文化祭
「琳太郎先生も混ざってやってくれればいいのにー」
朝練の時間に、音羽にはパーカスをやってもらいたかった銀之丞が不満げに言った。文化祭で演奏予定の「私のお気に入り」では、音羽がキーボードをやるよう伝えられていた。吹部にはコントラバスがいないため、音羽がパーカスではなく、エレキベースの音でキーボードを弾くことになったのだ。
「先生には、あんまりやらせない方がいいよ」
音羽が言う。
「指揮者だからー?」
「指揮者はいなくてもできる」
音羽はさらに、淡々と言う。
「じゃあなんでー?」
銀之丞が聞いたが、音羽は答えなかった。
放課後になり、第二音楽室で琳太郎は「私のお気に入り」の合奏練習をした。琳太郎はタクトを下ろし、健治の方を見た。
「ここのイントロ、健治、お前がソロやれ」
部員たちの前で、琳太郎がこともなげに言った。健治は「えっ」と言って固まった。
「ピッコロとクラ二本で賑やかに始めるより、クラ一本でしっとり入った方が情感が出る」
琳太郎がさらに言うと、直樹も響も黙って頷いた。
「こういうのは1stの方が…」
健治が響を見ながら恐る恐る言った。
「今のお前ならこれくらい、できるだろ」
琳太郎が面倒くさそうに苦笑いしてみせた。響もそうだそうだと言わんばかりに何度も頷く。
「はい…」
「任せていいよな」
琳太郎が挑発的に健治を見て、にっこり笑った。健治は観念して、小さく頷いた。
「やったじゃん、念願のソロじゃん」
翌日の部活時間に、北校舎の四階の廊下の端では、直樹がニヤリとしながら言った。フルートの先端で小突くと、健治は鬱陶しそうにしながら、楽譜とにらめっこする。響は少し離れたところで、一人で個人練習に励んでいた。
「お前の音、すげえ綺麗になったもんな」
直樹は素直に褒めた。竹田に叩き込まれた技術は、健治のクラリネットにしっかり生きていた。四月の頃に不快なリードミスを連発していた健治は、もうどこにもいない。
「そんなこと言ったって俺、自信ないよ」
「そういうのを俺も、公彦も、梅ちゃんも、みんな乗り越えてきた」
直樹がぴしゃりと言った。健治は口をすぼめて直樹の顔を見る。
「鶴岡さんならソロでもなんでも上手くやれるのに…」
「俺もこの曲、後半にちょっとだけソロあるし。一緒に頑張ろうぜ」
直樹は爽やかに言うと、健治の肩をバンバン叩いた。
「うん…」
健治は運命を受け入れつつあった。
「響じゃなくてお前が選ばれたんだし」
直樹が真顔になって、さらに力を込めて言った。
「今、響、って…」
直樹が響と呼び捨てしたのを聞いて、健治は目をパチクリさせた。
「だって、向こうも直樹って呼ぶから…。琳太郎先生だってそう呼んでるし…。お前だって健治って呼び捨てされてるじゃん」
直樹は響の方を見てしどろもどろで言い訳する。響も一瞬、こちらを見たが、また練習に戻った。
「俺は、鶴岡さん、って呼んでるけどね」
健治は含み笑いをした。
「だったらお前も響って呼べばいいじゃん」
直樹は真っ赤になって言い返す。
「ふうううん」
健治は訳知り顔になった。唇の輪郭が波打ち、目が垂れる。何やら元気が湧いてきた。
「なんだよ」
直樹は健治の脛を軽く蹴った。
「いいと思うよ」
健治は笑いを堪えて、練習に戻った。
それぞれが練習を積んで、ミド中の文化祭当日の朝を迎えた。戸外はすっきりした青空が広がり、少し涼しい風が吹き抜けていた。
吹部達は出番が近づくと、体育館ステージの袖に集まった。フロアにはパイプ椅子が並べられ、生徒やその家族達が見物に来ている。
「今日は、ドテカボチャは要らねえよな」
琳太郎がヒソヒソ声で皆に聞いた。
「俺はやりたいです」
直樹が即答した。
「俺も」
「私も」
皆は口々に言った。琳太郎は「仕方ねえな」と言って、用意しておいたドテカボチャのぬいぐるみをポケットから取り出した。皆はそれを愛しそうに見て笑う。ドテカボチャの儀式が終わった頃に、ちょうど合唱部の発表も終わり、ステージが空いた。緞帳が降り、司会役の文化祭実行委員がしゃべっている間に、吹部達はステージをセッティングした。琳太郎は指揮には立たず、銀之丞に目配せすると、司会がいる方へ向かった。
セッティングを終えると、緞帳が上がった。白いスポットライトがステージを照らした。皆が椅子に座るなか、健治だけが立ってクラリネットを構えた。観客達は一斉に健治を見つめる。琳太郎もステージ脇の階段近くで見守る。健治は楽器を軽く振るとたった一人、イントロのソロを吹き始めた。
高音域を安定した音で吹けるようになってきた健治は、四分の三拍子のリズムをゆっくりのテンポで、ミスすることなく、しっとりした音色で吹いた。しんとした体育館に、それは確かな意思を持ち、まるで長い手足を伸ばすように、ゆるやかに響き渡っていった。健治は吹き続けた。終始落ち着いていて、抒情的で、一つ一つが豊かだった。健治は余韻を残しながら、静かに終わらせた。銀之丞がスティックでカウントをとり、速いテンポで演奏が再開した。他の部員達が一斉に吹き始めるなか、健治が丁寧に頭を下げると、客席からは拍手が沸いた。琳太郎も力強く頷いた。健治は琳太郎の方を見て、ガッツポーズをしてみせた。
演奏はおおかた上手くいった。客席からは大きな拍手が上がった。琳太郎は司会からマイクを借りて、定期演奏会の告知をする。最後にお辞儀をすると、再び大きな拍手が鳴り響いた。
体育館から北校舎四階の第二音楽室まで、吹部達は楽器を手分けして運んだ。片付けが終わると琳太郎が、今日はもう部活なし、自由行動にしていいと伝えた。部員達の大半は大喜びで、方々へ散っていった。静まり返った第二音楽室では直樹と音羽、響が残った。
「文化祭、見に行かないの」
直樹がピアノ椅子に座る音羽に聞いた。
「興味ない」
音羽が無表情なまま答えた。
「音羽ちゃんて、いつもそっけなくて笑える」
響が笑った。
「ねえ、何か弾いてよ」
直樹がせがんだ。音羽は軽く頷くと、ピアノを弾き始めた。きらきらした高音のメロディーと、波打つような低音の重なりが美しい曲だった。
「綺麗な曲だね」
響がうっとりして言った。
「それは何ていう曲なの」
直樹が聞いた。音羽は表情を変えず、何も言わない。おもむろに、今度は違う曲を弾き始めた。
「ねえ。何か見に行こうよ」
響が直樹に言った。
「うん…」
直樹は音羽の様子が少し気になったが、それ以上は放っておくことにした。
「じゃあね、音羽ちゃん」
響が音羽の背中に向かって声をかけた。音羽から反応はないので、響と直樹は第二音楽室を出て行った。
音羽は二人が遠ざかって行ったのを確認すると、ピアノを弾くのをやめ、五線譜をバッグから取り出した。今しがた、弾いた曲を音符に落とし込んだ。タイトルには消えそうな薄い文字で、「直樹」と書いた。
直樹と響は、美術部の展示を見に、美術室へ行った。何人かの生徒や保護者が見学に訪れていた。
「これだったら健治の方が上手くない?」
直樹が一枚の絵を指さして言った。響も頷いた。
「健治、絵が上手いもんね」
響も頷いた。
「この絵はなんなんだろう」
直樹が今度は別の絵を指さした。抽象的で、よく分からなかった。
「『希望』て題名に書いてある」
響が読み上げた。
「希望、って絵にできるもんなんだ」
直樹は顔をしかめた。
「なんか、直樹みたい」
響が微笑んだ。
「なんで」
直樹には意味が分からない。
「希望、って、今の直樹みたい」
響が優しい声で言い換えた。直樹は響を見た。響も見つめ返した。直樹は急に心臓がドキドキし始めた。響の顔は見慣れているはずなのに、物凄く可愛く見えた。そういえば、笑っている顔はそんなにたくさんは見たことがない。大抵は楽譜に向かって真剣な顔を向けていることが多い。健治には怒ってたり、たしなめていることが多いし、琳太郎先生の前では緊張していることが多い。音羽ほどではないにしろ、響もそこまで感情豊かなタイプではない。
「顔に何か、ついてる?」
響が自分の頬を触って聞いた。
「ううん、別に」
直樹は首を横に振った。そこへ、銀之丞と健治が駆け寄ってきた。
「あー、いたー、そこの二人! おもしれーもんやってるから見に行こー」
銀之丞がニヤニヤしつつ、こっちおいでとばかりに手を振った。直樹と響は互いに目を合わせてから、銀之丞達について行った。
「早く早く」
健治がせかした。四人は南校舎一階の廊下をダッシュした。まっすぐ東側に向かい、渡り廊下を抜けて体育館に入った。スピーカーからは大音量のヒップホップミュージックが流れ、ステージでは数人の男子生徒が踊っている。どうやら有志の発表らしく、それぞれが好きなパフォーマンスを披露しているようだった。
「何なの」
直樹がうるさそうに耳に手を当て、銀之丞に聞いた。
「先生が出るんだよ」
「何に」
響が尋ねた。すると、黒いTシャツを着た男子生徒が、マイクを持って喋り出した。音楽は鳴り止んだ。
「ありがとうございます。じゃあ今から、ダンスバトル、いきまーす」
男子生徒がマイクを床に置くと、今度は違うヒップホップミュージックが流れた。ステージには黒いTシャツの男子のほか、赤いTシャツの男子と青いTシャツの男子が進み出てきた。二人は向かいあい、音楽に合わせて体で軽くリズムをとり、互いに出方を探り合ってる。
赤い方が突然リズムに合わせて踊り出した。観客の歓声は大きくなった。吹部の四人もステージを見つめる。
「どこに先生がいるの?」
響が聞いた。
「そのうちだよ」
健治が答えた。
赤い方が引っ込むと、今度は青い方が踊り出した。再び観客の歓声は大きくなる。
「何やってんの、これ」
直樹が訳が分からず聞いた。
「ダンスでバトってんだよー」
銀之丞がのんびり答えた。
青い方が引っ込むと、再び赤い方が踊る。同様に、赤い方が終わると青い方が踊りを再開する。
「はい、終了ー」
真ん中で見ていた黒いTシャツの男子が両手を大きく振ると、音楽が停止した。
「じゃあ皆さん、赤の方が良かった人!」
黒いTシャツの男子がマイクで呼びかけると、観客が拍手をした。まあまあ大きな拍手だ。
「青が良いっていう人!」
今度は拍手が少し小さかった。
「ウィナー、赤!」
赤いTシャツの男子がガッツポーズをした。観客も沸いた。
「じゃー次です。昭和熱血男、鈴木先生!」
黒いTシャツの男子生徒が袖に向かって叫ぶと、がっちりした体型の体育教師、鈴木がジャージ姿で登場した。客席からは大きな歓声が上がった。
「ミド中のプリンス、鳥飼先生!」
今度は琳太郎が登場した。オーバーサイズのグレーのトレーナーにカーキ色のカーゴパンツを合わせ、見た目だけでも完璧なヒップホップダンサーだ。琳太郎はアイドルのように笑顔で客席に手を振った。「王子ー」とさらに大きな歓声が上がった。
「先生」
直樹と響は声がハモった。琳太郎と鈴木は新たに流れてきた音楽で軽くリズムをとり、不適な笑顔を交わし合う。
先に突っ込んでいったのは鈴木の方だった。なんとも不自然で、ヘンテコな踊りだった。本人も笑いながらおどける。客席からは拍手と爆笑が起こった。
鈴木が引っ込むと、今度は琳太郎がステージ中央に歩み寄った。腰に重心を置き、背中を柔らかく曲げたかと思うと今度は手をキビキビと動かし、足をバネのように開いたり閉じたりしながら前進し、メリハリをつけて踊る。客席からは女子を中心とした絶叫が上がった。
「先生、エモいー」
銀之丞が叫んだ。健治もぴょんぴょんジャンプしてエールを送った。直樹は笑いが止まらなくなり、涙を流した。響もつられて大笑いした。四人は観客達と一体化し、琳太郎に大声援を送った。
勝負は琳太郎の圧倒的な大勝利となった。琳太郎は鈴木と握手を交わすと、猛烈な拍手喝采を受けながら退場した。
「すごい発表だったね」
文化祭が終わり、帰り道で夕焼けを見ながら、直樹が言った。
「俺ら吹部の発表なんか、かすんじゃったよ」
健治が吹き出しながら言った。
「先生があんなにキレキレなヒップホップダンサーだったとはねー」
銀之丞もゲラゲラ笑った。
「ねえ。でも、雛形先生、いなかったね」
響がふと、思い立ったように言った。
「そういえば、今日、見てない」
直樹が思い出しながら言った。
「雛形先生も琳太郎先生のダンス、見たかっただろうなあ」
響がつぶやいた。男子三人は琳太郎のダンスを真似しながら、バカ笑いを続けた。
その頃、雛形は電車に揺られていた。スマートフォンの画面をじっと見つめていた。
つづく




