俺のです
文化祭の翌日、学校は休みだった。吹部は午後から活動予定だった。部活が始まる少し前に職員室に来ていた琳太郎は、雛形がやってくると声をかけた。
「雛形先生、昨日どこ行ってたんですか」
琳太郎があんぱんを食べながら聞いた。
「ああ、ちょっと用事があって早退しました。すみません」
雛形が机の上にコンビニ袋を置くと、コーヒーを取り出して飲み始めた。
「そうなんですか。俺の勇姿を見てもらいたかったから残念です」
琳太郎が笑って言うと、雛形はそれには乗らず、じっと琳太郎の顔を見た。
「なんですか、可愛い顔して」
「ノーメイクでメガネでも可愛く見えます?」
雛形がぷいっと顔を背け、コーヒーを飲んだ。
「もちろん」
琳太郎はあんぱんが頬に入った状態で愛おしげに微笑んだ。
「学校でこういう会話はやめましょうよ。いつ、誰が聞いてるか分かりませんよ」
職員室には他に誰もいなかったが、雛形は用心深く小さな声で言った。
「別に、聞かれてもよくないですか」
琳太郎はあっけらかんと言う。
「よくないです」
雛形がぶった斬った。
「先生が可愛くて仕方ないから、キスしたくなります」
琳太郎が全力で微笑む。
「琳太郎先生」
「はい。どうもすいません」
琳太郎がぶたれやしないかと、ふざけて頭を両手で押さえると、雛形はメガネ越しに琳太郎を再びじっと見る。琳太郎も意外そうにしつつ、見つめ返す。雛形が自分の顔を琳太郎の顔にじりじりと近づけた。二人の顔の距離が次第に短くなってきた。雛形は琳太郎の手を握る。琳太郎は雛形の顎をそっと掴む。雛形は次の瞬間、琳太郎の口元についているパンのかけらをひょいとすくった。琳太郎が見てる前で、それを食べてみせた。
「あー、何それ」
期待を裏切られた怒りと、嬉しさをないまぜにした琳太郎は、声を張り上げた。
「はい、琳太郎坊や、残りはママが食べてあげましたよ。行きましょ、部活、部活」
「ももちゃん」
「はい。どうもすいません」
雛形は琳太郎の口真似をして笑い、ふてくされている琳太郎を部活へ誘導した。
第二音楽室ではすでに部員達が集まり、合奏の準備を整えていた。琳太郎は気持ちを切り替えて指揮台の前に立った。
「よし。『剣士の入場』やってみよう」
琳太郎が言うと、部員達は元気に返事した。
部活が終わって琳太郎が職員室へ戻ると、雛形はすでに帰り支度をしていた。明日は振替休日で学校はまた休みだ。部活も休みにしてある。
「雛形先生、今日はこの後、ご予定は?」
琳太郎がにこにこして聞いた。
「すみません、予定ありです」
雛形が少し申し訳なさそうな顔をして言った。
「明日は?」
「明日もごめんなさい」
「そうかー、今週はデートはなしか」
琳太郎が残念そうに言った。
「先生なら、デートしてくれる女なんか星の数ほどいるでしょ」
雛形がバッグを手に取り、職員室を出て行こうとした。
「雛形先生はまさか、デートじゃないですよね」
琳太郎が雛形の前に立ちはだかった。今日の雛形は珍しくスカートを履いている。
「うーん…。そうです、ね」
雛形が宙を見て、少し考えながら答えた。
「なんですか、今の間は」
琳太郎は真顔で迫った。
「野暮用です」
雛形は優しい笑顔で琳太郎の脇をすり抜け、職員室を出ていった。
雛形は車に乗り込み、門田市へ向かった。自宅のある住宅街ではなく、商業施設が並ぶ街道を走った。ショッピングモールの駐車場に車をとめ、トイレに行くと、雛形はそこでメガネを外した。コンタクトレンズを入れてメイクし、髪を整えると、エレベータに乗った。レストランフロアで降りて、そのうちのダイニングカフェに入った。店の奥から、一人の男が手を振った。
「桃子」
「久しぶり」
雛形は男にぎこちなく挨拶して、テーブルの向かいの席に座った。
「こんな店でいいの?」
男が店内の様子をじろじろ見ながら聞いた。雛形は黙って頷く。
「何、食べる?」
男が優しい笑顔を向け、メニュー表を差し出した。
琳太郎が自宅に帰ると、スマートフォンが鳴った。電話に出ると、相手はサックス講師の後藤だった。
琳太郎が指定された居酒屋へ入ると、後藤がいる個室に案内された。
「うっす、色男」
後藤は先に一人でビールを飲んでいた。
「俺も生で」
店員に伝えると、琳太郎は掘りごたつ式の席に腰を下ろした。
「どうしたんすか?」
琳太郎がテーブルの上で腕を組んで、身を乗り出す。
「別に。お前が元気かなって思って」
「それ言われると、そんな元気ってわけでもないっすよ」
琳太郎が頭を掻きながら言った。
「全国は来年、行けるよ」
後藤が励ました。西関東大会の結果は、講師陣もとても残念がっていた。同時に、これからもっと力を入れていこうと、口々に励ましてくれた。
「あ、そっちはもう、全然問題ないんすけど」
琳太郎は部活の話はどうでもいいとばかりに言った。
「何に問題があるんだよ」
「俺も後藤さんみたいに彼女、欲しいなって」
ビールと料理が運ばれてきたので、琳太郎は後藤と乾杯した。
「あー、あれ、別れた」
後藤が煙草の煙をフーッと吐いた。琳太郎は中ジョッキを傾け、ビールを飲む。
「なんか、うざったくなっちゃってさ」
「前もそんな感じで振ってませんでした?」
琳太郎が冷やしトマトをつまみ、苦笑いして言う。
「俺、長続きしないんだよ。どうせ結婚もできないし」
後藤が自嘲的に笑った。
「普段はすっげえ紳士なのに、こんなにチャラ男だってバレたらあいつら、幻滅しますよ」
琳太郎がミド中のことを持ち出して笑うと、後藤も笑った。後藤はいつも物腰が柔らかく、竹田のように怖がらせたりしない。常に忍耐強く、教え子の目線に立って指導している。そんな後藤のことを錬三郎もまりあも慕っていた。もちろん、ライブに来た直樹や他の三人も後藤のことを信頼していた。
「そういう俺は、始まりもしないんですけどね」
琳太郎がしんみり言った。
「なんだそれ。その年で片想い中かよ」
後藤がゲラゲラ笑い出した。
「です」
琳太郎が拗ねて言った。
「お前の好みってよく分かんねえんだよな。いつも違うタイプの女じゃん」
後藤は枝豆を咥え、鞘から豆を絞り出した。
「節操がない人間みたいに言うのやめてくださいよ。昔の話です」
琳太郎はうんざりして言った。思えばまともに誰かを好きになったことは一度もない。婚約したのも自分から望んでしたものではない。結局いつだって受け身だった。そんなものだと思っていた。雛形に会うまでは。
「片思いとか、ガキじゃねえんだからやめとけ。巨乳、好きだったよな。紹介しよっか」
後藤が言うと、琳太郎はとっさに牡丹のことを思い出した。寒気がして首を振った。
「最近はそうでもないっす」
「なんだよ。どういうのがいいんだよ」
後藤がジョッキを傾け、喉を鳴らして飲んだ。琳太郎は雛形のことを思った。
「クールビューティ」
琳太郎がつぶやくと、後藤がビールを吹き出した。
「なんだそれ」
「だから、最近の好みです。クールビューティがいいんです」
「うーん、そういう系統、いたかな。探しとこうか?」
「後藤さんこそ女に不自由しないですよね、昔から」
琳太郎は後藤に話を振った。
「まあな。お前と違って顔じゃないところで勝負してるから、俺」
後藤はもう一本煙草を取り出して火をつけると、にんまり笑った。
「親もうるさいんすよね。結婚、結婚て」
「あー、お前んちの親。うるさそうだよな」
後藤は楽しそうに煙草を咥えた。
「俺はどうにかクールビューティと結婚したいんですけど、手強いんすよ」
琳太郎は枝豆を摘んだ。
「お前マジか。結婚まで考えちゃうの」
まるで珍動物でも発見したかのように、後藤は琳太郎を見る。
「です」
「写真、あるのかよ。見せろよ」
後藤がスマートフォンをよこせと手を差し出した。琳太郎は少し考えた。見せたら雛形はどう思うだろう。いや、どうもこうもないだろう。俺らは付き合ってすらいない。
「はい」
琳太郎は、先日二人で帝国音大の定演に行ったときの写真を見せた。
「うお。これは確かにクールビューティ。どこで知り合った」
後藤が食らいついた。琳太郎はすぐにスマートフォンを引っ込めた。どうやら後藤は、画面に映る女性が雛形だと気づいてないらしい。
「ちょっと」
「なんだよ、ちょっとって。他の写真、ないの?」
琳太郎は写真フォルダを漁った。夏祭りのときに撮った写真が見つかった。
「おー。浴衣姿もすげー可愛いー。いいな、俺も好みかも」
琳太郎はまたすぐにスマートフォンを引っ込めた。
「俺のです」
琳太郎が仏頂面で言った。
「彼氏ヅラすんなよ」後藤が笑った。「でもさ、それ、絶対に彼氏持ちだよな」
「え?」
「そんなの、男がほっとくわけねーじゃん」
後藤が琳太郎のスマートフォンを指差して投げやりに言った。琳太郎はみるみる険しい顔になり、押し黙る。そう言われてみるとそうかもしれない。今日のスカートはそういうことかもしれない。
「奪うしかねーな」
後藤は煙草をふかすと、にやりとしてみせた。
場所を変えようと後藤が言うので、店を出た。琳太郎と後藤が二軒目の店を物色していると、後藤が立ち止まった。
「おい。クールビューティ」
後藤が指を差した。交差点の向こうで、雛形が男と並んで信号待ちしている。琳太郎と後藤が見ていると、雛形が気づいた。顔には「会いたくなかった」と書かれている。
「…こんばんは」
雛形が気まずそうに挨拶した。琳太郎は何も言えない。予感が的中してしまい、固まってしまった。雛形の声を聞いて、後藤がハッとした。
「もしかして雛形先生ですか?」
後藤がまじまじと雛形を見ながら聞いた。雛形は恥ずかしそうにうつむき、頷く。
「後藤先生と琳太郎先生って、仲いいんですね」
雛形は中身のない会話を振った。
「桃子」
男が雛形に声をかけた。
「じゃあ、私達はこれで」
雛形は会釈すると、男と立ち去っていった。
「おーい」
後藤は雛形達の背中に向かって小さく唸った。
「おーい」
今度は、フリーズしている琳太郎に向かって唸った。
後藤はバーを見つけ、足に根が生えている琳太郎をずるずると引きずっていった。カウンターに座ると、後藤はウイスキーのダブルを頼んだ。
「飲めよ」
琳太郎にロックグラスを差し出すと、後藤が自分用に水割りを頼んだ。
「まさか、雛形先生だったとはなー」
後藤は煙草に火をつけてクックッと笑ってみせた。
「おかしいですか」
琳太郎が口を開いた。
「ありゃ、無理だ。やめとけ」
後藤は天井に向かってスパーッとふかした。
「何でですか」
琳太郎がムキになって言った。
「一緒にいた男、よく見なかったのか。弁護士バッジつけてたよ」
後藤が、今度は琳太郎に向かって煙草の煙を吐き、苦笑いしてみせた。琳太郎は、ロックグラスの中の金色の液体をじっと見る。氷が少しずつ少しずつ溶け、表面の角張りが減ってゆく。
「スーツはアルマーニで靴はエルメス。お前じゃ、勝てねえよ」
後藤が言うと、琳太郎がロックグラスをぐいっと傾けた。ウイスキーが喉にしみた。
「どうしても諦められないなら、教師辞めて家、継ぐしかないんじゃね?」
後藤が琳太郎の横顔を見て言う。
「そう言って、後藤さんが横からかっさらったりしないですよね」
琳太郎がキッと睨みながら言った。
「なるほど、そういう手もあったか」
後藤は左手のひらを右の拳でポンと叩いた。
「後藤さん」
「雛形先生、すげー可愛いもんなー」
「後藤さん」
「やめとくよ」
後藤は力なく笑った。琳太郎は両手で拳をつくると、後藤を真顔で見つめて言う。
「そうしてください。俺のです」
つづく