帝国音楽大学定期演奏会
吹奏楽コンクール西関東大会の審査員の一人、桂木笙吾は自宅でパソコンを開き、吹奏楽関連の記事を斜め読みしていた。数多ある記事のなかから、小さな記事が目に止まった。記事には『十年ぶりに西関東大会出場 部員はたった十六人』とあった。
「琳太郎」
桂木は記事に載っている画像を凝視しながらつぶやいた。二列に並ぶ生徒達の傍に、背の高い琳太郎の姿があった。
桂木は当日の演奏を思い返した。そういえば極端に人数の少ない学校が一校、あった。確か、全国大会の代表には選出されなかった学校だ。あのときの指揮者の顔は遠目で覚えていないし、演奏もどうだったかいまいち覚えていないが、この記事の画像に映っているのは間違いなく琳太郎本人だ。桂木は記事を読んでみた。「顧問の鳥飼教諭は『音量ではなく、少ない人数でいかに会場に響かせるか』に尽力した」とあった。
「琳太郎…」
桂木は再びつぶやき、画面の向こうで快活そうに笑う琳太郎の顔を見つめた。
緑谷町の上空には、素晴らしい青空が広がっていた。
ミド中吹部は全国大会出場を逃したものの、予想以上にやることが多く、部員も琳太郎も忙しくしていた。文化祭では吹奏楽部はステージ発表をすることになっていた。持ち時間を見て、琳太郎はリチャード・ロジャース作曲の「私のお気に入り」を演奏することとした。体育祭では全校生徒が入場する際に吹奏楽部が演奏するのが恒例である。有名で気分が盛り上がりそうな楽曲がいいと判断し、ユリウス・フチーク作曲の「剣士の入場」を選んだ。一番手をかける必要があるのは定期演奏会だ。夏休み中に部員達から希望を募り、選曲も済み、それなりに練習を進めてはあったが、コンクール曲が優先だったこともあり、練習はまだまだ不十分なところがたくさんあった。部員達はいつものように第二音楽室に集まり、新たに追加された楽譜の譜読みを始めた。
「『私のお気に入り』、転調多いね」
梅子がまじまじと楽譜を見ながらつぶやいた。
「『剣士の入場』のクラ、俺、できる気がしないよ」
健治が目を細めて言う。
「いや、『剣士の入場』はチューバもかなりやばいです」
珍しく幹生も口を挟み、青ざめている。
「琳太郎先生ってやっぱり、ドSだよね…」
直樹もフルートの楽譜を見て苦笑いした。
「早く講師の先生、来ないかなあ…」
皆は口々に言い、講師達の来校を待ちわびた。
数日が経ち、講師陣の来校日がようやくやってきた。それぞれが講師達のレッスンを受けるため、パートごとに空いている教室へ向かった。フルート講師の桜川は直樹の手にしたマツムラのフルートを見て、顔をほころばせた。
「持ち主に合わせて、楽器もグレードアップしたのね」
「マイ楽器じゃなくて、学校のやつですけど」
直樹は謙遜して言った。総銀製のフルートは教室の照明を受けて、キラキラと輝いている。
「じゃあ部活引退するまで、その恩恵をフルで受けましょう。是非、聴かせて」
桜川はにこにこして、直樹に吹いてみるよう勧めた。
それぞれレッスンが終わり、講師達の帰る時間になった。
「琳太郎君」
桜川が第二音楽室にいる琳太郎に声をかけた。チケットを二枚、琳太郎の前に差し出す。
「今年も我が母校が定期演奏会をやるよ」
チケットには「帝国音楽大学フィルハーモニー管弦楽団 第85回定期演奏会」と書かれている。桜川も琳太郎も同学の卒業生で、桜川は琳太郎の二つ上の先輩だった。
「私は予定が入っちゃっていけないんだ。琳太郎君、代わりに行ってよ」
「ええー、俺っすか」
琳太郎は乗り気ではなさそうに、頭を掻きながら言った。
「たまには後輩達のことも応援してあげて」
桜川はなおもチケットを突き出す。雛形がそばに寄ってきて、興味深そうにそれを見た。
「雛形先生、いかがです?」
桜川が笑顔で聞いた。
「はい、行きます」
雛形がバッグから財布を取り出そうとすると、桜川は首を横に振った。
「お金はいいの。琳太郎君も連れてってやって。ね?」
桜川は雛形にチケットを二枚握らせた。琳太郎と雛形は顔を見合わせる。
「分かりました、ありがとうございます」
琳太郎が代わりに答えた。雛形が驚いて琳太郎の顔を二度見する。雛形は動揺する気持ちを隠し、琳太郎とともに礼を言うと、桜川は第二音楽室を出て行った。
土曜日の午後、雛形は門田駅から電車に乗った。雛形一家が住む門田市は、琳太郎が住む緑谷町に隣接する。先頭車両の座席に雛形が座っていると緑谷駅でドアが開き、琳太郎が乗り込んできた。
「先生」
雛形が軽く手を振ると、琳太郎が歩み寄ってきた。今日は白のインナーにグレートーンのタータンチェックのシャツ、黒のスラックスに黒いローファーを履いている。カジュアルが似合う琳太郎は、今日も素敵だと雛形は思った。対する琳太郎もまた同じように思った。今日の雛形はパープル系のメイクをして髪をハーフアップにしている。ライラックカラーのノースリーブワンピースを着て白いカーディガンを羽織り、ベルト付きの黒いサンダルを履いた姿はエレガントで、とても可愛らしかった。
「今週末も先生とデートで嬉しいです」
学校で見る雛形の姿とのギャップを今日も楽しみながら、琳太郎が嬉しそうに言った。
「どうも」
雛形ははにかんで軽く会釈した。先週末のことが気に掛かり、雛形は二人きりになるのが気まずかった。なんだかんだと琳太郎と過ごすことが多いし、完全に琳太郎のペースにはめられているようにも思えた。
「そのすごいの、何ですか」
琳太郎が隣に座り、雛形が手に持っている紙袋を指さして聞いた。
「私が作ったフラワーアレンジメントです」
雛形が袋の中を広げて見せた。花籠の中ではオレンジ色のガーベラに黄色いガーベラ、ミニバラ、姫りんご、小さな赤い実をつけたノイバラなど、秋らしい色みの花材が上手くまとめられている。メッセージカードも付けられていて、琳太郎が読み上げた。
「『第85回定期演奏会 開催おめでとうございます。心よりご成功をお祈りしております。鳥飼琳太郎』。完璧じゃないですか」
琳太郎が大笑いした。
「母校の演奏会と聞きましたので」
雛形が品よく微笑んだ。
「お心遣い、どうもありがとうございます。花もすごいけど雛形先生って、字、綺麗ですね」
琳太郎は手書きのメッセージカードに目を戻して言った。
「ありがとうございます」
雛形は少し自信に満ちた声で返した。
琳太郎と雛形は電車を降りて会場の帝国芸術会館へ向かった。入り口を抜けると受付があり、琳太郎がアレンジメントを渡した。二人は二重になった防音扉をくぐり、大ホールに入った。ホール内は雛形が見たこともない贅沢なつくりをしていた。ヴィンヤード式のホールで、全1950席の客席がいくつかのブロックに分けられており、正面のステージをぐるりと取り囲んでいる。さらにその周りを木製の反射壁が取り囲み、天井には曲線が美しい巨大な音響反射板が吊るされていた。ステージ奥にはパイプ総数4900本を超えるパイプオルガンが設置され、荘厳な雰囲気を醸し出している。
「音大生はこんなに立派なところで定期演奏会をやれるんですね」
雛形が驚きながら言った。
「ですよね」
琳太郎は見慣れた感じで落ち着いて言った。二人は座席番号を確認し、正面から十列目の席に並んで座った。
「いい席だ」
琳太郎がつぶやいた。
「そうなんですか」
雛形はよく分からず聞く。
「かなりバランスよく聴こえるところです。音大生じゃなくてプロの演奏団体だったら、結構なチケット代になります」
「へえ」
雛形は感心して頷く。
徐々に席は埋まり出し、客席の照明が落ちた。ステージの照明が明るく灯り、演奏者達の姿がはっきり見えてきた。指揮者が袖から登場し、演奏が始まった。
普段からクラシック音楽に縁がない雛形は、チケットに書いてあった曲目を事前に調べ、予習をしておいた。何がどういいのかもよく分からなかったが、吹奏楽にない弦楽器の響きに新鮮さを覚えた。隣にいる琳太郎の顔をちらりと見た。琳太郎は微動だにせず、演奏を聴いている。
すべての曲が終わり、拍手喝采とともにステージは幕を閉じた。琳太郎と雛形がホール脇の通路を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「琳太郎」
琳太郎が振り返ると、一人の男性が立っていた。五十代と思われる男性で、髪には白いものが混じっており、背が低く、中肉の体にぴったりの藍色のスーツを着ている。雛形がつくったアレンジメントを抱え、少し思い詰めたような目をして、背の高い琳太郎を見上げていた。
「桂木先生。ご無沙汰しています」
琳太郎が背筋を伸ばすと、礼儀正しくお辞儀をした。雛形もそれに従った。
「久しぶりに会えて嬉しいよ。元気だったか」
「はい。おかげさまで」
琳太郎は社交的な笑みを浮かべた。
「今は中学の先生か」
「はい」
琳太郎は頷いた。
「西関東は残念だったな」
桂木が言うと、琳太郎は驚いて目を見開いた。雛形とも顔を見合わせた。
「小編成は大編成とそもそもが違う。そんなところでまた、無謀なことやってみせたな」
桂木が面白そうに笑った。
「…見てたんですね」
琳太郎も少し困ったように笑う。
「お前は昔から度胸がある」
桂木はさらに声高に笑った。
「はい。それで先生、こちら、同じ職場の方なんですけど。雛形先生です。雛形先生、こちら、帝国音大の桂木先生です」
「はじめまして、雛形です。素晴らしい演奏会でした」
「こんにちは、桂木です。ありがとうございます」
雛形は緊張して挨拶した。桂木は品の良い笑顔を雛形に向けた。
「雛形先生には、一緒に吹奏楽部の顧問をやってもらってます」
そう言って、琳太郎が初めて生き生きとした顔をした。桂木は琳太郎をじっと見る。
「充実してそうだな」
桂木は温かい声で言った。
琳太郎と桂木はしばらく近況報告をし合い、世間話を楽しんだ。雛形は横に立ち、二人が繰り広げるちんぷんかんぷんな会話に合わせて、愛想笑いをした。
「悪い。『たられば』は無しだと言ったのは、君だったな…」
ふと、桂木が眉毛を垂れて、悲しげに呟いた。琳太郎は黙って静かに微笑んだ。これまでの和やかな雰囲気が消え、急に気まずい空気が流れた。雛形は何も口を挟めず、ただならぬ様子を傍観していた。
「雛形先生、遅れて申し訳ないが、」桂木は少し明るい声に戻し、雛形に向けて、名刺を差し出した。「美しい花をありがとうございます。どうぞこちらを」
「とんでもないです、頂戴します。すみません、私は持ち合わせてなくて」
名刺を持っていない雛形は恐縮して、桂木から名刺を受け取った。名刺には「帝国音楽大学音楽学部 教授 桂木笙吾」とあった。
「琳太郎をよろしくお願いします。何かあったら連絡ください」
桂木が丁寧に頭を下げた。雛形も慌てて頭を下げた。
「何があったんですか?」
桂木と別れた後、帰りの電車に揺られながら、雛形は琳太郎に聞いた。
「雛形先生」
「はい」
「今日、飲みに行きませんか」
琳太郎が少し不自然な笑顔で誘った。
電車は門田駅に到着した。駅前の居酒屋に入ると、二人はL字形の狭い半個室に通された。小さな四角いテーブルを前に、雛形が西側、琳太郎が北側の座面に座った。雛形が生グレープフルーツサワーをオーダーすると、琳太郎は同じものをくださいと店員に伝えた。
「今日は赤ワインじゃないんですね」
琳太郎がくすくす笑うと、雛形が口をへの字に曲げた。
「もう、あのときのことを持ち出すのやめてください」
雛形が怒って言うと、琳太郎は無言で笑って何度も頷いた。少し経って、グラスに入ったサワーと半分に切ったグレープフルーツ、それにお通しが二つずつ運ばれてきた。二人はそれぞれグレープフルーツを絞って果汁をグラスに注ぎ入れ、乾杯した。
「子どものときから、俺はずっとピアノが好きでした」
琳太郎がサワーを一口飲んだ後、切り出した。
「将来はピアニストになるって、決めていました。寝ても覚めてもピアノに夢中で、一日中弾いてました。高校を卒業して、帝国音大に入りました。その時、特にお世話になったのが、さっきの桂木先生です」
琳太郎がお通しを箸でつまんだ。里芋とスルメを甘辛く煮込んだ、季節の小料理だ。
「俺は桂木先生に鍛えてもらいました。先生のおかげで、知識も技術も身につきました。とても感謝しています。ただ…」
琳太郎は口をつぐんだ。
「ただ?」
雛形が言葉をついだ。
「卒業してすぐ、コンサートを開きました。手応えはあったし、評判は悪くなかったと思います。その後もたくさんの演奏団体と共演させてもらったりして、活動を続けていました。でも、あるとき、急に…。何もかもがつまらなくなってしまったんです。ピアノを弾いてても、心がときめかなくなって。しばらくすれば気持ちが戻るかと思っていましたが、なかなか戻りませんでした。それで、ずいぶん悩みました」
琳太郎は瞬きを繰り返しながら、深呼吸をした。雛形は黙って琳太郎を食い入るように見つめる。琳太郎は言葉を選びながら続けた。
「ボランティアで、小学生のバンドを指導する機会がありました。子ども達のキラキラしてる姿を見て、ああ、こういうのもいいな、楽しいなって思って。それで、学校で音楽の先生をやってみたくなって、大学に戻り、教職をとることにしました。桂木先生にも周りにも、色々言われましたけど。実家がある埼玉県の教員採用試験に合格して、俺は中学の音楽教師になりました」
琳太郎はそこまで言って、サワーを二口、三口、流し込んだ。雛形は琳太郎の所作を観察しながら、しばらく黙り込んだ。琳太郎はグラスを置くと足を組み、その上に手を置き、宙を見つめている。
「そうだったんですね」
雛形はようやく相槌を打った。箸でつまもうとした里芋が、小鉢に滑り落ちた。頭の中で言葉が迷子になり、それ以上のことを言えずじまいだった。
「雛形先生は?」
琳太郎が向き直って、雛形に水を向けた。
「私は…。私は、先生みたいにすごい才能はないし、ごく普通な一般人ですよ。普通な子どもでした。単純に中学のときの家庭科の先生のことが大好きでした。みんなが退屈しないよう授業もたくさんの工夫があって、それが面白くて、本当に好きでした。家庭科って、料理や裁縫だけじゃない、温かみがあるいい教科だなって思ってて」
雛形が宙を見つめ、目を輝かせて言うと、琳太郎は頷きながら、続きを促す。
「私、数学とか理科とか苦手だったんです。実生活に根ざしてないから面白くないって思えて。でも、家庭科は実生活そのものです。授業で聞いたことを学校から持ち帰って、そのまま自宅で実践できます。そこに楽しさを感じていました」
雛形の口調はどんどんポジティブになっていった。
「音楽は、歌うのは好きだったけどピアノは弾けないし、リコーダーも下手だったし、楽器はみんなダメでしたね」
琳太郎の方を見て、申し訳なさそうに笑った。
「そんなに理想的な家庭科の先生が、ごく普通な一般人とは思えませんけど」
琳太郎は穏やかに微笑んで、スルメを一つ口に運んだ。
「そうですか? どこにでもいる、ありふれた教師だって思ってますよ」
雛形はグラスに口をつけ、謙遜して言う。
「とっても魅力的な先生です」
琳太郎は箸を置き、背筋を伸ばすと、雛形の目をまっすぐ見た。雛形はグラスを握りしめたまま唾を飲み込み、目をそらした。
「買いかぶりすぎですよ」
「そんなことないですよ。雛形先生が企画したおにぎり作り、あいつらすごい楽しそうにしてましたよね」
「まあ、鴨井君から白鳥君の好みを聞き出しただけなんですけど」
雛形は再び謙遜する。
「先生はいい先生だし、いい女です」
琳太郎は雛形の横顔をじっと見た。正面から見る顔も好きだが、つんと澄ました横顔もまた、愛おしかった。
「全然そんなことないです。私って、本当にバカ女なんですよ」
雛形は自嘲的に笑って、サワーを一口飲んだ。
「どこがです」
琳太郎は真面目に返す。
「じゃあ、笑いながら聞いてもらえます?」
少し酔いが回って、雛形が流し目で琳太郎を見た。
「もちろん」
琳太郎はまつ毛をしばたいて、身を乗り出す。雛形は一息ついて、語り出した。
「昔から、どういうわけか私は、クズ男が好きでした。デート代はいつも私持ちなんです。クズ男は運転免許を取らなかったから、車を出すのもいつも私です。そのわりに忙しいとか言って、私が寂しいときには会ってくれないんです。向こうの都合がよくなると突然連絡してきて、いつも展望台に行こうっていうんです。黒崎の」
「もしかして恋人山?」
「そうそう」
琳太郎が聞くと、雛形は頷いた。門田市の南にある黒崎山は通称「恋人山」と呼ばれている。カップル御用達のスポットで、某有名観光地の発想をそのままパクり、展望台には金色の立派な鐘が設置されていた。訪れるカップル達はこぞって鐘を鳴らし、愛を誓い合うのが定番だった。
「あそこは観光地でも何でもないし、門田の市街地が見下ろせるだけだし、大したロケーションじゃないんですよね。でも、私もクズ男も、そこを最高のロケーションだと思い込んでるわけです。そこで、桃子愛してるーって毎回、叫ぶんですよ。私は見事に騙されて、それでまた繰り返し。最終的に私が捨てられました」
雛形は目を細め、心底うんざりした顔で言い切った。
「そんなのと別れて本当に良かったですね」
琳太郎は苦笑しながら言った。
「本当に、それです」
雛形も恥ずかしそうに笑った。
「目の前のいい男を新しい彼氏にする気はないんですか」
琳太郎は自信たっぷりに頬杖をついて、雛形の瞳を覗き込む。
「琳太郎先生という偉大な社会的資産を、無駄にはできません」
雛形は視線を天井にそらしてほくそ笑み、サワーを一口飲んだ。
「また、それ」
琳太郎は拗ねてみせた。
「すみません」
「クズ男は雛形先生と付き合ってもらえたのに。すっげえ妬ける」
琳太郎もサワーをぐいっと飲んで、グラスをドンと置いて雛形を軽く睨んだ。
「過去の話でしょ」
雛形はため息をついた。
「そうだけど」
「じゃあ、親睦会はもうお開きにします?」
「いやだ」
雛形はいじける琳太郎をにこにこしながら交わし、店員を呼び止めた。雛形が右手でメニュー表をめくりながら店員に伝え、店員が手に持ったハンディターミナルにメニューを打ち込む。ふと、雛形の左手に何かが触れた。テーブル下で、琳太郎が雛形の左手を握っている。
「琳太郎先生」
店員が厨房に戻っていくのを見届けてから、雛形が低い声で咎めた。
「人目につかないところならいいっていう約束ですよね」
雛形が左手を引っ込めようとするも、琳太郎は離してくれず、堂々と言った。
「それはそうですけど」
雛形は恥ずかしそうに肯定する。
「こんなにいい女が目の前にいて、触るなっていう方が無理です」
琳太郎は雛形をじっと見ると、愛おしそうに微笑んだ。雛形は黙ってサワーを飲み、左手のことは好きなようにさせてやった。
二人は居酒屋を出て、門田駅前の広場へ向かった。バスターミナルもタクシープールも閑散としていて、往来する人間は少なかった。琳太郎の視線を感じながらも、雛形は敢えて目を合わせなかった。今回は酔い潰れず、理性を残していた雛形は、乗り場にやってきたタクシーへ逃げるように飛び乗った。琳太郎が後部座席のドア手前まで駆け寄ると、雛形は初めて目を合わせた。
「今日は楽しかったです。琳太郎先生、おやすみなさい」
雛形は琳太郎に向かって、ぎこちなく会釈をすると、小さく手を振った。ドアは閉まり、ゆっくりと発車した。琳太郎は走り去るタクシーの後ろ姿に向かって手を振った。
門限ぎりぎりに雛形が帰宅すると、父の安彦がおかんむりだった。
「こんな時間までほっつき歩いて」
安彦は缶ビールを片手に、靴を脱ぐ雛形を睨みつけた。
「十一時五十八分。門限には間に合ったよ」
雛形はスマートフォンの画面に表示された時刻を見せつけた。
「最近多すぎだぞ。毎週毎週、何やってんだ」
「毎週じゃないもん」
雛形は安彦の脇をすり抜けてキッチンへ行くと、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、コップに水を注いだ。
「何だお前、顔が赤いぞ。飲んできたのか」
「お父さんだってそうでしょ」
雛形は喉を鳴らして水を飲むと、安彦の赤ら顔を見て噛みついた。
「誰と」
「誰でもいいでしょ」
雛形はぞんざいに言うとコップを洗って、洗いカゴに置いた。
「桃子、お帰り。お父さん、もういい大人なんだから、ほっといてあげなさいよ」
風呂から出てきた母の雪乃が、会話に混ざってきた。
「どこがだ。まだ子どもだ」
安彦はビールの缶に指をめり込ませながら言う。
「すぐ、そう言う。お父さんのせいで婚期、逃したらどうするの」
雪乃が安彦の両肩を掴んでたしなめた。
「今どき、30過ぎても結婚しないのは多いんだろ。だったらいい。まだ家にいればいい」
「あんなにいい男がいるのに、逃す方がバカですよ」
雪乃がうっかり口を滑らした。ハッとして安彦の肩から手を離し、自分の口に手を当てる。雛形も安彦も、雪乃をガン見している。
「何だ、いい男って」
「おやすみなさい」
「お父さん、ほら、ビールのお代わり。このおつまみ、すんごく美味しいのよ」
雛形はドアを閉めて早々に逃げ出した。雪乃は安彦の厳しい追及を、生ビールとおつまみでブロックした。
雛形は自室のドアを閉めた。桂木にもらった名刺を傍に置いてパソコンを起動すると、メールを打ち始めた。
つづく




