文芸部、結婚を語る1
雪は一晩で十センチ積もった。
だが、学校は休みにならなかった。気象庁は我々を見捨てたらしい。神も見捨てたらしい。世界は滅びなかった上に、俺は寒い中を自転車で登校しなければならなかった。人生とは苦痛の連続である。
部室に入ると、暖房が効いていた。瑞樹がもう来ていた。
「おはよう坂本くん! 雪すごかったね!」
「おはよう。すごかったな。登校中に三回転んだ」
「大丈夫?」
「肉体は大丈夫だ。精神が死んだ」
「いつも死んでるじゃん」
美波が入ってきた。マフラーを優雅に巻き、雪の結晶がついた黒髪を払いながら。
「坂本将吾、あなたの自転車、チェーンが錆びてたから今日はバスにすればよかったのに」
「バス代がもったいない」
「百八十円で命を守れるのに、あなたの命は百八十円以下なの?」
「むしろマイナスだろ」
「開き直るな変態」
「変態は関係ないだろ」
美波は自分の席に座り、鞄から激辛ポテトチップスを取り出した。
「はい、昨日の約束。タイの激辛ポテト。本来は三倍辛いやつだけど、あなた用に五倍にしておいたわ」
「配慮ありがとう。優しさの欠片もないけど」
「あるわよ。あなたの舌が麻痺して、悲観的な言葉を吐けなくなるの。それは社会への優しさ」
「俺への優しさじゃないな」
三人が席に着いた頃、部室のドアが開いた。だが、今回は蹴り開けられなかった。ノックもなく、ただ静かに、気だるそうに。
「ーーあー、いるいる」
文芸部の顧問であり、現代文の教師でもある佐倉京子が現れた。年齢は二十七歳。長い黒髪はポニーテールにまとめられ、白衣の下には少し着崩したブラウス。目の下に隠しきれないクマがある。
手にはコンビニの袋。中身はおそらく缶チューハイだろう。学校に酒を持ってくるなとは言わない。この人には何を言っても無駄だからだ。
「先生、それ、学校に持ってきていいものじゃないですよね」
美波が冷ややかに言った。
「見なかったことにして。お願い。頼む。人生に疲れたの」
佐倉先生は崩れるように椅子に座った。
「先生、また徹夜?」
瑞樹が心配そうに聞く。
「徹夜じゃない。三日分の睡眠不足。理由は二つ。一つ、期末テストの作成。二つーー」
佐倉先生は天を仰いだ。
「お見合いが失敗した」
沈黙が部室を満たした。
「……先生、それ、話す必要あります?」
美波が言った。
「あるの。聞いて。もう無理。私、結婚できない。このまま一生独身で、孤独死して、遺体は一週間後に発見されて、新聞に『孤独死した女性教師、享年四十』って書かれるの」
「四十まで生きる前提なんですね」
「美波ちゃん、優しくして。先生、今、脆いの」
佐倉先生は机に突っ伏した。
「で、お見合いの相手はどんな人だったんですか」
瑞樹が聞いた。
「三十五歳。商社マン。年収八百万。身長一七五。趣味はゴルフとワイン。一見完璧」
「完璧じゃないですか」
「完璧だったの。でもね、私がダメだったの」
顔を上げた先生の目が少し潤んでいた。
「デート中にね、私が『最近疲れてて』って言ったの。そしたら彼、『じゃあ休んだら?』って言ったの」
「……正論では」
「正論なの。でもね、それじゃだめなの。『じゃあ休んだら』じゃなくて、『疲れてるんだね、何かできることある?』って言ってほしかったの」
「先生、それ、相手に求めすぎでは」
「求めすぎてるの。分かってるの。でも、求めたいの。もう疲れたの。仕事して、テスト作って、生徒の問題を処理して、帰ったら誰もいない。猫もいない。熱帯魚は一匹いるけど、熱帯魚は話しかけてくれない」
「熱帯魚に話しかけたことあります?」
「ある。『おはよう』って。無視された」
「魚は耳がないです」
「知ってる」
俺は黙って聞いていた。だが、少しだけ思うことがあった。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何? 坂本くん。慰めてくれる? 優しい言葉かけてくれる?」
「いいえ。質問です」
「……何」
「先生は、結婚したいんですか。それとも、孤独が怖いんですか」
佐倉先生は顔を上げ、俺をじっと見た。
「……鋭いね、坂本くん。嫌い」
「生徒を嫌わないで下さいよ」
「いいの。先生は嫌いって言う権利があるの」
そう言って彼女はため息をついた。
「正直に言うとね、どっちもなの。結婚したいし、孤独も怖い。でもね、一番怖いのは、誰にも必要とされないことなの」
「先生、私、先生のこと必要だよ!」
瑞樹が元気よく手を挙げた。
「瑞樹ちゃん、優しい。でもね、生徒に必要とされるのと、一人の人間に必要とされるのは違うの」
「……違う、ですか」
「違うの。生徒は卒業したら忘れるでしょ」
「忘れないよ!」
「忘れるの。現実は。私も高校時代の先生、名前覚えてないし」
「ひどい」
「ひどいのは現実なの」
美波が激辛ポテトをかじりながら言った。
「先生、一つ言っていい?」
「何? 柏木さん。柏木家の令嬢からのアドバイス?」
「あなたの問題はね、選択肢を持ちすぎてることよ」
「選択肢?」
「お見合い、合コン、婚活アプリ、マッチングサービス。選択肢が多すぎて、結局誰も選べない。それが現代の結婚不安の正体よ」
彼女は目を丸くした。
「柏木さん、 17歳でそれ言う?」
「言うわよ。うちの親もそうだから。父は母に会う前に二十人のお見合いをしてた。結局、一番最初のお見合い相手が母だったけど」
「……逆にロマンチックね」
「ロマンチックよ。選択肢を絞るから、決断できるの」
「じゃあ、私も選択肢を絞ればいいの?」
「そう。三十五歳商社マンにしろとは言わない。でも、『完璧な人』を探すのをやめなさい。完璧な人なんていない。いるのは、『自分にとって許容できる欠点を持つ人』だけ」
美波の言葉は毒舌の中で鋭い真理を含んでいた。それはたぶん、彼女がお金持ちの家に生まれ、人間の本質を早くから見てきたからだろう。
「柏木さん、将来、結婚相談所開けるわよ」
「開かないわ。結婚なんて非合理的な制度、推奨できない」
「推奨できないのに、アドバイスするの?」
「分析と推奨は別よ」
佐倉先生は笑った。少し元気が出たらしい。
「で、坂本くんはどうなの」
「何が」
「将来、結婚したい?」
俺は即答した。
「いいえ」
「即答?」
「即答。結婚は人生の墓場だと言うし、俺みたいなのが結婚しても、相手を不幸にするだけです」
「……自分で自分を下げないで」
「下げてない。正確に評価してるだけです」
瑞樹がむくれた。
「坂本くん、それ、間違いだよ」
「何が」
「結婚したら相手を不幸にするっていうの。違うよ。坂本くんだからこそ幸せにできる人がいるよ」
「誰だよ」
「例えば、楽観的な人」
瑞樹はにこりと笑った。
「楽観的な人はね、悲観的な人の心配を理解できるから。だから、安心できるの。『この人は私の心配を分かってくれる』って」
「……それ、お前のことか」
「そうだよ」
部室が、一瞬静かになった。
美波がポテトをかじる音だけが響いた。カリッ。カリッ。
瑞樹は自分の言った言葉の意味に気づいたのか、顔を赤くした。
「い、いや、例えばの話だよ! 一般論!」
「一般論で自分を例に出すの?」
美波が冷ややかに言った。
「出さない! 出さないよ!」
「じゃあ誰を出すの?」
「誰も出さない! 空気! 空気を例に出したの!」
「空気は結婚できないわよ」
「美波ちゃん、いじわる!」
瑞樹が美波の腕を叩いた。美波は避けもしなかった。そして少し笑っていた。
佐倉先生は頬杖をつきながら、俺たちを見ていた。
「……いいわね」
「何がですか」
「青春ね。あなたたち、いいわね」
「先生、目が据わってます」
「据えてない。少し酔ってるだけ」
「学校で飲んでますよね」
「飲んでない。チューハイは飲料よ」
「アルコール入ってますよね」
「アルコールは元気の成分よ」
「元気の成分じゃないです」
彼女は缶チューハイを一口飲んだ。誰も止めなかった。止めても無駄だからだ。
「ねえ、本当に聞きたいんだけど」
「あなたたち、高校生の今、誰かのこと好きなの?」




