灯籠流し
退院して実家に寄り、アパートに帰宅した琳太郎は明かりをつけた。
荷物のなかから洗濯物を出して洗濯機に突っ込むと、寝室に行き、ベッドに寝転んだ。履いてたデニムのポケットからドテカボチャのぬいぐるみを取り出した。無性に雛形に会いたかった。喉の調子が戻り、声が出せるようになってから、何度も雛形に電話をかけた。雛形は一度も出なかった。メッセージを送ると返ってくることはあっても、仕事の話以外は続かず、いつも途切れてしまった。どうやって呼び出すか、ドテカボチャをもてあそびながら考えた。喉が乾いたのでキッチンに行くと、紙が擦れるような音がした。ふと玄関の方を見ると、不在の間にたまっていた郵便物が郵便受けからこぼれ落ちていた。琳太郎はそれらを拾い集め、中身を確認した。刊行誌「広報みどりや」が入っていた。
琳太郎はぱらぱらとめくると、見覚えのある写真が目に入った。「緑谷中吹奏楽部西関東大会出場決定」という記事だった。写真は県大会で演奏しているときのものだった。内容は失笑ものだった。おそらく副校長が校長のためにヨイショしたのだろう、「鸚鵡林校長の影の支えがあって〜」とか「鸚鵡林校長を筆頭に学校をあげて応援を〜」などと書かれている。
琳太郎はさらにページをめくった。「今月の催し」という見開きがあった。花火大会や夏祭りのほか、町内ボランティア清掃や交通安全教室、ダンススクールの案内などが掲載されている。
そこで一つの案内に目が止まった。琳太郎はスマートフォンを取り出し、メッセージを打った。
翌日の夕方、雛形は天谷川のほとりにある蕎麦処に来ていた。ミド中よりも少し上流、あまや楽器よりは下流にあたるポイントで、ちょうど毎夏恒例の灯籠流しが行われる位置にあった。多くの町民が集まり、それぞれが川に灯籠を浮かべ、死者を弔う。店内には川に面した大きな窓が設けられ、そこから外の様子を眺めることができた。
琳太郎の母がお礼をしたいからという理由で呼び出されたが、まだ来ていないらしい。雛形は窓際の四人がけのテーブルに案内され、そこに座った。小綺麗にしていた方がいいと判断し、今日は淡いブルーグリーンのサマーニットにセンタープレスの効いたアイボリーのパンツを着、シルバーのサンダルを履いてきた。長い黒髪はコテで巻いてカールさせてから、高い位置でポニーテールにしてある。もちろんメガネは外してコンタクトレンズを入れ、化粧は濃くなりすぎないようナチュラルメイクにしてきた。
「雛形先生」
琳太郎がやってきた。今日は細身の体にぴったりあうネイビーのポロシャツにベージュの膝丈パンツ、白いスニーカーを履いて爽やかに登場した。近くの席の女性達がちらちら見て色めきだっている。相変わらずどこまでもイケメンだなと雛形はため息をついた。
「こんばんは。お母様は?」
「仕事で遅れてくるみたいで、すいません。先に食べててくれって」
「そうなんですか」
雛形は口を少しすぼめて頷いた。
琳太郎は雛形の姿をじっと見た。普段の分厚いメガネ顔もいいが、やはりメガネなしの方がいい女だった。涼しげで少し冷たそうな雰囲気があるのに、琳太郎と向かい合って戸惑っているような、困ったような表情をしているのがまた良かった。
二人はろくに会話もせず、ざる蕎麦を食べながら、灯籠を眺めた。雛形が到着したときよりも数が増えてきた。やがて店は照明の明るさを落として、利用客に外の様子がよく見えるように計らった。
「綺麗ですね」
雛形が窓の外を見ながら言った。
「ですね」
琳太郎も言った。
「先生」
「はい?」
「お母様、遅いですね」
「雛形先生」
「はい」
「それ、嘘です」
「は?」
「俺と二人きりになりたくないみたいだから、嘘をつきました」
琳太郎が口元に僅かに笑みを浮かべ、雛形の顔を真正面から見た。
「私はとばっちりを受けるのはごめんですから」
雛形が急に帰り支度をし始めたので、琳太郎は驚いた。
「とばっちりってなんですか」
「彼女さんに聞いてください」
「なんの話ですか」
「私に言わせるの?」
雛形は椅子から立ち上がって声を荒げた。琳太郎は座りながら雛形を見上げる。薄暗がりの店内で、雛形の瞳は怒りと悲しみと、やるせなさが織り交ぜられた色をしていた。雛形は最後の理性を頼りに、声のトーンを下げ、ゆっくりと言った。
「もうバカにするのはやめてください。あなたはそれが面白いんでしょうけど、私は面白くありません。陰で笑われているのにも耐えられません。失礼します」
雛形が現金をテーブルに置いて店を出ようとすると、琳太郎が腕を掴んだ。雛形はそれを振り払って走ったが、あたりはたくさんの見物客でごった返し、雛形は思うように進めなかった。琳太郎はすぐに雛形の肩を捕まえた。
「待って。全然分かりません」
琳太郎が雛形の両肩をつかみ、自分に向き合わせて聞いた。
「私はあなたの何ですか」
雛形はたまらず聞いた。堰を切ったように涙が溢れた。琳太郎は驚いて、雛形の泣き顔をまじまじと見つめた。
「先生は、嘘ばっかり」
雛形は肩を震わせ、顔を地面に向けてしくしく泣いた。琳太郎は心を落ち着かせて、ゆっくり話しはじめた。
「雛形先生。俺は嘘なんてついてません」
「だったら早く大事な人のとこに帰ってください」
雛形が顔を上げて、早口でまくし立てた。琳太郎は面食らった。
「大事な人って誰のことですか」
琳太郎も声のボリュームを上げた。雛形は眉を寄せ、歯を食いしばって睨むと、人混みを縫って川岸に近づいた。琳太郎も後を追いかけた。川のすぐ手前まで来ると、雛形は琳太郎と向かい合った。
「牡丹さんに決まってるでしょ」
雛形は叫んだ。しゃがんで灯籠を手に取った町民達が、驚いて二人の様子をちらちら見た。
琳太郎は、灯籠に照らされて光る雛形の涙の粒を見た。光の粒は後から後から流れ、川ができた。雛形は顔をそらして、バッグのなかからティッシュを取り出し、涙を拭いた。
「牡丹さんとは、何もありません」
琳太郎が静かな、それでもよく通る声で言った。雛形は顔を上げた。明らかに目には動揺の色が浮かんでいる。
「見合いは破談になりました。会ってもいないし、連絡も取ってません」
琳太郎は頭を下げて言った。雛形は泣くのをやめて、琳太郎の下げた頭を見た。
「意味が分かりません。牡丹さんは付き合ってると言ってましたよ」
雛形は困惑しながら、琳太郎の脇をすり抜け、川沿いをすたすたと歩いた。
「嘘です」
琳太郎は雛形を追いかけてくる。
「私がつきまとってくるから、琳太郎さんは迷惑だって言ってるって」
「嘘です」
「連絡するなって」
「雛形先生」
琳太郎は雛形を捕まえ、両手首を掴んだ。雛形は驚いて身を後方へ引いた。琳太郎は力強く引き戻した。
「先生は俺の何かって、さっき聞きましたよね」
琳太郎は少し息を切らして、真剣な眼差しを向けた。手首を握る力もより強くなった。握る手のひらから、じわじわと琳太郎の体温が伝わってきた。雛形は急に怖くなって、体がすくんだ。
「あなたは、俺の好きな人です」
琳太郎はゆっくりと、力強く、はっきりした声で言った。雛形は目を見開いて琳太郎の瞳を見た。瞳の奥に、ゆらゆらと揺れる炎を見た。
川上から風が吹き上げた。雛形と琳太郎の髪がふわりとたなびいた。黒い川面は橙色の灯籠で埋め尽くされた。人々は思い思いに語らいながら、故人を悼んだ。大人が幼子を肩車して歩く。年老いた夫婦の笑顔が響き合う。子ども達がはしゃぐ声が煌めく。
「なんだ…」
雛形は力が抜けた様子でつぶやいた。琳太郎は何も言わずに見つめ続ける。
「よかった。浮気相手にさせられるのだけは、ごめんですから」
雛形はゆっくりと琳太郎の手をほどいた。深呼吸して、姿勢を正した。意を決して、改めて琳太郎と向き直る。
「でも、それって違うと思います」
雛形は顔を背けて囁いた。
「何が」
琳太郎が怒って聞いた。
「先生は、私のことなんて好きじゃないと思います」
琳太郎は唾を飲み込んで首を伸ばすと、無言で詰め寄った。雛形は怯えた目をして、琳太郎の胸の辺りを両手で制した。
「聞いてください。きっと、先生は毎日部活部活で、本当に疲れてしまったんだと思います。一人暮らしで、誰も労ってくれないし。しかも、あんなに危険な目に遭って、救急搬送もされて、入院。たまたま身近にいた、副顧問の私に甘えてみたくなっただけなんですよ」
雛形は、ゆっくり語りかけた。
「雛形先生」
「お願い。怒らないで聞いて。今は誰ともお付き合いできないし…、」
雛形は下を向き、再び涙をぽろぽろこぼしながら続けた。
「琳太郎先生のこと、恋愛対象で見られません」
雛形は嘘をついた。
「今はそんな余裕なんてありません。先生のおかげで、私、吹奏楽部の副顧問の仕事、すごく好きになりました。毎日毎日、子ども達と同じ目標を立てて進んでいくことが、本当に楽しいです。何よりも幸せです。全部、先生のおかげです。感謝しています。だから、仲のいい同僚ということにしてもらえませんか」
琳太郎は寂しげな目で、雛形を見た。ひどく傷ついているのが分かって、雛形はますます申し訳なさそうに言った。
「もう牡丹さんに遠慮しなくていいなら、電話にも出るしメッセージも返します。ごはんならいつでもご一緒したいです。また熱が出たら、お粥作りに行きます。だけど…」
雛形はそこまで言うと、涙の洪水に襲われた。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくった。
「琳太郎先生。本当にごめんなさい」
琳太郎は雛形が握っているポケットティッシュを受け取り、ティッシュを引きずり出すと、雛形の顔を拭いてやった。拭いても拭いても後から後から涙は溢れた。琳太郎はその顔を見て、抱きしめようとして、堪えた。代わりに腰に手を当ててあさっての方を見ると、フーッとため息をついた。
「…そっか、他に好きな男がいるわけじゃないんですね」
琳太郎は、今度は情けなそうな声で、でも前向きな気持ちも含ませながら、軽く笑ってみせた。雛形は震えながら頷いた。
「じゃあ、俺、諦めなくてもいいですよね。今が駄目なだけなんですよね」
急にあっけらかんとして、琳太郎が笑いかけた。
「えっ。ええ、まあ…」
意外な反応に、雛形は挙動不審になった。
「でも、期待しないでほしいです」
雛形が必死で言うも、琳太郎はクックッと笑ってみせる。
「どーう考えても、俺はやっぱり雛形先生がいいなあ。そうやっていつも誠実で、いつも一生懸命に向き合ってくれるところとか。いつか振り向いてもらえるよう、俺、頑張ります」
琳太郎はこれ以上ないくらい爽やかに、歯切れよく言った。
「いえ、頑張らないでもらえませんか」
雛形はいつもの事務的な声に戻り、首を横に振った。
「ご飯ならいつでもご一緒したいって言ってくれましたよね」
「え? ええ…」
雛形はバツの悪そうな顔で頷いた。琳太郎は獲物を捕まえた猛禽類のような目になった。
「やった。これから毎晩、一緒に食いましょうよ」
琳太郎がにっこりして言った。雛形は何も言えず、口をぽかんと開けたままだった。
つづく




