くれるって言うから」
雪乃は新聞紙をめくった。黄色く色づいたつぼみがいくつも見えた。
「ふうん」雪乃は意味ありげに、ゆっくり頷いた。「その男の子、桃子のことが好きだったりして」
雛形はドキリとして身構えた。
「何、言ってんの」
母は雛形を細い目で見た。それから、雛形のバッグからのぞいている本をさっと取り出した。付箋が貼ってあるところを開くと、水仙のページだった。
「ほら」
母が指さした。雛形も見た。そこには、花言葉が書かれていた。
『私のもとへ帰って もう一度愛して 愛にこたえて』
つづく




