ランニング
定演の翌日は振替休日となり、翌々日から学校は始まった。
吹部の部活は一週間、休みとなった。古くなった第二音楽室を改修工事することになり、完全に立ち入り禁止となったためである。副校長からは、今まで部活で頑張った分、半分は休んで、半分は勉強するようにと伝えられた。琳太郎からは、適当に遊んでろと伝えられた。
「適当に遊ぶってどういうことなのかな」
休み時間になり、二年二組の教室にやってきた直樹が、健治と公彦に向かって言った。
「決まってんじゃん。iTubeでえりジェンヌの動画、観まくることだよ」
このところ部活が忙しく、人気ネットアイドル「はろはろ♡えりジェンヌ」の配信番組をしばらく観てなかった健治は、興奮して言った。
「いいなあ。楽しみがあって」
直樹はため息をついた。
「お前は趣味がないの?」
健治は信じられないといった顔をする。
「うん。ない」
直樹がふてくされて言った。
「不健全極まりないね」
メガネのフレームを持った公彦が聞き捨てならないとばかりに、直樹に言った。
「だって、本当にやることがない」
「だったら勉強でもしたらどうかね」
「それはやりたくない」
直樹は死んだ魚の目とそっくりな目をして言った。部活一筋の直樹には、他の何にも興味を持てずにいた。
「では、僕と一緒に囲碁でもやるか?」
公彦が聞いた。直樹はうんざりした顔をする。
「公彦に勝てるわけないから、絶対やりたくない」
昼休みに、廊下で錬三郎に会った。夏休みのときのように錬三郎スタジオに行って、楽器を好きなだけ吹きたい。それを伝えたが、錬三郎が残念そうに首を横に振った。
「ごめん、蔵にネズミが出て、業者がちょうど殺鼠剤をまいたところなんだ。もう少し作業に時間がかかりそう」
放課後になって、昇降口で直樹は梅子に会った。
「梅ちゃんは今週、何するの」
直樹が聞くと、梅子は得意そうに笑った。
「お姉ちゃん達とチョコレートづくりするんだ。あと、オーブンでパンも焼こうかな。楽しみ」
「へえ」
梅子がチョコレートが大好きなのは知っている。女子はそんなことをして過ごすものなのか、と直樹は少し意外そうに頷いた。
「梅ちゃんちにもお姉ちゃんがいるんだね」
同じく姉がいる直樹が聞いた。
「うん。二人もいるんだよ」
梅子は若干面倒臭そうに言った。
「仲、良いんだ」
「うん。じゃあね」
梅子はそう言って、楽しそうに校門へ駆けて行った。
体育館の前を横切ると、銀之丞と怜、それに大輝が中へ駆け込んでいくのが見えた。直樹が見ると、三人は体育館の空いたスペースを利用して、ソフトバレーボールに興じている。
「おい、直樹、お前もこい」
怜が大声で呼んだ。
「うん」
直樹は少し気圧されながらも混ざることにした。
「二対二に分かれてやるよ。じゃー行くよー」
銀之丞と怜、直樹と大輝のペアに分かれてゲームは開始した。最初に銀之丞がサーブした。大輝がとっさにレシーブしたが、直樹はうまくトスができず、コート外にボールはバウンドしていった。何度かやってみても、銀之丞チームが優勢なことに変わらなかった。
「ねえ、ちょっと不公平だよ」
直樹は愚痴をこぼした。銀之丞も怜も身長は百七十センチメートルを超えている。特に怜は、もう少しで百八十に届きそうだ。一方で大輝と直樹は百六十台だ。
「バーカ、ジャンプ力があれば、身長なんか関係ねえんだよ」
怜が得意げにジャンプしてみせた。
「お前は俺より十センチ以上高いのに、ジャンプ力も半端ないじゃんか」
直樹が食い下がった。
「根性みせろよ、部長なんだからよ」
怜が軽口を叩きながらボールをトスし続けた。
「こんなのに部長とか関係ないよ」
直樹はムキになって言った。そこへ、体育館の窓から幹生が歩いているのが見えた。直樹はすっ飛んでいって、幹生を捕まえてきた。
「お前、代われよ」
「なんすか」
おっとりした幹生は状況を飲み込めないまま、体育館に入ってきた。
「あ、てめー、汚ねえことすんじゃねーよ」
怜が怒った。幹生はまだ中学一年生なのに、身長は百八十センチメートルを超えている。校内でも百八十を超えるのは一部のバスケ部員か、体育教師の鈴木、それに琳太郎くらいだ。
「ジャンプ力があれば変わらないんだろ。じゃ、俺はこれで」
直樹は無理矢理、幹生を後釜に据えつけると、その場から退散した。
困った。本当にやることがない。直樹はひとまず家に向かうことにした。天谷川を越え、林の小道を抜けたとき、前方から女の子と犬がやってきた。
「響」
直樹が手を振って声をかけた。響はジャージを着て、黒い芝犬を連れている。
「直樹」
響は犬のリードを引いて立ち止まった。
「何してんの」
直樹が走り寄って問いかけた。
「体力づくりだよ」
響はその場にしゃがみ込み、犬の頭を撫でながら言った。犬は直樹を見上げて、人懐っこそうな目を向ける。
「そうか。暇ならそうやってランニングすればいいのか」
直樹は腰に手を当てて頷いた。
「うちは、別に暇ってわけじゃないけど」
日頃から勉強を欠かさずにやってる響は半眼で直樹を見る。
「ねえ、一緒に俺もやっていい? うちの犬も連れてくる」
直樹は返事を聞かず、家までダッシュした。
少し経って、ジャージに着替えた直樹が響のところまでやってきた。直樹の連れてきた犬は茶色のトイプードルである。犬同士はワフワフ言い合いながら、激しくじゃれ始めた。
「行こう」
響が芝犬のリードを引いて走り出した。直樹とプードルも続いた。
二人と二匹は畑道を突っ切り、林道に入った。天谷川の側道に出ると、そのまま上流めがけて走った。犬達は大喜びで走り抜ける。直樹と響は必死になって追いかけた。次第に上り坂になり、響が立ち止まった。体を二つに折って両手を両膝につき、ハアハアと息をした。直樹も立ち止まってゼエゼエと息をした。
「ねえ、この先って、あまや楽器があるんだよ」
タオルで顔を拭きながら、直樹が言った。
「へえ。こんな、何にもないところに楽器屋さんがあるんだ」
響は意外そうに言った。
「雛形先生のお父さんが働いてるんだよ」
「へえ」
響は興味深そうに頷いた。
その頃、あまや楽器では安彦と琳太郎、それに雛形が店内で話しこんでいた。
「これのメンテナンス?」
安彦が、カウンター前に置かれた黒いケースを開き、琳太郎に尋ねた。
「そうなんです。お願いできます?」
琳太郎が聞いた。安彦はしばらくそれを凝視する。
「俺に不可能はない」
安彦は尊大に言うと、老眼鏡をつけ、両手に手袋をはめた。複数個あるケースの中には、大小さまざまなハンドベルが収納されている。
「ところでお前、こないだずっと桃子と一緒だったようだな」
安彦が一番大きいハンドベルを両手で持ちながら、琳太郎をじろりと睨んだ。琳太郎は冷や汗をかきながら曖昧に笑った。
「お父さん、先生は私のために付き添ってくれてたんだよ」
分厚いメガネ越しに、雛形が困ったように言った。
「そうやって、動けない娘に触りたい放題していいとは言っていない」
触りたい放題、と言われて琳太郎はますます冷や汗をかいた。あのとき触れたのは、手だけではない。
「ちゃんとお母さんには連絡したでしょ」
雛形が面倒くさそうに言った。
「桃子がメガネを外すと別人なのは、どうせお前にはバレてるんだろ」
安彦は器用にマイナスドライバーを使って、ベルを分解しながら言った。
「はい。世界一の美女です」
琳太郎が直立不動して真面目に答えると、雛形の顔が真っ赤になった。
「馬鹿野郎、宇宙一の美女だ。俺の娘なんだから、当然だ」
安彦はぶつぶつ言いながら、交換が必要な部品をメモしていった。
響と直樹は琳太郎の車に気づくことなく、あまや楽器の前を通り過ぎ、天谷川の側道から川原へ降り立った。学校の近くと違って上流域なので、川の中の石が大きい。一部には大きな岩場もある。繋がれていた犬達を放し、好きなように遊ばせた。犬達は大はしゃぎして川の浅瀬を駆け回り、赤とんぼや野鳥達を追いかけ回した。
「定演、楽しかったね」
直樹が話しかけた。
「うん。すっごい楽しかった」
響も幸せそうに頷いた。
「去年の定演は、お客さんがもっとすっごく少なかったんだよ」
一年前の様子を思い出しながら、直樹は言った。先輩達の友達や家族が来ているのは見たが、他の学校の生徒は来なかった。ましてや枕木中や鳴沢学園の生徒など、一人も来ていなかった。
「そうなんだ」
芝犬がプードルの顔を舐めているのを見ながら、響が言う。
「二個上の先輩達だって、もっと部活、頑張りたかったはずなんだ」
「うん」
ホワイエで会った女子高生達を思い出しながら、響は頷いた。
「だからこそ、俺達は来年、絶対に全国に行く」
直樹は犬達の後ろ姿を見て言った。響は直樹の手元を見た。握り拳をつくって、打ち震えている。
「うん。だね」
西関東大会でのことが思い出され、響も力を込めて頷いた。
「ねえ」
「うん?」
響が聞き返す。
「明日も一緒にランニングしようよ」
直樹がうつむきながら、小さな声で誘った。響は少し考える。
「いいよ」
響は少しはにかみながら、小さく頷いた。
「やることがないとか言ってたのはどこのどいつだよ」
翌日の休み時間、健治と公彦が直樹のクラスに来て言った。
「まさか、犬をダシにして鶴岡さんを誘い出すとはね。よく練られたアイディアだね」
公彦は感心して言った。
「ただのランニングだよ」
直樹は顔を真っ赤にして反論した。
「直樹。君はもっと慎重であるべきだ。君らを目撃した我がクラスの男子が、騒いでいるぞ」
「ええ」
直樹はびっくりして言った。
「前にも警告しただろう。鶴岡さんにはファンが多い」
公彦が脅かすように言った。直樹は震え上がった。
「そうだよ。三年の男子にも、鶴岡さんのこと可愛いって言ってる奴がいるんだよ」
健治も含み笑いしながら同調した。
「直樹」
三人は即座に教室の戸口を見た。響が少し気まずそうに戸口に立っている。直樹は響のもとに駆け寄った。
「今日、ちょっと書道部に寄ってくから、その後でもいい?」
響が目を逸らしながら聞いた。
「うん。いいよ」
直樹もそっぽを向いて答えた。二人の会話を盗み聞きしたクラスの男子達が、一斉に囃し立てた。直樹は真っ赤になって、響の手を引っ張り、その場から逃げ出した。
「いいなーアオハルだなー」
健治は頬杖をつきながら呟いた。
「怜にバレないといいね」
真剣に直樹の身を案じながら、公彦が言った。
それから毎日、直樹は響と犬を連れて、フジバカマやススキ、枯れかけたコスモス畑を見渡しながら、そこらじゅうを走り回った。外の空気は秋らしく冷たくなり、爽やかで気持ちよかった。
「ねえ、直樹」
金曜日の放課後、二人は再びあまや楽器近くの川べりまで来て、響が直樹に尋ねた。芝犬とプードルは、今日は川の中の生き物を捕まえようと夢中になっている。
「何?」
「高校、どこに行くの」
響が石の上に座り、川面を見つめながら言った。
「うーん。まだ分かんない」
直樹も響の隣に座って、犬達の行方を目で追いながら言った。
「うち、藍原高校に行きたいんだ」
「えー。すごいね」
直樹は感心して言った。県立藍原高校は緑谷町の隣の隣、藍原町にある。地域ではそれなりに知られた進学校であり、吹奏楽部のレベルもまずまず高かった。響はもう具体的な進路のことを考えているのかと、直樹は気後れしてしまった。
「直樹は、高校でも吹奏楽、続ける?」
響が近くにある雑草を引っこ抜き、手のなかでもてあそびながら聞いた。
「もちろん、ずっと続けていきたいよ」
直樹は威勢よく言った。高校はともかく、吹奏楽だけは続けていきたい。その気持ちは確かだ。
「だったらさ、」
響は雑草を放って、言葉を一旦切った。直樹は犬達が戯れる様子を見ながら、続きを待った。
「一緒に藍原、行こうよ」
響は、直樹の横顔を見て言った。直樹も響に向き直った。響は恥ずかしそうに、それでも真剣な顔をしている。
上流から冷たい風が吹き下ろした。水辺にいた野鳥達が、バサバサと空へ飛び立った。犬達は小さく吠えながら、四本足を揃え、水面を元気良く飛び交った。
直樹は迷った。自分の偏差値で藍原高校に行けるとはとても思えなかった。響のように頭は良くないし、勉強がそもそも好きではない。そんな自分なのに、響が勇気を出して言ってくれた。嬉しくて、恥ずかしくて、情けなかった。
俺は響のことが好きだ。ずっと一緒にいたい。直樹は唇を噛み、自分自身を奮い立たせた。
「うん、一緒に行こう」
つづく




