お見舞いとは戦場ではある2
訪問は午後16時半だった。
インターホンが鳴った時、俺は布団の中で芋虫のように蠢いて玄関まで這っていった。
パジャマは三日目。髪は鳥の巣。顔は土色。鏡を見なくても分かる。見なくていい。見たくない。
ドアを開けると、そこにいたのは二つの色彩だった。
右側、オレンジと白。瑞樹だ。マフラーをふわふわに巻き、手には大きな手提げ袋。袋の中から何かが溢れそうになっている。顔は満開の笑み。
左側、黒と赤。美波だ。黒いコート、赤いマフラー。手には小さな高級そうな紙袋。顔は無表情。だが目だけが鋭い。
「坂本くん! 生きてた!」
「生きてる。残念ながら」
「残念じゃないよ! 生きてて偉い!」
「生きてるのは偉くない。生きるのは本能だから」
「偉いの! 私が偉いって言ったら偉いの!」
瑞樹は強引に靴を脱ぎ玄関を上がった。そして手提げ袋をガサガサさせながらリビングへ向かう。勝手知ったる他人の家。
いや…来たことないはずだ…? なぜ迷わない?
「深沢さん、あんた、病人の家で大声出さないの。鼓膜が破れるわ」
そのあと美波が静かに入ってきた。
「美波ちゃん、心配してるでしょ」
「心配してないわよ。確認に来ただけ」
「確認? 何の?」
「坂本将吾が本当に風邪で休んでるか。さぼりかもしれないでしょ」
「さぼるわけないだろ。俺は真面目だ」
喉が痛い中、無駄口を叩く。声がガラガラで自分の声じゃないみたいだ。
「ひどい声ね。ガラガラ蛙みたい」
「ガラガラ蛙は鳴かないだろ」
「鳴くわよ。あなたが」
美波はそう言って俺の額に手を当てた。冷たい手だった。冬の外気を纏った、小さくて白い手。
「……熱いわね。三八度くらい」
「分かるのか」
「分かるわよ。手が冷たいから感度が高いの」
「体温計じゃないんだから」
「私の体感は体温計より正確よ」
「正確じゃないだろ」
「正確なの」
その時、瑞樹がリビングから叫んだ。
「坂本くん! お布団、リビングに移動していい? ベッドよりこっちが暖かいし、テレビも見れるよ!」
「いいよ……って、もう移動してるのか」
「移動したよ! 早いでしょ!」
俺は仕方なくリビングに向かった。瑞樹が布団をソファの前に敷いていた。丁寧に枕までセットしてある。
「お前、勝手に布団を移動するな」
「病人は文句言わないの! 病人は寝てるの!」
「寝てないと文句も言えないだろ」
「じゃあ寝て! 文句言わないで!」
俺は敷かれた布団に横になった。暖かい。リビングの暖房が効いているからだ。瑞樹が暖房をつけてくれたらしい。
「さて」
瑞樹が手提げ袋を広げた。
すると、中身が次々と出てきた。
保温ポット。「お粥入ってるの! 私が作ったの!」
スポーツドリンク二本。「ポカリ! 経口補水液! 両方あるよ!」
ゼリー飲料三種類。「ウィダー、ザバス、カロリーメイト。三種類あるから選んで!」
濡れタオル。「冷やす用!」
乾きタオル。「拭く用!」
体温計。「念のため!」
うがい薬。「予防用!」
マスク。「私たち用!」
「……お前、全部持ってきたのか」
「全部持ってきたよ! まだあるの!」
瑞樹は袋の底から、もう一つの袋を嬉しそうに取り出した。
「クレープ! 駅前の! いちごホイップ! 私のおやつ用!」
「自分の分かよ」
「看病にはエネルギーが必要なの!」
美波が冷ややかに言った。
「深沢さん、あなたお見舞いに来たの? それともピクニックに来たの?」
「お見舞い! でも楽しくなくちゃお見舞いじゃないよ!」
「お見舞いは楽しくないものよ。静かで、控えめで、病人を休ませるものよ」
「美波ちゃんのお見舞い、堅苦しそう」
「堅苦くないわよ。合理的なだけ」
美波は高級そうな紙袋を開けた。中から出てきたのは、一つの包み箱だった。
「これはね、柏木家お抱えの料理人が作った冷製ポタージュよ。温めれば飲めるわ。喉に優しくて栄養価が高い。カロリーは二百キロカロリー。塩分零点五グラム。添加物なし」
「……料理人?」
「うちの料理人よ。フランスで修業した人。スープ一つであなたの風邪が治るかは分からないけど、少なくとも深沢さんのお粥より美味しいわ」
「ちょっと! 私のお粥だって美味しいよ!」
「味見したの?」
「……作ってる時に少し味見した」
「少し?」
「……三回」
「三回も味見したらもうお粥じゃないわよ。残りカスよ」
「残りカスじゃないよ!」
美波はさらに袋から小さな瓶を取り出した。
「これはね、熊本県産の柚子蜂蜜よ。お湯に溶かして飲めば、喉の炎症を抑えられるわ。うちの母が風邪を引いた時に使ってたもの」
「美波ちゃん、ちゃんとお見舞いの準備してきたんだ」
「当たり前でしょ。やるならちゃんとやるの」
俺は布団の中で二人を見ていた。
瑞樹は保温ポットのお粥をボウルに移している。湯気が立つ。白いお粥だ。具はなさそうだが、優しい匂いがする。
美波はポタージュを鍋に移し、火にかけている。コンロの使い方を知っていることに驚いた。いや、当然知っているか。
お金持ちでも料理はできる。いや、料理はできないが料理人の作品の温めることはできる。
「坂本くん、まずお粥食べよう! 冷めないうちに!」
瑞樹がお粥をスプーンで掬い、俺の口元に運んだ。
「あーん」
「……自分で食える」
「病人は自分で食べないの! 看病されてこそお見舞いなの!」
「いや、俺はまだ腕が動く」
「動かさないの! 腕は休ませるの! エネルギーを温存するの!」
「温存するエネルギーがない」
「あるの! あるからあーんして!」
瑞樹のスプーンが俺の口に突っ込まれた。お粥が口の中に広がる。
熱い。柔らかい。味は——薄い。ほとんど味がない。だが、喉に優しい。
「……味がない」
「薄味にしたの! 風邪の時は薄味がいいの!」
「薄味じゃなくて無味だろ」
「無味じゃないよ! お米の味がするよ!」
「お米の味しかしない」
「それがいいの!」
今度は美波が鍋の火を止めた。
「はいはい、深沢さんの無味粥はもういいわ。こっちのポタージュを飲みなさい」
彼女はポタージュをマグカップに注いだ。黄色くてクリーミーなスープ。
「これを飲みなさい。喉の痛みが和らぐわ」
美波はマグカップを俺の手に渡した。手が触れると冷たかった。外から来たばかりだからだ。
「……俺、まだお粥食べ終わってないけど」
「お粥は残しなさい。これは上書きするの」
「上書きって何だ」
「胃袋の優先順位を書き換えるの。無味粥より、フランス料理人のポタージュの方が上」
「柏木、お前、瑞樹のお粥を下に見てるだろ」
「事実を述べただけよ」
「事実じゃないよ!」
瑞樹が叫んだ。
「私のお粥には愛が入ってるの! 美波ちゃんのポタージュにはお金が入ってるだけ!」
「お金が入ってるから美味しいのよ」
「愛が入ってるから美味しいの!」
「愛で味がする?」
「するよ!」
「じゃあ味見してごらんなさい」
瑞樹は自分のお粥をスプーンで掬い、一口食べた。
「……あ」
「味がしないでしょ」
「……でも、愛は味がしなくても、心に届くの」
「心に届く味のしないお粥。それは詩人に言わせて」
美波はそう言って、俺にマグカップを促した。
「飲みなさい。冷めるわ」
俺はマグカップを口に付けた。ポタージュが喉を滑り落ちた。濃厚で、喉の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
「……美味い」
「でしょ」
美波が少し得意げな顔をした。
「ちょっと坂本くん! そっちのほうが美味しいって言った!」
「言ってない。美味いって言っただけで、お粥より美味いとは言ってない」
「でも言外にそういう意味があった!」
「ない。お粥も美味かった。味が薄いけど」
「薄いけど美味いって言った! じゃあやっぱり私の勝ちじゃない!」
「勝負してないだろ」
「してるの! 看病対決!」
瑞樹はそう宣言した。
「看病対決? 何それ?」
首を傾げた美波が質問する。
「お見舞いに来たんだから、看病で勝負するの! どっちが坂本くんの風邪を早く治せるか!」
「そんなの、医学的に不可能よ。風邪は自然治癒するものでしょ」
「医学とか関係ないよ! 愛と気合で治すの!」
「愛と気合でウイルスは死なないわよ」
「死ぬよ! 私の愛なら死ぬよ!」
「あなたの愛は抗ウイルス薬なの?」
「そうだよ! 深沢瑞樹ブランドの抗ウイルス薬!」
「厚生労働省に認可されてないわよ」
「坂本くんに認可されてればいいの!」
俺は二人の間でマグカップを握ったまま天井を見ていた。
「お前ら、病人を前にしてうるさい」
「あ、ごめん」
瑞樹が小さくなる。
「病人は静かに寝るものだしね」
美波も少し声を落とした。
だが、三十秒もしないうちに、瑞樹が動いた。
「じゃあ静かに看病するね。まずはお粥をもう一口」
スプーンが迫る。
「あーん」
口に突っ込まれた。また無味のお粥。だが、温かい。
美波がそれを見て眉をひそめた。
「深沢さん、あなた、病人にあーんしてるの?」
「してるよ! 看病の基本だよ!」
「看病の基本は手洗いとうがいよ」
「それはもうしたよ! 玄関で!」
「じゃあ次は水分補給。病人にスプーンで粥を詰め込むのは気管支炎のリスクがあるわよ」
「気管支炎?」
「誤嚥性肺炎のリスクもある。病人が横になったまま食べ物を口に入れるのは危険なの」
「じゃあどうすればいいの」
「まず座らせなさい」
美波は俺の背中に手を回して上体を起こす。布団がずれる。冷たい空気が首に当たる。
「おい、暖かいところが——」
「姿勢の方が大事よ。喉の詰まりを防ぐの」
彼女はそう言って枕を俺の背中に当てた。
「はい、これで安全。ゆっくり飲みなさい」
マグカップを口元に運ぶ。ポタージュがまた喉を滑り落ちた。
「……お前、看病経験あるのか」
「ないわよ。ただ、知識はある」
「知識だけで看病するのか」
「知識は実践の母よ」
「実践がないだろ」
「今日が初めての実践よ」
「初めての実践を俺でやるな」
「文句言わないの。あなたは実験体」
「実験体かよ」
瑞樹が対抗して動いた。
「じゃあ私も座らせる! もう一口あーん!」
「深沢さん、さっき姿勢を直したばかりでしょ」
「お粥に姿勢は関係ないよ! あーんは愛だから!」
「愛でも気管に入ったら肺炎よ」
「入らないよ! 優しく入れるから!」
「優しく入れても気管には入るの」
「入らない!」
「入る!」
二人が睨み合った。俺はその間で、口の中にお粥とポタージュが混在したまま、咀嚼も飲み込みもできない。
「……喉、通らないんだけど」
「あ、ごめん!」
「ごめんなさい」
二人が同時に謝った。
「お前ら、看病対決するなら静かにやれ。俺が死ぬ」
「死なないよ!」
「死なないわよ」
「お前らの看病で死にそうだ」
「ひどい!」
「ひどいわね」
二人が同時に傷ついていた。




