プロとして
琳太郎が第二音楽室の扉を開けると、強烈な破裂音が鳴り響いた。色とりどりの紙テープが頭に降りかかり、びっくりして後ずさりすると、部員達が叫んだ。
「先生、退院おめでとうー」
空になったクラッカーを構えた男子達が満面の笑みで言った。琳太郎が嬉しそうにして中に入ると、今度は椅子の上に立った女子達が紙吹雪を放った。琳太郎は笑いながら紙だらけになって、ステージに上った。黒板には「祝 りんたろう ふっかつ」とデカデカと書かれ、黄色いチョークで星がぎっしり書き込まれている。その周りには花紙で作った大輪の花がたっぷりデコレーションされ、琳太郎の帰りを歓迎していた。
「すげえ。何だこれ」
琳太郎は感激して黒板を見た。
「みんな、ありがとう。すげえ嬉しいよ」
皆がいる方に振り返り、琳太郎が言った。少しだけ目が潤んだ。
「先生おかえりなさい」
直樹が言うと、部員達も繰り返した。部屋の後方には雛形と副校長が立ってこちらを見ている。雛形は優しい笑みを浮かべていた。副校長が神妙な表情で歩み寄り、琳太郎の肩に手をおいた。
「大変だったな。無事でよかった」
「ご迷惑をおかけしてすみません。県大会ではお世話になりました」
琳太郎が頭を下げると、副校長は軽く頷き、部屋を出ていった。琳太郎はもう一度頭を下げて、皆の方に向き直った。
「心配かけて悪かったな。お前らの色紙、見たよ。ありがとうな。あの似顔絵描いたの、誰だ」
色紙の真ん中には琳太郎の似顔絵が描かれていた。さまざまな色鉛筆を重ね使いして陰影をつけ、細密に描かれていた。
「俺です」
健治が気取った声で言った。
「健治ー。お前は絵、上手いな」
「ありがとうございます」
健治は少し照れて言った。
「さて。今日はコンクールの練習を再開するんだが、その前に。振り返っとこう」
琳太郎はスピーカーを用意し、県大会の動画をPCで再生した。皆、食い入るように見る。
「全体的な出来は悪くない。これからのお前達の課題は、何だと思う?」
琳太郎が直樹の方を向いて言った。
「もっと大きく響くように吹く、とか?」
「いや、大きくするんじゃない。逆だ」
「小さくですか?」
意外そうに梅子が尋ねた。
「うん。足りないのはメリハリだ」
琳太郎が言った。
「この規模で良く鳴らせる限界まで、かなり近づけていると思う。でもその逆は?」
誰も答えなかった。
「強弱の度合いが少ない。特に木管。さらに言うと、クラリネットだ」
琳太郎が響と健治を交互に見た。二人は緊迫した様子で琳太郎を見つめ返す。
「クラリネットはオーケストラの立ち位置でいうと、バイオリン。重要な楽器だ」
琳太郎が言うと、響も健治も黙って耳を傾ける。
「バイオリンだったらもっと繊細で、少ない音量で豊かな響きを奏でることができる。でも俺らがやっているのは吹奏楽。管楽器だ。お前達が力を入れるべきは、『いい弱奏』をできるようになることだ」
響は頷くが、健治は理解できていないようだった。
「少ない息で弱く吹けば良いってもんじゃない。いいか。ちょっとここ、聴いてみろ」
琳太郎は、五月に帝国フィルハーモニーオーケストラが演奏してくれた動画を再生した。他の木管楽器とともに、二本のクラリネットが囁くように、美しいハーモニーを響かせている。
「こういうふうにできるようにしろ」
「はい…」
響と健治は自信なさげに返事した。
「フルートはその上に上手く重なるように。出過ぎないように」
「はい」
直樹も返事した。
「バスクラはベンベン鳴らすんじゃない。よく聴いて、音色はクラ二人に近づけて。手のひらで優しく、下から包み込むように」
「はい」
大輝が緊張して言った。
「サックス二人はここに柔らかさを補うつもりで。主張しないこと」
「はい」
錬三郎とまりあが返事した。
「響。お前が木管を主導しろ」
「はい」
響は初めて下の名前で呼ばれ、嬉しそうに返事をした。
「それと、これは全体に言えることなんだが、」
琳太郎が金管やパーカッションの方も見ながら言った。
「全国で戦えるのはほんの一握りだ。西関には二十校以上は上がってくるだろう。そこから全国に行けるのは、たった二校だ」
室内は水を打ったように静まり返った。いよいよ全国の舞台が射程距離まで迫ってきたと、誰もが感じた。
「お前らは、今日から中学生であることを忘れろ。プロ奏者のつもりで演奏しろ」
直樹は琳太郎の顔をまっすぐ見た。琳太郎の顔はいつもと違って、ゾクッとした。笑ってもいなければ、激励しているのともちょっと違った。常人には理解できないような、静かな狂気を感じた。体の奥底に得体の知れない怪物が宿っているようにすら見えた。
「先生…」
「なんだ」
琳太郎が直樹の方に向き直った。
「先生は、プロ奏者だったことがあるんですか」
直樹は恐怖にすくみ上がりそうになりながら聞いた。琳太郎は黙ってこちらを見てくる。何だろう、気に障ったことを言ってしまったのだろうか。直樹はドキドキしながら見つめ返した。部員達も琳太郎と直樹を交互に見る。琳太郎は表情を変えずに、ゆっくり口を開いた。
「あるよ」
琳太郎は小さく笑って言った。一同は驚いて琳太郎を見つめた。
「やっぱり」
直樹はなぜだか心からホッとした。涙がうっすらにじんだ。琳太郎は少し戸惑って直樹の方を見た。
「それを聞いてどうする」
「だって。…すごく、嬉しくて」
直樹の頬には涙が一筋、伝っていた。直樹は手でそれを拭った。
「先生が、俺達の先生で、良かった」
直樹が静かな声で言い、琳太郎に向かって微笑んだ。響は直樹の晴々とした顔を横から見つめた。
部員達は第二音楽室でパーカッション、音楽室前の廊下で木管、階下の教室で金管に分かれて分奏することにした。
「小さくて良い音出すとか無理だよ」
早速、健治が愚痴をこぼした。
「まりも無理です」
音出ししながら、テナーサックスのまりあもしんどそうに言った。サックスは音量のある楽器だ。ちょっと吹いただけでも比較的大きな音が出る。
「そんなに大事なことなのかなあ」
健治はよく理解できていないようだった。
響が教室の黒板の前に進み出て、チョークを手に取った。
「多分、先生はこういうことを言いたいんだと思う」
響はチョークで長い横線を引いた。そこに〇から十までの目盛りをふった。今度は赤いチョークに持ち替え、四から十までを塗った。
「大編成はこう」
次に響は、二本目の長い横線をその下に引いた。同じく目盛を振った。今度は四から七までを塗った。
「これが、今のうちら」
最後に、三本目の長い横線をさらに下に引き、目盛を振った。今度は一から七まで塗った。
「先生が言いたいのは、これ」
響が言うと、錬三郎が頷いた。
「小編成がMAX音量出しても、大編成には勝てない。だったらMIN値を下げて、幅を持たせろってことなんだな」
「そう」
響が言った。
「金管はもちろんだけど、音のでかいサックス二人とバスクラもきついよね。だから落としどころがクラだって言いたいのかな」
直樹が言った。
「多分、そういうことなんだと思う。バイオリン役だし」
腕を組みながら響が答えた。
「小さく吹くとさ、息漏れ起きやすくない?」
健治が投げやりに言った。
「だからそうならないようにするんだよ」
響が少しイライラしながら答えた。
「できるかなあ」
「できなきゃ、全国行きはないよ」
金剛力士像のように目を釣り上げて響が言うと、健治は縮み上がった。響は深呼吸して、改めて口を開く。
「琳太郎先生はあんなにピアノが上手いし、多分、ピアニストだったんだと思う。なんで中学の先生なんかやってるのか分かんないけど。それでも、先生はうち達の先生、やってる。こんなに恵まれた環境にいて、できないとか泣き言言ってる自分が恥ずかしくないの」
響が言うと、健治はうつむいたまま黙り込んだ。まりあはバツが悪そうな顔をしてみせた。
「先生はうち達のこと信じてるからああ言ったんだと思うよ」
響はなおも続ける。
「うちは先生に任された。いい音のまま、どれくらい音量下げられるか特訓だよ」
厳しい分奏が終わり、合奏した。久々に琳太郎の指揮で演奏するコンクール曲は新鮮で、直樹は楽しかった。琳太郎の存在が心からありがたかった。先生に全国に連れてってもらうんじゃない。俺達が先生を連れて行くんだ。直樹は心に誓った。
翌日も、そのまた翌日も、木管は弱奏の練習を重ねた。自分達の演奏を録音し、帝フィルの動画と比較しながら、どれだけ近づけているか耳を澄ませた。健治もまりあも愚痴をこぼさなくなった。耳のいい錬三郎が響のサポートをしながら、それぞれにアドバイスを送った。
ある日、部活が終わり、琳太郎が部屋を出ていくと部員達は楽器を片づけ始めた。直樹は響のところに行った。
「今日もやろうよ」
「やる」
響は即答した。このところ、木管楽器全体の仕切り役に神経をすり減らし、すっかり疲れ果てていたのだ。いつものように二人は音羽と伊久馬のところに行って、「スペイン」の練習を始めた。
「すっごい楽しい」
他の部員達が皆帰宅してしまった後で、響は音羽に教わりながら、キーボードでベースラインを弾いていた。弱奏もクソもない大音量で弾けるのは最高のストレス解消になった。伊久馬もイヤホンで「スペイン」を聴きながらドラムを叩く練習をしている。直樹はこのところずっと、音羽にアドリブのやり方を教わっていた。
「こんな感じでどう」
音羽がキーボードの音色をフルートに設定し、右手で弾いてみせた。後藤とはまた違うかっこよさがあった。
「こういうふうにもできる」
音羽はまた違う弾き方をしてみせた。直樹は音羽の音使いをちょこちょこ真似しながら、自分でもフルートを吹いている。良いなと思ったフレーズは、楽譜に書き込んでいき、少しずつそれっぽいアドリブができるようになってきた。
「そのうち楽譜とか要らなくなるよ」
「そうかな」
「うん。なんとなくその時の気分で毎回変わるし、勝手に指が動くようになるもんだよ」
音羽が無機質な声のなかに、「それで良いんだよ」という肯定を感じ取った直樹は、再び練習に励んだ。
伊久馬の母が迎えにきたので、練習はお開きになった。
「あいつって本当にマザコンだよな」
校門を出ると、親が学校まで迎えに来たことなどない直樹がつぶやいた。
「しょうがないよ。あの子の原動力だから」
音羽は無関心に言った。
「それでも何かさ、あいつって…。上達早いよな」
直樹がぼそっと言った。上達速度にマザコンか否かは関係ないらしい。
「うん。銀ちゃんより上手くなるかも」
「嘘」
響は思わず音羽の顔を見た。
「銀ちゃん、追い抜かれないよう必死だよ」
音羽が言うと、響と直樹は互いの顔を見合わせた。木管パートは今、正念場を迎えていたが、パーカッションもまた火花が散っていたのだ。そういえば直樹が後藤のライブの話をして、伊久馬がドラムをやった、今度は銀之丞も行こうよと誘ったのに、今はコンクールと定演の方に集中したいと言って断ってきた。言い方はいつも同様のんびりしたものだった。銀之丞はパーカッションのパートリーダーである。同じ二年であることもあり、直樹は銀之丞を応援したくなった。
「ねえ、後藤先生がライブハウスに遊びにおいでって言ってたし、その時までに『スペイン』できるようになっとかない?」
響は話を切り替えた。最高に楽しいキーボードのウッドベースをもっと練習したいと思っていた。
「それは俺も思った。朱雀さんだけじゃないんだぞって思わせたい」
直樹は賛成した。四人は再び、セッションを試みた。
その頃、公彦は自宅にいた。夕食を作る母に声をかける。
「明日、部活の後で勉強合宿があるんだ。健治の家に泊まりに行くから」
公彦が言った。
「あら、そう。ご迷惑にならないようにね」
母は夕食づくりを再開した。
つづく




