第一部『運命の序章』 第二章 天使の血を引く少女
その日、マニエール家の屋敷は、朝からいつもとは違う空気に包まれていた。
「シャルル様! そちらの上着ではございません!」
「えっ、これじゃ駄目なの?」
「本日は大切なお客様がお見えになるのです。昨日、奥様がお選びになったものをお召しください!」
「でも、こっちのほうが動きやすいよ?」
「動きやすさの問題ではございません!」
若い侍女の悲鳴にも似た声が、廊下に響き渡る。
シャルル・マニエールは、手に持った上着を見下ろした。
いつも着ている、少しくたびれた茶色の上着。
庭で剣を振るうにも、森を歩くにも都合がいい。
対して、寝台の上に用意された紺色の礼服は、いかにも窮屈そうだった。
「別に、服なんて何でもいいと思うんだけどなあ」
「よくありません!」
「……分かったよ」
渋々と礼服に袖を通す。
鏡の前に立つと、そこには普段とは少し違う少年が映っていた。
髪を整えられ、襟元まできちんと留められた服を着た自分。
どうにも落ち着かない。
「これでいい?」
「はい! とてもよくお似合いです!」
「そうかな……」
シャルルは首元の留め具を指で触った。
「苦しくない?」
「少々の我慢です!」
「貴族って大変だね」
「シャルル様も貴族でございますよ!」
その言葉に、少年は思わず笑った。
*
今日、マニエール家を訪れるのは、王都からやって来る外交使節の一行だった。
フランク王国と天界の交流に関わる使節であり、その中には天使族の女性も含まれているという。
天使族。
その言葉を聞いたときから、シャルルは胸を躍らせていた。
背中に六枚の翼を持ち、空を飛び、光の魔術を操る種族。
書物で読んだことはある。
家庭教師から話を聞いたこともある。
だが、本物の天使に会うのは初めてだった。
「ねえ、母上!」
朝食の席で、シャルルは身を乗り出した。
「天使って、本当に空を飛べるんですか?」
「ええ。翼を使って飛ぶことができるわ」
母ベルトラダは、いつもの穏やかな口調で答えた。
「じゃあ、雲の上まで行けるの?」
「天使族なら、私たちよりずっと高いところまで飛べるでしょうね」
「すごいなあ……」
シャルルは窓の外に広がる青空を見上げた。
どこまでも続く空。
そのはるか上には、天使たちの暮らす天界がある。
人界からは見えないほど高い場所に存在するという、もう一つの世界。
そこから来た人たちが、今日、この屋敷を訪れるのだ。
「お兄様!」
向かいの席から、妹のギゼラが声を上げた。
「天使って、剣も使うのかな?」
「使うんじゃない? 天界にも強い戦士がいるって聞いたことがあるよ」
「じゃあ、戦ってみたい!」
「ギゼラ」
父ピピンの低い声が響いた。
「お客様に剣の勝負を申し込むんじゃないぞ」
「えーっ!」
「えー、じゃない」
「じゃあ、お兄様と戦う!」
「なんで僕なの!?」
「だって、お兄様ならいいでしょ?」
「よくないよ!」
兄妹のやり取りに、ベルトラダがくすりと笑った。
ピピンは咳払いをして、二人を見渡す。
「いいか。今日のお客様は、王国にとって大切な方々だ。失礼のないようにしなさい」
「はい!」
「……はい」
ギゼラは少し残念そうだったが、シャルルは元気よく返事をした。
もっとも、彼の頭の中は礼儀作法よりも、これから出会う天使のことでいっぱいだった。
*
昼前。
屋敷の正門に、一台の立派な馬車が到着した。
マニエール家の使用人たちが整列し、ピピンとベルトラダが玄関前で出迎える。
シャルルとギゼラも、その少し後ろに並んでいた。
「来た……!」
シャルルは小さくつぶやいた。
馬車の扉が開く。
最初に降りてきたのは、王国の使節と思われる男性たちだった。
彼らに続いて、一人の女性が姿を現した。
柔らかな金色の髪。
整った顔立ちに、知性を感じさせる澄んだ瞳。
小柄で愛らしい容姿ながら、立ち居振る舞いには不思議な気品があった。
その女性を見た瞬間、シャルルは息をのんだ。
天使だ。
そう直感した。
だが、少年が思い描いていた姿とは少し違っていた。
背中に翼が見当たらないのだ。
「あれ……?」
思わず声が漏れる。
女性はその声に気づいたのか、シャルルへ視線を向けた。
そして、にこりと微笑む。
「こんにちは」
「あっ、こんにちは!」
慌てて頭を下げる。
女性は楽しそうに笑った。
「ふふっ。元気な子ね」
ピピンが一歩前に進み出た。
「ようこそお越しくださいました。マニエール領を預かっております、ピピン・マニエールです」
「お出迎えありがとうございます。私はケルビムと申します」
女性は丁寧に礼を返した。
「天界のガブリエル様のもとで、外交に関するお仕事をお手伝いしています」
「お噂はかねがね。遠路はるばる、ありがとうございます」
「こちらこそ。本日はよろしくお願いいたします」
ケルビム。
その名前を、シャルルは心の中で繰り返した。
天界から来た、本物の天使。
それだけでも驚きだったが、次の瞬間、少年の目は別の人物に引き寄せられた。
ケルビムの後ろから、一人の少女が降りてきたのだ。
年齢はシャルルと同じくらいだろうか。
少女は落ち着いた表情で周囲を見渡し、母親の隣に静かに立った。
きちんと整えられた服装。
まっすぐな姿勢。
そして、どこか近寄りがたいほど真面目そうな雰囲気。
ケルビムは少女の肩に優しく手を添えた。
「紹介するわね。私の娘のヒルデガルトよ」
「ヒルデガルトです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
少女は流れるような所作で一礼した。
シャルルは目を丸くする。
自分と同じくらいの年齢なのに、ずいぶんと大人びている。
「シャルル」
母に促され、少年は慌てて背筋を伸ばした。
「シャルル・マニエールです! よろしくお願いします!」
「よろしくお願いいたします」
ヒルデガルトは丁寧に答えた。
その後、彼女はシャルルの服装にちらりと目を向ける。
「……襟が曲がっていますよ」
「えっ?」
シャルルは自分の首元を見下ろした。
確かに、礼服の襟が片方だけ折れている。
「あ、本当だ」
「動かないでください」
ヒルデガルトは一歩近づくと、慣れた手つきで襟を直した。
「これで大丈夫です」
「ありがとう!」
「いえ。身だしなみは大切ですから」
シャルルはぽかんとした。
初対面なのに、まるで先生みたいだ。
そんなことを思っていると、ヒルデガルトが不思議そうに首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない!」
その様子を見ていたケルビムは、口元を押さえて笑っていた。
*
昼食を終えると、大人たちは応接室へ移動した。
今回の訪問は、王国と天界の交流に関するものであり、領地の状況や人々の暮らしについて話し合う予定になっていた。
シャルルとギゼラは、子供同士で過ごすようにと言われていた。
もっとも、ギゼラはすぐに庭へ飛び出してしまった。
「お兄様!あとで剣の稽古するからね!」
「はいはい!」
元気よく駆けていく妹を見送り、シャルルは隣に立つヒルデガルトへ目を向けた。
「えっと……ヒルデガルト、でいい?」
「はい」
「僕のこともシャルルでいいよ!」
「分かりました。シャルル」
少女は小さく頷いた。
それきり、沈黙が流れる。
シャルルは困った。
普段なら誰とでも気軽に話せるのだが、目の前の少女は何を考えているのか、いまひとつ分からない。
怒っているわけではなさそうだ。
ただ、表情の変化が少ない。
「……ねえ」
「はい?」
「天界って、どんなところ?」
その質問に、ヒルデガルトは少し目を見開いた。
「天界、ですか?」
「うん! すごく高いところにあるんでしょ?」
「そうですね。人界からは見えないほど、高い場所にあります」
「やっぱり!」
シャルルは嬉しそうに身を乗り出した。
「じゃあ、雲の上に町があるの?」
「ありますよ。ただ、人界の町とは少し違います」
「どんなふうに?」
「建物の造りや、街並みが違います。空を移動する天使もいますし……」
「すごい!」
シャルルの目が輝く。
「行ってみたいなあ!」
ヒルデガルトは少し驚いた様子だった。
「天界に、ですか?」
「うん!」
「人族が天界を訪れるのは、簡単なことではありませんよ」
「そうなの?」
「はい。誰でも自由に行けるわけではありません」
「そっか……」
シャルルは少し考え込んだ。
だが、すぐに顔を上げる。
「じゃあ、行ける方法を探せばいいんだね!」
「……え?」
「絶対に行けないわけじゃないんでしょ?」
「それは、そうですが……」
「だったら、いつか行けるかもしれない!」
ヒルデガルトは少年を見つめた。
あまりにも簡単に言うものだから、返す言葉が見つからなかった。
「シャルルは……変わっていますね」
「えっ、そう?」
「はい。普通は、難しいと聞けば諦めるものだと思います」
「でも、まだ試してないから分からないよ?」
「……」
少女は黙り込んだ。
シャルルは首をかしげる。
「どうしたの?」
「いえ……」
ヒルデガルトは小さく首を振った。
「少し、不思議だと思っただけです」
その表情は、先ほどよりもわずかに柔らかくなっていた。
*
「そうだ!」
シャルルが突然声を上げた。
「庭に行こうよ!」
「庭、ですか?」
「うん! 面白いものを見せてあげる!」
ヒルデガルトは少し迷った。
「ですが、勝手に屋敷の外へ出てもよいのでしょうか?」
「庭だから大丈夫だよ!」
「それでも、誰かに伝えてからのほうが……」
「じゃあ、侍女に言ってくる!」
シャルルはそう言うと、近くにいた侍女へ声をかけた。
許可をもらって戻ってくる。
「これでいい?」
「……はい」
ヒルデガルトは小さく頷いた。
シャルルは満足そうに笑う。
「よし、行こう!」
二人は屋敷の裏庭へ向かった。
そこには、シャルルがいつも剣術や魔術の練習をしている広場があった。
木製の人形。
積み重ねられた練習用の道具。
そして、地面には何度も魔術を試した跡が残っている。
「ここで何をするのですか?」
「魔術!」
シャルルは胸を張った。
「僕、五つの属性が使えるんだ!」
ヒルデガルトは目を見開いた。
「五属性すべて、ですか?」
「うん!」
「……それは、すごいですね」
「そうかな?」
「普通、一人の魔術師が複数の属性を扱うことはあっても、五属性すべてを使いこなすのは容易ではありません」
「へえ……」
シャルルはどこか他人事のように頷いた。
ヒルデガルトは少し呆れた。
「自分のことですよ?」
「でも、使えるものは使えるし……」
「……そういう問題でしょうか」
「まあ、見てて!」
シャルルは地面に向かって右手をかざした。
足元の土がゆっくりと盛り上がる。
土は細長く伸び、剣の形を作り始めた。
「土魔術ですね」
「うん!」
しかし、完成した剣は、持ち上げた途端に崩れてしまった。
ぼろぼろっ。
「あっ」
ヒルデガルトが小さく声を上げる。
シャルルは頭をかいた。
「また失敗した」
「何をしようとしているのですか?」
「土で剣を作って、それを途中で変形させたいんだ」
「変形?」
「例えば、相手が剣で防御したときに、刃の形が変わったら面白いと思わない?」
ヒルデガルトは少し考えた。
「……確かに、予想しにくい攻撃になるかもしれません」
「でしょ!」
「ですが、形を維持するだけでも難しいのに、さらに変形させるとなると……」
「そうなんだよねえ」
シャルルは腕を組んだ。
「なかなかうまくいかなくて」
ヒルデガルトは崩れた土を見つめた。
「……魔力が足りないわけではないのですか?」
「うん。魔力はまだまだあるよ」
「でしたら、形を作ることに意識を集中させすぎているのかもしれません」
「え?」
「剣全体を一度に作ろうとするのではなく、まずは小さな部分から固めてみてはどうでしょうか」
シャルルは目を丸くした。
「小さな部分から?」
「はい。例えば、刃の先端だけを作ってみるとか」
「……なるほど!」
少年はぱっと笑顔になった。
「それ、やってみる!」
再び地面へ手をかざす。
今度は剣全体を作ろうとはしなかった。
小さな土の塊を浮かせ、先端を尖らせる。
ゆっくりと魔力を注ぎ、形を整えていく。
すると。
「……できた!」
小さな土の刃が、空中に浮かんでいた。
不格好ではあったが、先ほどまでのように崩れることはない。
「すごい!」
シャルルは歓声を上げた。
「ヒルデガルト! できたよ!」
「はい。よかったですね」
少女は小さく微笑んだ。
シャルルはその表情を見て、少し驚いた。
初めて会ったときは、ずいぶん真面目で近寄りがたい子だと思っていた。
でも、笑うと普通の女の子なんだ。
「ありがとう!」
「いえ。私は少し提案しただけです」
「でも、ヒルデガルトのおかげだよ!」
「……そうですか」
少女は少しだけ視線を逸らした。
その頬が、わずかに赤くなっていた。
*
しばらくして、シャルルはふと疑問を口にした。
「ねえ、ヒルデガルト」
「はい?」
「ヒルデガルトも、天使みたいに飛べるの?」
少女の動きが止まった。
「……飛ぶことはできます」
「本当!?」
「はい。ただ、私は純粋な天使族ではありません」
「そうなの?」
「母は天使族ですが、父は人族です」
「へえ!」
シャルルは興味深そうに頷いた。
「じゃあ、人族でもあり、天使族でもあるんだね!」
「……そういうことになります」
「すごいなあ!」
ヒルデガルトは目を瞬かせた。
「……すごい、ですか?」
「うん! 二つの種族の力を持ってるんでしょ?」
「そうですが……」
「だったら、両方のいいところがあるってことじゃない?」
ヒルデガルトは黙り込んだ。
人族と天使族。
二つの種族の血を引く自分は、どちらとも少し違う。
そのことを、彼女は幼いながらに理解していた。
だからこそ、シャルルの言葉は意外だった。
「……変だとは思わないのですか?」
「何が?」
「私が、二つの種族の血を引いていることです」
「どうして?」
シャルルは不思議そうに首をかしげた。
「だって、ヒルデガルトはヒルデガルトでしょ?」
「……」
「人族とか天使族とか、そういうのも大事なのかもしれないけど」
少年は笑った。
「僕は、ヒルデガルトと話してて楽しいよ。それじゃ駄目?」
少女は何も言わなかった。
ただ、しばらくシャルルの顔を見つめていた。
そして、ようやく口を開いた。
「……駄目では、ありません」
その声は、先ほどまでより少し小さかった。
「むしろ……嬉しいです」
「そっか!」
シャルルは満足そうに頷いた。
「じゃあ、友達だね!」
「……友達?」
「うん!」
少年は右手を差し出した。
「これからよろしく、ヒルデガルト!」
ヒルデガルトは差し出された手を見つめた。
少し迷った後、そっと自分の手を重ねる。
「……はい。よろしくお願いします、シャルル」
二人は握手を交わした。
その瞬間、庭を一陣の風が吹き抜けた。
*
「ねえ、ヒルデガルト」
「何でしょう?」
「翼って、見せてもらえる?」
少女は少し驚いた。
「翼、ですか?」
「うん! 本物の天使の翼って、見たことないんだ!」
「……私は天使族との混血ですが」
「それでも見てみたい!」
ヒルデガルトは少し考えた。
そして、周囲に誰もいないことを確かめる。
「……少しだけですよ」
「やった!」
少女は静かに目を閉じた。
その背中から、淡い光があふれ出す。
シャルルは息をのんだ。
光はゆっくりと形を成し、白く美しい翼となって広がっていく。
羽の一枚一枚が、陽光を受けて柔らかく輝いていた。
「……わあ」
シャルルは言葉を失った。
目の前に広がる、純白の翼。
書物で読んだどんな説明よりも、美しかった。
「どう、でしょうか」
ヒルデガルトが少し不安そうに尋ねる。
シャルルは満面の笑みを浮かべた。
「すっごく綺麗!」
「……っ」
少女の頬が赤く染まる。
「そ、そうですか」
「うん! こんなの初めて見た!」
シャルルは翼を見つめながら、楽しそうに笑った。
「いいなあ。僕も飛んでみたい!」
「風魔術を使えば、ある程度は浮かぶことができるかもしれませんが……」
「そうか! 風魔術か!」
少年の目が輝く。
「今度やってみよう!」
「ま、待ってください!」
ヒルデガルトが慌てて声を上げた。
「危険です! 高いところから落ちたらどうするのですか!」
「大丈夫だよ! 最初は低いところから試すから!」
「そういう問題ではありません!」
少女は真剣な表情で言った。
「魔術は便利ですが、使い方を間違えれば大怪我をします!」
「……はい」
シャルルは思わず背筋を伸ばした。
その様子を見て、ヒルデガルトはため息をついた。
「まったく……」
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
*
夕方。
外交使節の一行が出発する時間となった。
馬車の前には、ピピンとベルトラダ、そしてシャルルたちが並んでいる。
「本日は大変お世話になりました」
ケルビムが丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ。貴重なお話をありがとうございました」
ピピンが答える。
大人たちが別れの挨拶を交わす中、シャルルはヒルデガルトの前に立っていた。
「もう帰っちゃうんだね」
「はい。母の仕事がありますので」
「そっか……」
シャルルは少し残念そうに笑った。
今日一日だけだったが、ヒルデガルトと過ごす時間はとても楽しかった。
知らない世界の話。
魔術の練習。
そして、美しい翼。
どれも忘れられない出来事だった。
「ねえ、ヒルデガルト」
「はい?」
「また会えるかな?」
少女は少し考えた。
「……分かりません。母の仕事次第ですので」
「そっか」
シャルルは頷いた。
そして、すぐに笑顔を浮かべる。
「じゃあ、僕が会いに行くよ!」
「……え?」
「いつか王都に行くつもりなんだ! それに、天界にも行ってみたいし!」
ヒルデガルトは目を丸くした。
「本気なのですか?」
「もちろん!」
「……簡単なことではありませんよ」
「うん。でも、やってみないと分からないから!」
その言葉に、少女は思わず笑ってしまった。
「ふふっ……」
「あ、笑った!」
「え?」
「ヒルデガルト、最初は全然笑わなかったから!」
「そ、それは……」
少女は慌てて表情を整えようとした。
だが、シャルルは楽しそうに笑っている。
「また会ったら、一緒に魔術の練習しよう!」
「……はい」
ヒルデガルトは小さく頷いた。
「約束です」
「うん! 約束!」
シャルルは右手の小指を差し出した。
ヒルデガルトは不思議そうに見つめる。
「これは?」
「指切り! 約束するときにするんだよ!」
「……そうなのですか」
少女は少し戸惑いながらも、自分の小指を差し出した。
二人の指が絡まる。
「絶対、また会おうね!」
「……はい。必ず」
そうして、二人は小さな約束を交わした。
*
馬車がゆっくりと走り出す。
シャルルは門の前に立ち、大きく手を振った。
「ヒルデガルトー! またねー!」
馬車の窓から、少女が顔をのぞかせる。
そして、小さく手を振り返した。
「……また会いましょう、シャルル」
その声は、走り出した馬車の音にかき消された。
けれど、彼女の口元には確かな笑みが浮かんでいた。
馬車の姿が見えなくなるまで、シャルルは手を振り続けた。
やがて、隣にベルトラダがやって来る。
「楽しかった?」
「うん!」
シャルルは大きく頷いた。
「ヒルデガルトって、すごいんだよ! 天界のこともたくさん知ってるし、魔術にも詳しいし、それに翼がすっごく綺麗だった!」
「そう」
ベルトラダは優しく微笑んだ。
「素敵なお友達ができたのね」
「うん!」
シャルルは夕暮れの空を見上げた。
茜色に染まった空。
その向こうには、まだ見ぬ天界がある。
そして、いつかまた会いたいと思える少女がいる。
「母上」
「なあに?」
「僕、もっと魔術を勉強したい!」
「あら、どうして?」
「だって、知らないことがいっぱいあるんだもん!」
少年は笑った。
「もっと強くなって、もっといろんな場所に行って……」
そして、空へ向かって手を伸ばす。
「いつか、ヒルデガルトにも会いに行くんだ!」
ベルトラダはその横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「……そうね。きっと、会えるわ」
その日、シャルル・マニエールは一人の少女と出会った。
人族と天使族。
異なる種族の血を引く少女との出会いは、少年にとって世界の広さを実感する初めての経験となった。
だが、二人はまだ知らない。
この小さな約束が、やがて世界の運命を大きく変えることになるなど。
数年後。
再び巡り合うその日まで、二人はそれぞれの道を歩んでいく。
そして、物語は静かに動き始めた。




