第一部『運命の序章』 第一章 辺境の少年
朝の光が、窓辺に差し込んでいた。
鳥のさえずりと、遠くから聞こえる人々の話し声。
フランク王国の王都から遠く離れた、とある小さな領地。緑豊かな丘陵と広大な農地に囲まれたこの土地には、穏やかな時間が流れていた。
その領地を治めるマニエール家の屋敷では、朝から少々騒がしい出来事が起きていた。
「シャルル様! どちらにいらっしゃるのですか!」
廊下に若い侍女の声が響く。
「もう朝食のお時間ですよ! またお庭に出られたのですか!」
しかし、返事はない。
侍女は困り果てた様子で廊下を見渡し、ため息をついた。
「まったく、今日もですか……」
彼女が探しているのは、この屋敷の長男、シャルル・マニエール。
今年十歳になる少年である。
領主の息子という立場にありながら、彼は屋敷の中で大人しく過ごすことを好まなかった。
暇さえあれば庭へ出て、剣を振るい、魔術を試し、時には屋敷の使用人たちを驚かせる。
そして今日もまた、少年は屋敷の裏庭にいた。
*
「うーん……やっぱり、こうじゃないな」
シャルルは首をかしげた。
その手には一本の木剣が握られている。
目の前には、練習用に立てられた木製の人形。
少年は人形を見つめながら、何かを考えていた。
「普通に斬ったら、相手は剣で受け止めるよね」
独り言をつぶやく。
「でも、斬る瞬間に剣の形が変わったら……どうなるんだろう?」
シャルルは木剣を軽く振った。
当然ながら、木剣の形は変わらない。
「木じゃ無理か」
そう言うと、少年は木剣を地面に置き、今度は足元の土に目を向けた。
右手をかざす。
すると、地面の土がわずかに震え始めた。
土が盛り上がり、細長い棒のような形を作っていく。
それは不格好ながらも、剣に似た形をしていた。
「よし」
シャルルは嬉しそうに笑った。
しかし、次の瞬間。
ぼろぼろっ。
土の剣は崩れ落ちた。
「あれ?」
少年は目を丸くする。
「固め方が足りなかったのかな」
再び手をかざす。
今度は先ほどよりも多くの魔力を注ぎ込んだ。
土が集まり、剣の形になる。
だが、持ち上げようとした瞬間、再び崩れてしまった。
「うーん……」
シャルルは腕を組んだ。
「形を作るだけじゃ駄目なんだ。もっと硬くしないと」
普通の少年なら、ここで諦めていただろう。
だが、シャルルは違った。
失敗すればするほど、新しい方法を考える。
どうすればできるのか。
何が足りないのか。
それを考える時間が、何よりも楽しかった。
「シャルル!」
突然、背後から声がした。
振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
背筋の伸びた、体格の良い男。
落ち着いた表情を浮かべているが、その眼差しには鋭さがあった。
シャルルの父、ピピン・マニエールである。
「父上!」
「また朝から魔術の練習か」
「はい! ちょっと試したいことがあって!」
ピピンは足元に散らばった土を見た。
「ほう。何を作ろうとしていた?」
「剣です!」
「剣?」
「はい! 普通の剣って、相手に受け止められたら止まっちゃうじゃないですか」
「まあ、そうだな」
「だから、斬る途中で剣の形を変えられたら、相手の防御を避けられると思ったんです!」
ピピンは一瞬、言葉を失った。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
「どう思います?」
「面白い発想だ」
シャルルの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「ああ。ただし、実戦で使うには問題がある」
「問題?」
「剣というのは、ただ相手に当てればいいものではない。重さ、硬さ、重心、振る速度。そのすべてが重要だ」
ピピンは地面に置かれた木剣を拾い上げた。
「例えば、こうだ」
男は木剣を構える。
そして、一歩踏み込んだ。
ひゅっ。
鋭い風切り音。
次の瞬間、木剣は人形の首元でぴたりと止まっていた。
シャルルは目を輝かせた。
「すごい!」
「剣を扱うというのは、こういうことだ。途中で形が変われば、当然、重心も変わる。慣れていなければ自分の動きまで崩してしまうだろう」
「じゃあ、変わった後の形まで考えて振ればいいんですね!」
「……そう簡単ではないぞ」
「でも、できたら面白そうです!」
ピピンは苦笑した。
昔からそうだった。
この息子は、できない理由を説明すると、それを新しい課題として受け取ってしまう。
無鉄砲というわけではない。
むしろ、よく考えている。
ただ、その考え方が少々独特なのだ。
「シャルル」
「はい?」
「魔術を工夫するのは構わん。だが、まずは基本を身につけろ」
「基本……」
「基本ができていなければ、どれほど優れた発想も役には立たん」
シャルルは少し考えた後、元気よく頷いた。
「分かりました!」
「よし。それなら朝食の後に剣の稽古だ」
「はい!」
「その前に、母さんに謝ってこい」
「……え?」
「朝食の時間を忘れていたんだろう?」
シャルルの顔が固まった。
ピピンは小さく笑った。
「今なら、まだ間に合うかもしれんな」
「うわっ! 急がないと!」
少年は木剣を抱え、屋敷へと駆け出した。
その背中を見送りながら、ピピンは静かにつぶやいた。
「……本当に、変わった子だ」
しかし、その表情には確かな誇らしさが浮かんでいた。
*
「シャルル」
食堂に入った瞬間、穏やかな声が響いた。
長い食卓の奥に、一人の女性が座っている。
柔らかな微笑みを浮かべた、上品な女性。
シャルルの母、ベルトラダ・マニエールである。
「お、おはようございます。母上」
「おはよう。今日は随分と早起きだったのね」
「はい!」
「それなのに、朝食には遅れてしまったの?」
「……はい」
ベルトラダはにこりと笑った。
「何をしていたのかしら?」
「魔術の練習を……」
「そう」
優しい声だった。
しかし、シャルルはなぜか背筋を伸ばした。
「シャルル。魔術の勉強は大切よ。でも、約束の時間を守ることも同じくらい大切なの」
「はい……」
「次からは気をつけましょうね」
「分かりました!」
ベルトラダは満足そうに頷いた。
かつてフランク王国に仕える魔術師だった彼女は、現在では領主の妻として家庭を支えている。
魔術に関する知識は豊富で、シャルルにとって最も身近な師でもあった。
「お兄様、また怒られてる!」
隣から楽しそうな声がした。
見ると、小さな少女が椅子に座っていた。
シャルルの妹、ギゼラである。
今年七歳になる彼女は、兄に負けず劣らず活発な少女だった。
「怒られてないよ。注意されただけだ」
「同じじゃない!」
「違うって!」
「ふふっ」
ベルトラダが笑う。
「二人とも、食事中は仲良くね」
「はーい!」
兄妹の声が重なった。
食卓には焼きたてのパン、温かなスープ、卵料理、果物が並んでいた。
シャルルはパンを一口かじる。
「おいしい!」
「それはよかったわ」
ベルトラダは微笑んだ。
「ところでシャルル、今日は何の魔術を練習していたの?」
「土魔術です!」
「また土魔術?」
「はい! 土で剣を作ろうと思って!」
その言葉に、ベルトラダは興味深そうに目を細めた。
「剣を?」
「はい! それで、斬る途中で形を変えられたら、相手の防御を避けられるんじゃないかと思ったんです!」
「なるほど……」
彼女は少し考え込んだ。
「発想は面白いわね。でも、魔術で作ったものの形を維持しながら、さらに変形させるとなると、かなり繊細な制御が必要になるわ」
「やっぱり難しいですか?」
「難しいわ。でも、不可能とは言わない」
シャルルの瞳が輝いた。
「本当ですか!」
「ええ。ただし、魔力をたくさん使えば解決するというものでもないのよ」
「魔力だけじゃ駄目……」
「そう。どんな形にしたいのか、どの部分を動かすのか。細かく制御することが大切なの」
シャルルは真剣に耳を傾けていた。
ベルトラダはその様子を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
この子は、魔術を単なる道具として見ていない。
何かを生み出すための手段として捉えている。
それは、魔術師として大切な資質だった。
「母上!」
「なあに?」
「今日の午後、魔術を教えてください!」
「もちろん。でも、その前にお勉強があるでしょう?」
「……あ」
シャルルの表情が曇った。
ギゼラが笑い出す。
「お兄様、また忘れてた!」
「忘れてないよ!」
「今、絶対忘れてた!」
「忘れてないってば!」
食堂に明るい笑い声が響いた。
*
午後。
屋敷の書斎には、静かな時間が流れていた。
大きな窓から差し込む陽光が、机の上に広げられた書物を照らしている。
シャルルとギゼラは並んで座り、年配の執事から授業を受けていた。
「それではシャルル様。フランク王国の周辺に存在する三つの世界について、お答えください」
「魔界、天界、妖精界です!」
「正解でございます」
執事は満足そうに頷いた。
「では、それぞれの世界に住む種族は?」
「魔界には魔族、天界には天使族、妖精界には妖精族です」
「その通りです」
ギゼラが手を挙げた。
「先生!」
「はい、ギゼラ様」
「妖精って、本当にいるの?」
「もちろんでございます」
「でも、見たことないよ?」
「妖精界は、我々人族が簡単に訪れることのできない世界なのです」
「どうして?」
「それは……」
執事は少し考えた。
「妖精界が、特別な場所に存在するからでございます」
「特別な場所?」
「はい。詳しいことは、今なお多くが謎に包まれております」
ギゼラは不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、先生も知らないんだ」
「……お恥ずかしながら」
シャルルは窓の外に目を向けた。
妖精界。
人族が簡単にはたどり着けない世界。
そこには、どんな景色が広がっているのだろう。
どんな生き物が暮らしているのだろう。
そして、どんな魔術が存在するのだろう。
「先生」
「はい、シャルル様」
「妖精界に行った人っているんですか?」
「記録は非常に限られておりますが、存在すると伝えられています」
「じゃあ、行けないわけじゃないんですね」
「ええ。ただし、危険も伴うでしょう」
「そうですか……」
シャルルは小さく頷いた。
執事は少年の様子を見て、静かに微笑んだ。
「シャルル様は、妖精界に興味がおありですか?」
「はい!」
「なぜでしょう?」
「だって、知らない世界があるって、面白いじゃないですか!」
少年は当然のように答えた。
「人界だけでも、まだ知らない場所がたくさんあるのに、ほかにも三つの世界があるんですよ?」
「ええ」
「だったら、全部見てみたいです!」
その言葉に、執事は少し驚いた表情を浮かべた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……それは、素晴らしい夢でございますね」
シャルルは笑った。
「いつか、きっと行ってみせます!」
*
夕暮れ。
空が茜色に染まり、領地の農地には長い影が伸びていた。
シャルルは屋敷の庭に立ち、遠くの山々を見つめていた。
今日も一日、たくさんのことを学んだ。
剣術。
魔術。
そして、まだ見ぬ世界の存在。
知らないことが、あまりにも多い。
けれど、それが楽しかった。
「シャルル」
背後から父の声がした。
「父上」
「何を見ている?」
「山の向こうです」
「山の向こう?」
「はい。あの向こうには、何があるんだろうって」
ピピンは少年の隣に立った。
「村もあれば、町もある。森も、川も、山もあるだろうな」
「もっと遠くには?」
「王都がある」
「その先には?」
「ほかの国がある」
「そのまた先には?」
ピピンは笑った。
「世界は広いぞ、シャルル」
「……ですよね」
少年は夕焼けを見つめた。
「僕、いつか全部見てみたいです」
「全部?」
「はい。人界も、魔界も、天界も、妖精界も」
ピピンは黙って息子を見た。
「どんな人たちがいて、どんな暮らしをしているのか。どんな魔術があって、どんな景色があるのか……全部知りたいです」
「そうか」
父は静かに頷いた。
「ならば、まずは強くなることだ」
「強く?」
「ああ。世界には美しいものも多いが、危険なものもある。自分の身を守れなければ、遠くへ行くこともできん」
「……はい!」
「それに、強さというのは、誰かを倒すためだけのものではない」
シャルルは父を見上げた。
「どういうことですか?」
「大切なものを守るためにも、力は必要だということだ」
ピピンは少年の頭に手を置いた。
「お前がどんな道を選ぶのか、今はまだ分からん。だが、自分の力を何のために使うのか。それだけは、忘れるな」
シャルルはしばらく考えた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かりました、父上」
遠くで鳥が鳴いた。
夕暮れの風が、少年の髪を揺らす。
その日、シャルル・マニエールはまだ知らなかった。
自分が生きる世界の成り立ちも。
人族と魔族が争い続ける本当の理由も。
そして、いつの日か自分が、その争いの終結を託されることも。
ただ一つ、確かなことがあった。
少年は、まだ見ぬ世界に憧れていた。
異なる人々と出会い、知らないものを知り、自分の目で確かめたいと願っていた。
その小さな好奇心こそが、やがて四つの世界の運命を変えることになる。
これは、一人の少年が、世界に平和をもたらすまでの物語。




