仲のいい同僚
「雛形先生」
金曜日の部活が終わった後、雛形が職員室に一人残って事務処理をしていると、琳太郎が入ってきた。
「はい」
雛形が顔を上げた。
「色々とありがとうございました」
琳太郎が自分の机の上にパソコンを置くと、礼を言った。
「いえいえ。おにぎり作り、楽しかったですね。予算もフルートももらえたし万々歳です」
雛形は明るく言って、パソコンの画面に戻った。
「直樹が立ち直れそうでよかったです。他の奴らも」
琳太郎が言うと、雛形はため息をついた。西関の一件でショックを受けたのは直樹だけではない。全員が苦渋を飲んだのだ。
「でも、今回、一番元気がないのって、生徒じゃないんですよね」
琳太郎が雛形の顔をまじまじと見ながら言った。雛形は何も言わずに琳太郎を見つめる。
「琳太郎先生ですか」
雛形が言うと、琳太郎はにっこりした。
「そうです」
「そうでしょうね」
雛形はまたパソコンに目を戻した。
「死ぬほど凹んでます」
「それで何なんですか」
雛形は画面を見つめたまま言う。琳太郎は軽快に笑った。
「仲のいい同僚が、何とか解決してくれませんか」
「解決方法が分かりません」
雛形はそっけなく言った。
「簡単です。俺の車に乗ってくれるだけでいいんです」
琳太郎が満面の笑みで言う。雛形はパソコンのキーボードを打つ手を止めて、沈黙した。
「はい、そこ、沈黙しない。分かってますよ。変なことしたら警察と吹奏楽連合とお父さんに通報されちゃうんですよね、俺」
「その通りです」
雛形は、分かればよろしい、という口ぶりだ。
「変なことしないんで、どうかお願いします」
琳太郎が頭を下げた。
「了解しました」
雛形はパソコンを閉じて席を立った。
「どこに行くんです?」
雛形は一旦、自分の車を自宅に置きに行き、琳太郎の車に乗り込んで聞いた。
「デートに最高の場所です」
琳太郎はうきうきして言った。
「デートとは言ってないんですけど」
雛形は助手席側の窓を見ながら、あくびして言う。日はすっかり落ちていた。暗闇の中を規則的に並ぶ道路照明が、道を照らしていた。
「じゃあ、可哀想な同僚を慰める会、でお願いします」
琳太郎はハンドルに向かってお辞儀した。
「それならいいです」
「雛形先生」
「はい」
「コンクールのとき、フルートの応急処置、よくわかりましたね」
琳太郎は話題を変えた。雛形は少し誇らしげにして笑う。
「昔、父が、学生相手にやってるのをたまたま見てたんですよ。グリスなんか要らない、そんなのよりロウソクのロウを塗ればいいって」
「あのロウソクはどうしたんですか?」
「会場のケーキ屋さんで買いました」
「ケーキ屋なんかあったんですね。本当にありがとうございます」
琳太郎は心から言った。結局、金賞は取れませんでしたけど、と雛形は心の中で言った。雛形は進行方向を見た。車はインターチェンジへと向かっている。
「琳太郎先生」
「はい」
「どこに行こうとしてます?」
雛形が怪訝そうに聞いた。
「そうですね、車で二時間くらいのとこです」
琳太郎はさらりと言った。
「遠すぎませんか」
雛形が驚いて言う。こんな夜にどこへ向かうというのか。
「いいじゃないですか。明日は休みなんだし」
「それはそうですけど」
「あ、そうかー。箱入り娘には門限があるのか」
琳太郎が茶化した。
「正直言うと、リアルにそれがあります。深夜零時を過ぎると、その瞬間に父から鬼電がかかってきます」
雛形が真面目な口調で言うと、琳太郎が吹き出した。
「なんか、女子高生の親御さんみたいですね」
「そうなんですよ」
雛形は困ったように笑った。
「雛形先生」
「はい」
「俺んちなら門限ないですよ」
琳太郎が軽口を叩いた。
「一人暮らしの家にそれがあったらおかしいですよね」
雛形が真面目な調子で言う。
「俺んちに住みません?」
「は?」
「いい案だと思いません?」
琳太郎は正面を見ながら、目をキラキラさせた。
「あいにく、箱入り娘は嫁入り前だから無理です」
雛形はぶりっ子声で言った。
「へえー、どこに嫁入りするご予定なんです?」
琳太郎が楽しそうに聞いた。
「どこでしょう」
雛形がはぐらかすと、琳太郎は口をすぼめた。
車は高速道路を西へ突き進んだ。
「つきました」
琳太郎がシートベルトを外したので、雛形も続いた。外に出ると、満天の星空が頭上に広がっていた。どこかの高原らしく、広大な駐車場と屋外トイレ、ハイキングコースを示す案内看板らしきものが立っていたが、漆黒の闇に包まれ、雛形にはよく見えなかった。風が吹き、黒い樹木の葉が音を立ててたなびいた。雛形は寒くなって震えた。琳太郎がコートを肩に掛けてくれた。
「綺麗」
雛形は完全に心を奪われていた。
「雛形先生」
「はい」
琳太郎が嬉々として左手を差し出した。周りに誰も居ないことを確認して、雛形が戸惑いながら右手を差し出す。二度と離してくれなそうなほど、琳太郎はガッチリ握ってきた。
「あ。そういえば俺、たった今、気づいちゃったんですけど」
二人は手を繋ぎながら星空を眺めて歩いた。
「はい」
「先生、今はそんな余裕がないから誰とも付き合えない、って言ってましたよね。部活忙しくて」
「言いましたね」
雛形は頷く。
「でも全国行きは無くなりましたよね」
「…そうですね」
雛形は言い訳が苦しくなってきた。琳太郎が繋いだ雛形の右手を引き寄せた。雛形の左手は琳太郎の右手につかまった。
「余裕ができた今なら、俺達、付き合えますよね」
二人は手を取り合う形で向かい合った。琳太郎は純粋な少年のように屈託のない笑顔で尋ねる。雛形はその純真さに引き込まれた。琳太郎が必死で振り向かせようとしているのが、嫌でも伝わってくる。嬉しくて、少しおかしくて、苦しくて、切なかった。このまま首を縦に触れたら、どんなにいいだろう。
「先生って、本当に執念深いですよね」
雛形は下を向いて、小さく笑った。
「そうですが、何か」
琳太郎は開き直った。
「私には、あなたはもったいなさ過ぎるんですよ」
「そうやって体よく俺のこと振ろうとしてません?」
琳太郎がふてくされて聞く。
「違います。本当にそう思ってるんです」
雛形は琳太郎の顔を見た。ふてくされてる顔が愛しかった。
「じゃあ本当は俺のこと好きなんですか」
「嫌いではないですよ」
雛形は困ったように微笑んだ。
「雛形先生」
「はい」
「好きです」
琳太郎は静かな声で言った。雛形は琳太郎の顔を見た。顔から笑みは消えていた。琳太郎の目がすべてを物語っていた。
琳太郎の瞳は深い海のようだった。海は蒼く蒼く、どこまでも深い慈愛に満ち満ちていて、温かかった。一度入ったら二度と地上には帰ってこられないだろうと、雛形は理解した。きっと誰も傷つけないし、自分もこの男に傷つけられることはないだろう。信じてもいいように思えた。それでもその海に足を踏み入れられない臆病な自分が足枷になって、雛形は何もできず、ただただそこで立ち止まるほかなかった。
「嫌いじゃないなら。それでいいから」
琳太郎は雛形の瞳を捕らえたまま、ゆっくりと、低く深い声で囁いた。雛形は何も言わない。
「君が好きだ」
琳太郎は繰り返した。長い指が、雛形の頬を優しく撫でた。
「ずっと俺の隣にいてくれ」
雛形が立ち尽くしていると、琳太郎は雛形の肩を引き寄せた。ガラス細工を包み込むように優しく抱きしめた。
星は一層瞬き、夜空の協奏曲を奏でていた。
つづく




