表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
5
88/272

吹奏楽が好き

合唱大会と期末テストを無事終えた頃、緑谷町には木枯らし一号が吹いた。

ある日の夕方、印刷室を出て琳太郎が職員室に戻ると、雛形と副校長が話していた。この頃の副校長はすっかり協力的で、雛形は部活のことで何か相談しているらしい。

琳太郎と雛形は、あの夜からほぼ口をきいていなかった。部内で必要なことは話すが、それ以上のことは話さない。話せなかった。

「雛形先生」

琳太郎は事務的な声で雛形に話しかけた。

「はい」

雛形も事務的な声を出す。

「一月にある地区の発表会で、新しい曲をやることにしました。ハンドベルじゃなくて吹奏楽の方です。よかったら」

琳太郎がスコア譜のコピーを渡した。雛形はまじまじとそれを見る。

「琳太郎先生」

「はい?」

「今更なんですけど…」

雛形が言いにくそうに言った。


琳太郎と雛形は鍵束を持ち、第二音楽室へ向かった。部員達はすでに帰宅しているので室内は暗く、誰もいない。琳太郎は照明とエアコンをつけ、五線譜の黒板に向かい、チョークで書きながら説明を始めた。

「ここがド、です。順番にレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」

雛形は音符が読めなかった。ハンドベルの指揮も曲の流れで覚えており、楽譜を見ることはなかった。雛形は一生懸命、五線譜のノートに教わったことを書き込んでいく。

「雛形先生、分かんなかったら無理して覚えようとしなくてもいいですよ」

琳太郎が気遣いつつ、気楽な調子で言った。

「いえ。せっかく教えてもらえる機会があるなら、私ももっと勉強したいです」

琳太郎の方を見ようともせず、雛形は黒板とノートを目で往復しながら答えた。

「真面目な先生だ」

琳太郎は回転椅子を揺らしながらつぶやき、雛形の様子を見る。

「ええ。本当にそうです。吹奏楽が好きなので」

雛形はシャーペンを置いて言った。琳太郎は椅子の背もたれに腕と顎を乗せる。

「私、真面目な先生だから、真面目に考えてます。琳太郎先生のこと」

雛形が言うと、琳太郎は回転椅子を揺らすのをやめた。雛形は五線譜ノートに視線を落としたままでいる。

「でも、どうしても信用できないことがある」

雛形は表情のない声で切り出した。

「何ですか?」

琳太郎は身構えた。

「私には心変わりしないって言っといて、婚約していた方には心変わりした、って言ったこと」

雛形は思い詰めた目で宙を見つめる。琳太郎は瞬きするのもやめた。

「…雛形先生と彼女とでは違います」

琳太郎は暗い顔になった。

「違うって何が? 琳太郎先生は、人によって言うことがポンポン変わるんですか」

雛形が琳太郎の顔をやっと見た。目には非難の色がありありと浮かんでいる。

「そんなんじゃないよ」

琳太郎が打ち消した。

「じゃあ何で? あなたに尽くしてくれた人、どうしてそんな簡単に捨てられたの?」

「簡単ってわけじゃないよ」

琳太郎は目をそらし、否定した。

「ねえ。その人、どんな思いであなたのそばにいたと思ってる?」

雛形は琳太郎を見据えた。

「そんなの知らない」

琳太郎は嫌そうに歯ぎしりをした。

「先生のピアノを、また聴きたかったからじゃないの?」

雛形は琳太郎の手に触れた。手の甲を優しく撫でる。

「きっとまた弾けるようになるって、信じてたからじゃないの?」

さらに問いかけながら、雛形は琳太郎の手の甲をぎゅっとつねった。琳太郎はうつむいたままだ。

「私のことも、いつかそんなふうに捨てるのかな」

雛形は琳太郎の顔を悲しそうに覗き込み、尋ねた。琳太郎は雛形の手を握りしめる。

「そんなわけないだろ」

琳太郎は首を振り、語気を強めた。

「どうしてそう言い切れるの」

雛形は迫った。

「君のこと好きだからだよ」

琳太郎が床を見つめて怒鳴った。

「私だって好きだよ」

雛形も怒鳴った。琳太郎は驚いて顔をあげた。真正面から雛形を見つめる。今にも泣き出しそうなのを堪えていた。

「結婚の約束までして、私も捨てられるって思ったら、耐えられない。怖い。不安だよ」

雛形はわなないた。手が震え、持っていたペンケースが床に落ちた。

「だったら海斗の方がいい」

雛形はペンケースを拾い上げた。琳太郎は雛形の手元を目で追う。

「あなたのことを信じられたら、こんなに悩まない」

五線譜のノートとペンケースを抱え、雛形は第二音楽室から出て行った。


翌日の放課後、琳太郎が第二音楽室に入ってきた。部員達は机を廊下に出し、腹式呼吸のトレーニングをしているところだった。

「お前ら、そろそろハンドベルに飽きてきただろ」

琳太郎が指揮台にスコア譜をばさりと置いた。直樹と梅子は目を輝かせて、スコア譜の方を見やる。

「俺は、合唱に飽きたぞ」

琳太郎が言うと、一同が笑った。合唱大会は無事に終わった。ミド中には音楽教師はたった一人、琳太郎しかいない。全学年、全クラス分の指導をしなくてはいけないのは、さすがにきつかったらしい。

「やっぱり声楽より、器楽の方が好きだ、俺」

琳太郎がさらに言うと、皆もさらに笑った。

「なんのスコアですか、それ」

直樹がたまらず聞いた。琳太郎が皆に見せた。福島弘和の吹奏楽曲「百年祭」だ。

「一月の発表会でやる。みんなが知ってるJ -POPとかもいいんだけどな。俺はあんまり吹奏楽でやるのは好きじゃない。展覧会の絵みたいなクラシックもいいが、16人だと色々厳しいところが多い。からの、吹奏楽曲だ。やろう」

琳太郎が説明すると、響が手を挙げた。

「オーボエとファゴット入ったら、もっとクラシックをやってくれますか?」

クラシック好きな響が尋ねた。

「あー、いいね。最高だね」

琳太郎が頷いた。

「オーボエ、あるといい。あったかい音」

直樹がうっとりして言った。

「ファゴットってどんなのでしたっけ」

バスクラの大輝が興味津々で聞く。

「竹みたいなやつ」

健治が雑に説明した。

「ファゴットは低音の木管楽器だよ。他の楽器とよく溶け込む。いい音してるんだよ。バスクラとはセットで木管低音部隊を結成してもらう」

琳太郎が腕を組み、うっとりした様子で言う。

「バリサクもそこに混ぜてください」

まりあが身を乗り出し、目を輝かせて言った。

「だな」

琳太郎がもっともだと頷く。

「新入生にかかってる。春が待ち遠しいですね」

直樹が期待を込めて言うと、皆も頷いた。

「まーそれまでは、お前らで我慢するしかねえんだけどさー」

琳太郎が意地悪く言うと、みんながブーイングした。琳太郎は皆を愛しげに見つめて笑い、楽譜を配った。


翌日、第二音楽室に集まった部員達は額を突き合わせ、「百年祭」の譜読みに取りかかった。

「フルートも、2n dが欲しいな」

直樹は二枚の楽譜を見比べてつぶやいた。一枚は1s t、もう一枚は2n dの楽譜である。

「フルート二本だったら、綺麗だと思うんだよな」

「ちょっと見せて」響は直樹の持っている二枚の楽譜を見た。「本当だ」

「朱雀さんにキーボードでフルートの音、弾いてもらえば」

健治が言った。音羽は自分のパーカスの楽譜と2n dフルートの楽譜を交互に見つつ、私は構わないよとばかりに頷く。

「うちは人数少ないからって、キーボードに何でもかんでも頼りすぎだと思う」

直樹がぼやいた。

「いや、でも仕方ないだろそれ」

健治が言い返した。

「吹奏楽、だから。(なま)の、管楽器の音でやりたい。だからいいよ、今はフルート一本で。1s tが休みで2n dの出番のところとかあるけど、できるだけ全部、俺がやる」

直樹が言った。怜や公彦も頷く。

「わかる。電子音、増やしたくないよね」

梅子が言った。

「ピッコロとの持ち替えが忙しそうだけど」

響が楽譜を指さして言う。

「何とかなるよ。多分、先生にも色々言われるだろうし」

直樹はあっけらかんとして笑ってみせた。

「キーボードのフルートと本物のフルートじゃ、全然違うしね」

音羽もキーボードの方をつまらなそうに一瞥し、少し笑った。


以降、部員達は基礎練とハンドベルの練習に加え、「百年祭」の練習も始めた。久しぶりの曲練が再開し、皆は生き生きと練習に取り組む。直樹は北校舎四階の廊下の西端で練習していた。フルートを置き、廊下を東に向かって歩いていくと、木管楽器の皆の出す音があちこちから聞こえた。第二音楽室では、チューバが猛々しい低音を鳴らしていた。ホルンやトロンボーンも堂々と吹き鳴らし、それぞれ威勢よく練習に取り組んでいる。準備室からは、パーカッション三人組がスネアやティンパニ、グロッケンに分かれ、気合いを入れて取り組んでいるのが伝わってきた。楽器倉庫に入ってトレーシングペーパーを手に取ると、直樹は再び廊下の西端に向かって歩いた。

「最近、ハンドベルばっかやってたから、なんかすげえ楽しいな」

健治がクラリネットのマウスピースから口を離し、近くで練習する直樹に話しかけた。

「うん」

直樹も純粋な目を楽譜に向けた。

「お前も、今回は変拍子がー! とか文句言わないんだな」

直樹が楽譜を指さしてニヤリとする。楽譜のなかの拍子記号を見ると、四分の四拍子や四分の五拍子だけでなく、八分の七拍子や八分の九拍子まで出てくる。

「何とかなると思う」

健治は深く考えていないようで、いい加減に笑った。直樹は、今度はフルートに目を落とした。

「やっぱ吹奏楽最高」

フルートを構えると、直樹は嬉々として練習を再開した。

つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ