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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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一夜

長いキスだった。雛形は目を閉じた。頭の中に海斗の顔が浮かんだ。悲痛な顔をしてこちらを見ている。桃子、桃子、と繰り返し呼ぶ声も聞こえた。その顔も声も、点描画のように細かなドット模様になり、儚く砕け散った。唇から琳太郎のぬくもりが伝わった。果実のように甘く優しく、切なかった。雛形は全身の力が抜けた。何も考えられなくなった。


琳太郎はキスしたまま、雛形の両手首を離した。左手で雛形の頬を撫で、頭を撫でた。首の後ろに手を回し、後頭部をしっかり支えた。それから、右手で雛形の着ているカーディガンのボタンを外し、シャツのボタンを外しかけた。我に帰った雛形はとっさに唇を離して目を開けると、琳太郎の右手を掴んだ。

「先生」

雛形は叫んだ。琳太郎は雛形の首筋に顔をうずめ、掴まれた手を振りほどく。今度は素早く雛形のストレッチパンツのボタンを外し、ジッパーを下ろした。

「いや」

雛形は再び琳太郎の右手首をとらえ、爪を食い込ませた。琳太郎の皮膚はむけ、血がにじみ出た。琳太郎は構わず、カチャカチャと音を立てながら、自分のベルトを外し始めた。雛形は右手で琳太郎の左腕を掴み、払いのけようとした。琳太郎は上体をあげ、雛形の首の後ろから左腕を抜き取り、すぐさま雛形の右手首をつかまえると、ベッドに強く押しつけた。琳太郎の指に絡まった黒髪が引っ張られ、雛形は悲鳴をあげた。足をばたつかせるも、琳太郎が体を使い、ベッドに押えつけられた。

「お願い、許して」

雛形は目に涙を溜めて、声をしぼり出した。乾いた声はかすれて裏返った。雛形は歯を食いしばり、力を込めて目で訴えた。琳太郎は雛形の顔を見、我に帰った。雛形の頬には涙の川ができ、大きな瞳がこちらを見つめている。琳太郎は手を止めた。

部屋は静まり返った。雛形のすすり泣く声だけが響いた。ブラインドの隙間からは、変わらず薄明かりが漏れている。遠くで車が行き交う音がした。

「ごめんなさい」

雛形はつぶやくと、琳太郎を見たまま胸を上下させ、しゃくり上げた。琳太郎は雛形を見つめ返すと、雛形の頬を両手で掴んだ。雛形は顔を震わせた。やがて雛形の顔にじりじりと自分の顔を寄せた。二人は静かに見つめ合った。

琳太郎は唐突に、何度も何度も、貪るような短く激しいキスを繰り返した。雛形は泣きながら琳太郎の背中に手を回し、すべて受け入れた。琳太郎はそれから息が詰まるほど力を込め、雛形を抱きしめた。雛形は抵抗せず、琳太郎の背中をさすった。

琳太郎は雛形から手を離した。ゆっくり上体を起こし、仰向けになっている雛形を見下ろした。雛形は体を動かさず、目だけで琳太郎の動きを追った。琳太郎は再び上体を傾け、今度は額にキスをして、頬や耳、髪を撫でた。

「あーあ」

琳太郎は大きなため息をつくと、雛形に背を向け、さっとベッドから降り立った。雛形は仰向けのまま、その後ろ姿を横目に見た。

「どいつもこいつも」

琳太郎は猛スピードで頭の後ろを掻く。雛形は黙って見つめる。

「あいつも、錬三郎も、ぶっ殺してやりたい」

琳太郎は中腰になって両膝に手を置き、吠えた。雛形は驚いて体をすくめた。それからゆっくり、雛形に振り返った。雛形は上体を起こし、ベッドの縁に座ると、琳太郎の顔を見上げた。

「俺は、惚れてる女に無理強いするのは好きじゃない」

琳太郎は仏頂面で雛形を見下ろした。目には苦悶の色が滲んでいた。雛形は口を半開きにして、琳太郎の顔を見上げた。

「先生」

雛形がつぶやいた。琳太郎はスーツのズボンのポケットに両手を突っ込み、雛形の隣にドスンと腰掛けた。

「どうしたらいいか、まだ分かりません」

雛形は自分の膝に視線を落とし、囁いた。琳太郎はポケットから手を出し、雛形の手を握った。

「迷っています」

雛形は正直に言い、琳太郎の手を握り返した。

「そっか」

琳太郎が返した。大きくため息をつき、天井を見た。雛形は膝を見続ける。

「あんな奴でも、まだ好きか」

琳太郎が宙を見て尋ねた。雛形は黙り込んだ。

「でも、俺も諦められない」

琳太郎は手を握る力を強めた。雛形からは、やはり反応はない。琳太郎は雛形を抱き寄せた。

「好きだ」

琳太郎は雛形の髪を払いのけ、優しくキスすると、二人は再びベッドに寝転がった。雛形の乱れた黒髪に自分の手を絡め、ときどき思い出したように額や頭にキスをした。雛形の手を取り、指の一本一本にもキスした。雛形は反応せず、琳太郎の胸に顔をうずめた。琳太郎の胸から速い鼓動が聞こえた。上下する胸の動きに合わせ、雛形も呼吸を繰り返した。二人は目を閉じ、そのままベッドに横たわった。


新幹線の改札そばのカフェでスマートフォンを握りしめたまま、海斗は打ち震えていた。長い間待ち続けたが、雛形から連絡はなかった。

「桃子…」

海斗はテーブルにうずくまった。動悸がして、過呼吸になりそうだった。今頃、桃子はどこでどうしているのか。前にもこうやって連絡がつかなくなることがたびたびあった。後になって問い詰めると、いつも「気づかなかった」とか「充電が切れた」とか、曖昧なことを言われ、かわされてきた。

駅から終電のアナウンスが流れた。海斗はふらふらしながら席を立つと、改札に向かった。


「出ない」

リビングのソファから立ち上がり、安彦はスマートフォンを耳にあて、怒鳴り散らした。呼び出し音が続き、留守電に切り替わる。安彦は電話を切り、壁の時計を見上げた。時計の針はてっぺんを超え、日付けをまたいだことを伝えていた。雪乃は目をこすり、あくびをする。

「桃子から連絡は、ないわね」

「ないわね、じゃない。警察に連絡しないと」

安彦が、今度は百十番にかけ始めた。

「バカ言わないで」

雪乃がスマートフォンを取り上げると、一喝した。

「バカとはなんだ」

安彦は鬼の形相で雪乃に吠えた。

「あの子も社会人です。子ども扱いするのはいい加減になさい」

雪乃が目を釣り上げ、ぴしゃりと言った。

「雪乃」

安彦は泣き出しそうにすがる。

「もう寝るわよ。ほら」

雪乃はリビングの灯りを消し、安彦のパジャマの袖を掴むと、寝室へ引きずっていった。


「まだ起きてるの。早く寝なさい」

錬三郎の母が部屋のドアを開け、錬三郎に言った。錬三郎は母の顔も見ず、いい加減に答えた。パソコンを開き、写真フォルダを眺めていた。

一覧には吹部の皆と映っている写真が大量に並んでいる。真剣に楽器を吹いている写真もあるものの、大半は皆でふざけている写真ばかりだ。琳太郎が映っているものはそれなりにあっても、雛形自身が映っているものは少なかった。雛形はいつも「私が撮るから」と言って、カメラマン役を引き受けてくれていた。

雛形が一人で映っている写真は数枚だけあった。鈴やホテルのロビーでコーヒーを飲んでいる写真。琳太郎の退院祝いのため、椅子の上に立って第二音楽室の黒板周りに花を飾っている写真。メガネを外してレンズを拭いている写真。

錬三郎は一枚の写真に目が止まった。家庭科室でエプロンをつけ、鮭の骨を手にした雛形が、錬三郎の隣に立ち、満面の笑みでポーズをとっていた。錬三郎は長い時間、その写真に見入った。


雛形は琳太郎の腕のなかで、眠れずにいた。徐々に夜が開けようとしていた。雛形は部屋のあちこちを見回す。琳太郎の胸から頭を離し、顔を見上げた。琳太郎は目を閉じ、静かに寝入っているようだった。

雛形は琳太郎の腕から抜け出し、スマートフォンを探した。雛形のスマートフォンはクローゼットの前の床に落ちていた。拾い上げて画面を見た。海斗からのメッセージや着信のほか、安彦の携帯からも着信があった。今度はバッグを探した。ベッドの足元に入り込んでいたのを見つけ出し、その中にスマートフォンを入れた。

雛形はベッドに腰掛けると、背後にいる琳太郎の寝顔を見た。無防備で、少年のように可愛く見えた。パーマのかかった髪を撫でた。ふんわりして柔らかかった。

雛形は琳太郎の額にキスをすると、部屋を出た。

つづく

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