嫉妬
中間テストが近づき、部活は自由参加となった。テスト終了日までは琳太郎も雛形も来ないので、部員達は第二音楽室で思い思いに過ごすことができた。
吹部が夏休みに共同学習した効果は確実に現れていた。勉強する習慣がそれなりにできていた部員達は、二学期に入ってから落ち着きを取り戻していた。一年生の大半は帰宅していたが、二年生の大半は第二音楽室に来ていた。五線譜の黒板に計算式を書いたり、英文を書いたりして、意見交換や答え合わせをしていた。一方で普段使わないパーカッションの小物類を倉庫から全部出し、騒々しい音を立てて遊んだり、ジャム・セッションまがいなことをして楽しんだ。
「みんな、赤点だけは取るなよ」
騒々しい室内で、学年トップの錬三郎が笑って言った。
「だね。また保護者会とか勘弁願いたいね」
公彦が数学の教科書を見つめながら頷く。
「俺、今回は国語がダメそうな予感」
直樹が国語の教科書を開いて唸る。
「どこ?」
響が聞いた。
「このページ。主人公の心情がどうとかこうとか、よく分かんないよ」
直樹が吐きそうな顔で言うと、響が丁寧にフォローに入った。
「なーんか、いい雰囲気なんだよなー」
直樹と響のやりとりを遠巻きに見て、銀之丞がニヤニヤしながら呟いた。
「文化祭のときもそうだったじゃん。二人で美術室で見つめ合っちゃってさ」
健治も目を細めてほくそ笑み、ヒソヒソ声で返す。
「えー何それ」
梅子が目をまん丸にして、小さい声で言った。
「そうだ、知ってる? 最近あの二人、呼び捨てし合うようになったんだよ」
健治が小気味よく言うと、皆が小さくて黄色い声を上げた。
そばでトロンボーンの基礎練をしていた怜は、唐突に練習をやめた。代わりにバッグから英語の教科書を引っ張り出し、響に声をかけた。
「俺もわかんねーから教えて」
「いいよ。ちょっと待ってて」
響が顔を上げて頷くと、また直樹のフォローに戻った。
「…ねー、あれ、どう思う」
梅子が意味ありげに聞いた。
「どうって何が?」
健治はぽかんとしている。
「鶴岡さんの奪い合いだね」
錬三郎が面白そうに、教科書で顔を半分隠しながら様子を見ている。
「やっぱりそうだよね」
梅子が真剣な顔をして、腕を組みながら頷く。
「梅ちゃん、いいの。旦那さん取られてー」
銀之丞が怜をドラムスティックで指さして言った。
「旦那じゃないし」
梅子はぷりぷりして言う。
「俺が鶴岡さんだったら、どっち取るかな」
錬三郎がまだ教科書の合間から覗き見して言う。
「直樹に一票」
健治が言った。
「怜に一票」
銀之丞も言った。
「クラリネットに一票」
公彦が口を挟み、一同は爆笑した。
雛形は職員室でパソコンに向かっていた。定期演奏会で使う衣装を探すため、さまざまなウェブサイトをチェックしていた。
しばらくすると、琳太郎が職員室に入ってきた。琳太郎は雛形の向かいの席に座り、事務仕事を始める。あの日以来、琳太郎は急に声をかけてこなくなった。なんとなく気まずくなり、雛形も必要以上に声をかけることは控えていた。
日が暮れるとともに、職員室から職員が一人、また一人と減っていった。琳太郎と二人きりになった雛形は、声をかけようか迷った。そこへ、雛形のスマートフォンがバイブした。
『今週末もそっちに行く』
雛形はメッセージが届いた画面を見て、小さくため息をついた。琳太郎は雛形の顔を、パソコン越しに覗き見した。
中間テストを終え、部活動が再開した。今度は学校全体で体育祭の準備に取り掛かった。体育の時間になるとやたらやたら体育祭の練習をさせられ、背が低い梅子や健治には不満が募った。
「体育祭の日、熱出したい」
梅子が呻いた。
「何それ。俺も同じ」
健治も完全同意した。
「いっそ、ずーっと応援団、やってたくない? 一生、スーザのマーチ吹いてるとか」
「いい。そういうの、いい」
健治の提案に梅子は首を縦に振り、全力で肯定した。
「ちょっと練習すればいいじゃん。百メートル走とか、タイム縮める練習、付き合おうか」
「いい。そういうの、いい」
錬三郎のお節介に梅子は首を横に振り、全力で否定した。
体育祭当日は雲ひとつない青空が広がっていた。夏に逆戻りしたのではと思うほどに気温が上がり、校庭で準備していた教師や体育祭実行委員は、汗だくになっていた。開会式が開かれ、生徒入場となった。訪れた保護者達が我が子に向かって手を振る。
『剣士の入場』を演奏する吹部の出番だ。琳太郎の指揮はなしで、スネアの音羽がカウントを取り、早めのテンポでガンガン演奏された。目立った動きの少ないパーカッション三人組や、コンクールでの課題曲で散々裏打ちのリズムを鍛えられたホルン二人組はともかく、金管低音部隊の幹生、梅子、怜は高速な十六分音符の連続で酸欠になった。フルートとクラリネットもまた、半音階の急降下ラッシュに青息吐息だった。何より、屋外は室内と違って音は散るし、砂ぼこりは舞うしで、コンディションは悪かった。それでも皆で何とかやりおおせた。全校生徒の入場が完了した頃には、吹部は疲労困憊してしまった。雛形が輪切りのレモン蜂蜜をタッパーに入れて、部員達に差し入れてくれた。皆はそれをそのままかじったり、冷たい水に入れて蜂蜜レモン水にして、涼をとった。
体育祭は無事に終了した。この日は部活はないので、部員達は帰宅した。雛形は使ったタッパーを家庭科室で洗い、職員室に戻った。室内では副校長の席の前で、副校長と琳太郎が話をしている。雛形は小さく「お疲れ様です」と二人に言った。琳太郎が一瞬こちらを見たが、雛形は目を合わせず、荷物を持って職員用玄関へ向かった。
文化祭と体育祭が終わったので、吹部は定期演奏会の練習に集中した。おおかたの曲は通しでやり、練習を進められていたものの、何か楽しいことをやりたいという意見が上がった。そこで銀之丞が「カップス」を提案した。
「カップスって何?」
直樹が聞いた。
「プラスチックのカップを持って、音楽に合わせてカップをテーブルに当てたり、拍手したりする遊びだよー」
銀之丞が説明した。
「俺がちょっとやってみせるからみんな、見ててー」
銀之丞がプラスチックのカップを二つ持ってきた。琳太郎は興味深そうにして、椅子をそばに寄せて見守る。部員達も銀之丞の周りに集まった。
「四拍子の曲なら何でもいいんだけど、例えば童謡の『きらきら星』とか。最初の『き、ら、き、ら、ひ、か、る』の、『き、ら、き、ら』のところでテーブルを叩く」
そう言って、銀之丞は四拍分、ドン、ドン、ドン、ドンと手で机を叩いた。
「次、『ひ』で拍手」
今度は銀之丞はパン、と一回手を叩いた。
「『か』でカップを持って」
銀之丞は机に伏せてあったカップを持ち上げた。
「『る』でカップを置く」
コン、と小さな音を立ててカップを机の上に置いた。
「こんな感じで、ちょっとずつ拍手やカップ置くタイミング変えたりして遊ぶんだー」
銀之丞は流行りのJ-POPを歌いながらドンドン、パンパン、コンコンと心地よいリズムを立てながらやってみせた。皆は感心して拍手した。
「おもしろいな。俺にもやらせろ」
琳太郎も一緒になって、皆でカップスの練習を始めた。
定演は演奏する曲数が多いため、練習にはかなりの時間を費やした。琳太郎が演奏指導にかかりきりなので、雛形は定演にまつわる裏方の仕事を一手に引き受けていた。さいわい、保護者が協力的なので、お願いできることはどんどん仕事を振っていくことにした。
練習が終わって琳太郎が職員室へ戻ると、誰もいなかった。自席でパソコンを開こうとすると、ブーッと何かが振動した。
雛形の机の方を見ると、スマートフォンが置いてあった。雛形は離席中だ。琳太郎はパソコンに目を戻すと、再びブーッと振動した。
琳太郎は辺りを見回した。相変わらず遅くまで残っているのはいつも吹部顧問なので、他の職員はいない。雛形の机の上で、真っ暗な画面になっているスマートフォンを、琳太郎はしばらく見つめていた。再びブーッと振動した。画面にメッセージが映った。
『リバーサイドラウンジ白錫に土曜19時』
『先に着いたら待ってる』
『早く会いたい』
琳太郎はそれを凝視した。画面が消えると自席に戻り、パソコンのキーボードを打った。雛形が職員室に入ってきた。二人は特に会話をすることもなく、それぞれの作業に戻った。
「琳太郎先生、ちょっといいですか」
ある日の夕方、雛形が琳太郎に聞いた。定期演奏会を緑谷町民文化会館で行うことになり、そこで使う設備についての相談だった。
「現場、行って決めましょう」
琳太郎は雛形とともに車で向かった。
「こまごまとしたものが沢山ありますね」
雛形が文化会館の設備リストを見て言った。リストにはグランドピアノ、指揮台、演台、反響版、ワイヤレスマイク、ミラーボールなど、さまざまな設備名とその使用料が載っている。
「そうなんですよ。うちから持ち込んだほうがいいものもあるけど、うちに無いものもあるし。レンタルした方が搬入なくて楽ですしね」
琳太郎が会場設備を見学しながら、リストに丸をつけていった。
確認が済むと、琳太郎と雛形は車に乗り込んだ。
車内は二人とも無言だった。何か話せることはないか、雛形は会話の糸口を探した。ちらりと琳太郎の横顔を見る。表情がなく、ただただ正面を見て運転を続けている。雛形も正面を見た。
「雛形先生」
琳太郎が口を開いた。
「はい」
雛形は琳太郎の方を見た。
「あの男、彼氏なんですか」
琳太郎は無表情のまま聞いた。車内はしばらくの間、沈黙した。
「違います」
「じゃあ、誰なんですか」
琳太郎がさらに聞いた。
「彼氏、でした」
「でした、って?」
「今は違います」
「じゃあ何で二人で会うんです」琳太郎は迫った。「俺は知る権利、あると思います」
赤信号で停車している間、琳太郎が雛形の方を見た。雛形は横目で琳太郎を見ると、観念して口を開いた。
「あの人は、前にも先生に話した人です」
信号が青に変わり、琳太郎はアクセルペダルを踏んだ。雛形に居酒屋で聞かされた話を思い出した。
「私はすでにフラれています。だから付き合ってません」
「じゃあ何で」
「よく分かりません」
「分からないって」
琳太郎は釈然としない。
「いきなりいなくなったのに、また現れました」
雛形は暗い顔で言った。
「それで?」
琳太郎が聞いた。
「やっぱりお前が忘れられないって言われました」
雛形が思い詰めた目をして言った。琳太郎はルームミラー越しに雛形の顔を見て、ため息をついた。
「そんな勝手な奴、ほっとけばいい」
「前にも言いましたけど、あいつはクズ男で、私はバカ女です。だから会いました。土下座されて、やり直してくれって泣かれました。だから、」
「だから?」
琳太郎が続きを待った。
「やり直した方がいいのかなって、思い直しています」
雛形が言うと、琳太郎はハンドルを人差し指で小突きながら、さらに大きくため息をついた。
「そんな奴の、どこがいいんです」
「あなただってどうして私なんかに構うんですか」
雛形が語気を強めて聞いた。
「何度でも言います。俺はあなたが好きです」
琳太郎は冷静に、静かな声で言った。
「彼も同じように言っています。琳太郎先生。人ってずっと同じ気持ちのまま、いられるわけがありません。変わっていくものです。先生がどんなに好きだって言ってくれたって、いつかその気持ちは変わってしまうんです」
再び赤信号につかまり、車は停止した。琳太郎は一息ついてから、口を開く。
「そんなことない」
「そんなことあります」
「ない」
「じゃあ、何で婚約破棄なんかしたの」
雛形が上半身を運転席側に乗り出し、声を荒げた。琳太郎は驚いて雛形を見た。
「桂木先生ですか」
青信号に変わり、琳太郎は正面を向いてアクセルペダルを踏み込んだ。
「はい」
「何をどこまで聞いたのか知りませんけど、過去の話です」
琳太郎は暗く低い声で言った。
「過去と今で、先生はそんなに変わったんですか」
雛形は声のトーンを落としたが、追及の手を緩めない。
「あなたはいつも本当のことを話さない」
雛形は繰り返した。
「あなたはいつもそうやって笑って、私の前で壁をつくってる」
雛形の声は徐々に大きくなってゆく。
「どうやって信じろって言うんですか」
雛形は絶叫した。車は学校の駐車場に着いた。琳太郎は雛形の車の右側に、自分の車を停めた。雛形はシートベルトを外して助手席のドアを開け、外に出た。琳太郎も出た。
「あの人のことだったら、扱いは慣れてます。昔から知ってます。何をされたって、どんなに傷つけられたって、私は平気です。でも」
雛形は、車を挟んで反対側に立つ琳太郎を見つめた。琳太郎も見つめ返した。
「それが琳太郎先生だったら…」
雛形は空を見上げ、目を閉じた。メガネを外すと、涙が泉のように溢れ出た。
「とても耐えられません」
雛形は壊れそうなガラスのように、儚く笑った。手で涙を拭うと、急いで自分の車に乗り込んだ。その場に立ち尽くす琳太郎を残して、雛形の車は走り去った。
つづく




