吹奏楽が好き
合唱大会と期末テストを無事終えた頃、緑谷町には木枯らし一号が吹いた。
ある日の夕方、印刷室を出て琳太郎が職員室に戻ると、雛形と副校長が話していた。この頃の副校長はすっかり協力的で、雛形は部活のことで何か相談しているらしい。
琳太郎と雛形は、あの夜からほぼ口をきいていなかった。部内で必要なことは話すが、それ以上のことは話さない。話せなかった。
「雛形先生」
琳太郎は事務的な声で雛形に話しかけた。
「はい」
雛形も事務的な声を出す。
「一月にある地区の発表会で、新しい曲をやることにしました。ハンドベルじゃなくて吹奏楽の方です。よかったら」
琳太郎がスコア譜のコピーを渡した。雛形はまじまじとそれを見る。
「琳太郎先生」
「はい?」
「今更なんですけど…」
雛形が言いにくそうに言った。
琳太郎と雛形は鍵束を持ち、第二音楽室へ向かった。部員達はすでに帰宅しているので室内は暗く、誰もいない。琳太郎は照明とエアコンをつけ、五線譜の黒板に向かい、チョークで書きながら説明を始めた。
「ここがド、です。順番にレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」
雛形は音符が読めなかった。ハンドベルの指揮も曲の流れで覚えており、楽譜を見ることはなかった。雛形は一生懸命、五線譜のノートに教わったことを書き込んでいく。
「雛形先生、分かんなかったら無理して覚えようとしなくてもいいですよ」
琳太郎が気遣いつつ、気楽な調子で言った。
「いえ。せっかく教えてもらえる機会があるなら、私ももっと勉強したいです」
琳太郎の方を見ようともせず、雛形は黒板とノートを目で往復しながら答えた。
「真面目な先生だ」
琳太郎は回転椅子を揺らしながらつぶやき、雛形の様子を見る。
「ええ。本当にそうです。吹奏楽が好きなので」
雛形はシャーペンを置いて言った。琳太郎は椅子の背もたれに腕と顎を乗せる。
「私、真面目な先生だから、真面目に考えてます。琳太郎先生のこと」
雛形が言うと、琳太郎は回転椅子を揺らすのをやめた。雛形は五線譜ノートに視線を落としたままでいる。
「でも、どうしても信用できないことがある」
雛形は表情のない声で切り出した。
「何ですか?」
琳太郎は身構えた。
「私には心変わりしないって言っといて、婚約していた方には心変わりした、って言ったこと」
雛形は思い詰めた目で宙を見つめる。琳太郎は瞬きするのもやめた。
「…雛形先生と彼女とでは違います」
琳太郎は暗い顔になった。
「違うって何が? 琳太郎先生は、人によって言うことがポンポン変わるんですか」
雛形が琳太郎の顔をやっと見た。目には非難の色がありありと浮かんでいる。
「そんなんじゃないよ」
琳太郎が打ち消した。
「じゃあ何で? あなたに尽くしてくれた人、どうしてそんな簡単に捨てられたの?」
「簡単ってわけじゃないよ」
琳太郎は目をそらし、否定した。
「ねえ。その人、どんな思いであなたのそばにいたと思ってる?」
雛形は琳太郎を見据えた。
「そんなの知らない」
琳太郎は嫌そうに歯ぎしりをした。
「先生のピアノを、また聴きたかったからじゃないの?」
雛形は琳太郎の手に触れた。手の甲を優しく撫でる。
「きっとまた弾けるようになるって、信じてたからじゃないの?」
さらに問いかけながら、雛形は琳太郎の手の甲をぎゅっとつねった。琳太郎はうつむいたままだ。
「私のことも、いつかそんなふうに捨てるのかな」
雛形は琳太郎の顔を悲しそうに覗き込み、尋ねた。琳太郎は雛形の手を握りしめる。
「そんなわけないだろ」
琳太郎は首を振り、語気を強めた。
「どうしてそう言い切れるの」
雛形は迫った。
「君のこと好きだからだよ」
琳太郎が床を見つめて怒鳴った。
「私だって好きだよ」
雛形も怒鳴った。琳太郎は驚いて顔をあげた。真正面から雛形を見つめる。今にも泣き出しそうなのを堪えていた。
「結婚の約束までして、私も捨てられるって思ったら、耐えられない。怖い。不安だよ」
雛形はわなないた。手が震え、持っていたペンケースが床に落ちた。
「だったら海斗の方がいい」
雛形はペンケースを拾い上げた。琳太郎は雛形の手元を目で追う。
「あなたのことを信じられたら、こんなに悩まない」
五線譜のノートとペンケースを抱え、雛形は第二音楽室から出て行った。
翌日の放課後、琳太郎が第二音楽室に入ってきた。部員達は机を廊下に出し、腹式呼吸のトレーニングをしているところだった。
「お前ら、そろそろハンドベルに飽きてきただろ」
琳太郎が指揮台にスコア譜をばさりと置いた。直樹と梅子は目を輝かせて、スコア譜の方を見やる。
「俺は、合唱に飽きたぞ」
琳太郎が言うと、一同が笑った。合唱大会は無事に終わった。ミド中には音楽教師はたった一人、琳太郎しかいない。全学年、全クラス分の指導をしなくてはいけないのは、さすがにきつかったらしい。
「やっぱり声楽より、器楽の方が好きだ、俺」
琳太郎がさらに言うと、皆もさらに笑った。
「なんのスコアですか、それ」
直樹がたまらず聞いた。琳太郎が皆に見せた。福島弘和の吹奏楽曲「百年祭」だ。
「一月の発表会でやる。みんなが知ってるJ -POPとかもいいんだけどな。俺はあんまり吹奏楽でやるのは好きじゃない。展覧会の絵みたいなクラシックもいいが、16人だと色々厳しいところが多い。からの、吹奏楽曲だ。やろう」
琳太郎が説明すると、響が手を挙げた。
「オーボエとファゴット入ったら、もっとクラシックをやってくれますか?」
クラシック好きな響が尋ねた。
「あー、いいね。最高だね」
琳太郎が頷いた。
「オーボエ、あるといい。あったかい音」
直樹がうっとりして言った。
「ファゴットってどんなのでしたっけ」
バスクラの大輝が興味津々で聞く。
「竹みたいなやつ」
健治が雑に説明した。
「ファゴットは低音の木管楽器だよ。他の楽器とよく溶け込む。いい音してるんだよ。バスクラとはセットで木管低音部隊を結成してもらう」
琳太郎が腕を組み、うっとりした様子で言う。
「バリサクもそこに混ぜてください」
まりあが身を乗り出し、目を輝かせて言った。
「だな」
琳太郎がもっともだと頷く。
「新入生にかかってる。春が待ち遠しいですね」
直樹が期待を込めて言うと、皆も頷いた。
「まーそれまでは、お前らで我慢するしかねえんだけどさー」
琳太郎が意地悪く言うと、みんながブーイングした。琳太郎は皆を愛しげに見つめて笑い、楽譜を配った。
翌日、第二音楽室に集まった部員達は額を突き合わせ、「百年祭」の譜読みに取りかかった。
「フルートも、2n dが欲しいな」
直樹は二枚の楽譜を見比べてつぶやいた。一枚は1s t、もう一枚は2n dの楽譜である。
「フルート二本だったら、綺麗だと思うんだよな」
「ちょっと見せて」響は直樹の持っている二枚の楽譜を見た。「本当だ」
「朱雀さんにキーボードでフルートの音、弾いてもらえば」
健治が言った。音羽は自分のパーカスの楽譜と2n dフルートの楽譜を交互に見つつ、私は構わないよとばかりに頷く。
「うちは人数少ないからって、キーボードに何でもかんでも頼りすぎだと思う」
直樹がぼやいた。
「いや、でも仕方ないだろそれ」
健治が言い返した。
「吹奏楽、だから。生の、管楽器の音でやりたい。だからいいよ、今はフルート一本で。1s tが休みで2n dの出番のところとかあるけど、できるだけ全部、俺がやる」
直樹が言った。怜や公彦も頷く。
「わかる。電子音、増やしたくないよね」
梅子が言った。
「ピッコロとの持ち替えが忙しそうだけど」
響が楽譜を指さして言う。
「何とかなるよ。多分、先生にも色々言われるだろうし」
直樹はあっけらかんとして笑ってみせた。
「キーボードのフルートと本物のフルートじゃ、全然違うしね」
音羽もキーボードの方をつまらなそうに一瞥し、少し笑った。
以降、部員達は基礎練とハンドベルの練習に加え、「百年祭」の練習も始めた。久しぶりの曲練が再開し、皆は生き生きと練習に取り組む。直樹は北校舎四階の廊下の西端で練習していた。フルートを置き、廊下を東に向かって歩いていくと、木管楽器の皆の出す音があちこちから聞こえた。第二音楽室では、チューバが猛々しい低音を鳴らしていた。ホルンやトロンボーンも堂々と吹き鳴らし、それぞれ威勢よく練習に取り組んでいる。準備室からは、パーカッション三人組がスネアやティンパニ、グロッケンに分かれ、気合いを入れて取り組んでいるのが伝わってきた。楽器倉庫に入ってトレーシングペーパーを手に取ると、直樹は再び廊下の西端に向かって歩いた。
「最近、ハンドベルばっかやってたから、なんかすげえ楽しいな」
健治がクラリネットのマウスピースから口を離し、近くで練習する直樹に話しかけた。
「うん」
直樹も純粋な目を楽譜に向けた。
「お前も、今回は変拍子がー! とか文句言わないんだな」
直樹が楽譜を指さしてニヤリとする。楽譜のなかの拍子記号を見ると、四分の四拍子や四分の五拍子だけでなく、八分の七拍子や八分の九拍子まで出てくる。
「何とかなると思う」
健治は深く考えていないようで、いい加減に笑った。直樹は、今度はフルートに目を落とした。
「やっぱ吹奏楽最高」
フルートを構えると、直樹は嬉々として練習を再開した。
つづく