世界は滅びない。でも雪は降る
俺は世界滅びないかなと物騒なことを考えていた。
放課後の文芸部部室。窓の外では冬の空が鉛色に垂れ込め、今にも雪が降り出しそうだ。この分だと明日は積雪で学校が休みになるかもしれない。いや、もっと大きくなれば一週間くらい休みになるかもしれない。いやいや、もっと大きくなれば、年度末のテストも進路面談も、全部吹き飛んで——。
「坂本くん、また世界を滅ぼそうとしてるでしょ」
唐突に、甘い声が思考を遮断した。
顔を上げると、深沢瑞樹がにこにこと笑って立っていた。光栄にもなく、この学校で五本の指に入ると噂される美少女だ。艶のある栗色のロングヘア、大きくて澄んだ瞳、制服の襟元から覗く白い鎖骨。成績優秀、スポーツ万能、性格も良くて誰にでも笑顔を振りまく、いわゆるハイスペックというやつだ。
何でこんな人間が、俺みたいな陰キャのいる文芸部に顔を出しているのか。未だに謎だ。
「滅ぼしてないよ。ただ、雪で明日が休みになるといいなと——」
「それは『世界が滅びないかな』と同じことだよ。坂本くんの脳内では」
「違う。前者は気象庁の管轄で、後者は神の管轄だ」
「どっちも坂本くんの管轄じゃないよ」
瑞樹はくすくす笑いながら、俺の向かいの席に座った。そして、鞄から何かを取り出す。
「はい、お土産。今日、駅前で買ってきたの」
「……クレープ?」
「そう! いちごホイップクリーム! 瑞樹のおすすめ!」
彼女は得意げに包みを開けた。甘い香りが部室に漂う。冬の夕方に食べる、温かい店で作られたクレープ。確かに魅力的だ。だが。
「お前、これを俺に食えと?」
「もちろん! 坂本くん、昨日『人生に甘みがない』って言ってたでしょ? だから甘いものあげる!」
「論理が飛躍しすぎだろ」
「大丈夫、私の論理はいつだって直感に基づいてるから!」
それは論理とは言わない。
俺がため息をつきながらクレープを受け取ろうとした瞬間、部室のドアが蹴り開けられた。
「ちょっと待ちなさい。その炭水化物の塊を、この部室に持ち込むとはどういう了見かしら」
冷徹な声と共に現れたのは柏木美波だった。
濡れたアスファルトのような黒髪をピシッと整え、息を吸うほどの威圧感を纏った少女だ。
制服のスカートは規定の長さより短く、でもそれが許されるのは彼女が柏木家の令嬢だからだ。
両親は都市開発を手掛ける柏木グループの会長と副会長。つまり、俺たちが通うこの高校の土地も彼女の家の所有物だったりする。
「柏木。ドアは手で開けるものだ」
「静かに開けたら驚きがないでしょ。それより深沢さん。その毒物を片払いなさい」
「毒物って何言ってるの! クレープは愛と平和の象徴だよ!」
「砂糖と小麦粉と脂肪の塊が? 細胞を破壊して肌を老けさせるだけよ。あなた、まだ十七歳なのに、四十歳の肌になりたいの?」
「美波ちゃん、そんなことないよ! いちごのビタミンCがお肌にいいんだよ!」
「いちご一粒分のビタミンCで、その砂糖の害を打ち消せるとでも? 小学生でも騙されないわよ」
柏木美波。成績は学年トップ。資産家の娘。そして、毒舌。彼女の舌には、チリソースよりも辛い言葉が仕込まれている。
美波は俺の隣に座り(勝手に)、鞄から何かを取り出した。
「それで、今日の議題は何? また『世界が滅びないかな』の奴? 坂本将吾、あなたのその悲観主義、そろそろプラトンあたりに訴えられるレベルよ」
「プラトンは死人だろ」
「だから訴えられるのよ。冥府の裁判で」
「意味が分からん」
美波は俺の突っ込みを無視して、取り出したパッケージを開けた。中には激辛の柿の種が入っている。
「はい、これでも食べなさい。脳の血管が刺激されて、悲観的な思考回路が焼き切れるわ」
「それ、普通の柿の種の何倍辛いんだ」
「五倍」
「殺す気か」
「殺さないわよ。ただ、味覚を再構築するだけ。悲観主義者は味覚が退化してるの。だから、刺激で再教育するの」
美波はそう言って、自信満々に激辛柿の種を俺の前に置いた。俺はため息をついた。
「……で、今日は何の話だっけ」
「幸せに生きるにはどうすればいいか、だよ!」
瑞樹が元気よく言った。
「さっき思ったの。坂本くんが『世界滅びないかな』って言うの、本当は幸せになりたいからじゃないかなって」
「……なぜそうなる」
「だって、世界が滅びたら、悲しいことも苦しいこともなくなるでしょ? それはつまり、幸せになりたいってことの裏返しだよ」
瑞樹はそう言って、クレープを一口かじった。クリームが口角につく。それを舌でペロリと舐める。何故か俺は少し目を逸らした。
「……深沢さん、あなたの論理、少し進化したわね」
美波が感心したように言った。
「でしょ? 私、頑張ってるの!」
「でも結局、結論が『クレープを食べれば幸せ』になるんだとしたら、原始人レベルよ」
「クレープを食べるのは高度な文化行為だよ!」
「原始人も果実を食べて喜んでたわよ。本質は同じ」
二人が言い合いを始めた。俺はその間に、クレープを一口かじった。甘い。甘すぎる。だが、悪くない。瑞樹の笑顔のせいか、少しだけ甘さが染みた。
「で、柏木。お前はどう思うんだよ。幸せに生きるにはどうすればいいか」
美波は激辛柿の種を一粒口に放り、涼しい顔で噛んだ。俺が一粒食べたら三日間舌が痛むやつだ。
「簡単よ。経済的自由と精神的優越感。この二つがあれば、人間は幸せに生きられるわ」
「それはお前がお金持ちだから言えるんだろ」
「お金持ちだからこそ、正確なのよ。貧乏人はお金がない不幸せを知らない。お金があると不幸せが減る。だから、お金は幸せの必要条件」
「必要条件かよ。じゃあ、俺は一生無理だな」
「大丈夫。あなたは私の知り合いになれるから、準富裕層に入れるわ」
「……は?」
美波の顔が少し赤くなった気がしたが、気のせいかもしれない。冬だし、部室は暖房が効きすぎているからだ。
「それで、深沢さんはどうなの。あなたの考える幸せは」
瑞樹はクレープを食べ終えて、指についたクリームを舐めながら言った。
「私はね、毎日が楽しいって思えること、かな。おいしいものを食べて、面白い本を読んで、好きな人と話して。それだけで十分だよ」
「好きな人、ね」
美波がチラリと俺を見た。俺は無視して、クレープの包み紙を折りたたんだ。
「じゃあ、俺の幸せは何だ?」
俺は脳内で少しだけ考えた。
「え?」
そして、その答えはシンプルだった。
「俺は、カツ丼を食って、寝て、何もしないで一日が終わることだ。それが幸せだ」
「坂本くん、それ、幸せじゃなくて現実逃避だよ」
「同じだろ」
「違うよ! 幸せは、向かっていくものだよ! 現実逃避は、逃げるものだよ!」
「……同じだ」
「違うの!」
瑞樹がむくれた。頬を膨らませる。ハムスターみたいだ。
美波がふん、と鼻を鳴らした。
「坂本将吾。あなたの不幸せはね、自分が幸せになる資格がないと思ってるからよ」
「……は?」
「自分は幸せになれないと思ってる。でも、それは間違い。幸せになる資格なんてないの。ただ、幸せになるだけ」
「……お前、哲学書読んだのか」
「化粧品メーカーのPR誌よ」
「PR誌かよ」
美波が少しだけ笑った。笑うと、彼女の毒舌が少しだけ柔らかくなる。毒が薄まるというか、毒が甘くなるというか。
「で、どうするの。今日の部活。幸せについての話、まだ続ける?」
瑞樹が聞いた。
「続けるなら、カツ丼食べたい」
「坂本くん、それ話と関係ないよ」
「関係ある。カツ丼を食えば幸せだ。だから、幸せに生きるにはカツ丼を食えばいい。結論」
「結論出すの早すぎ!」
瑞樹が笑った。美波も呆れたように笑った。
冬の部室は、暖房が効いていて暑いくらいだ。窓の外では、雪が降り始めていた。本当だ。白い雪が、静かに、静かに降り積もっていく。
「……あ、雪だ」
瑞樹が窓に駆け寄った。
「見て! 雪! きれい!」
「きれいね。冷たいけど」
美波も窓に寄った。
「雪が積もったら、明日、学校休みになるかも」
「坂本くん、それ、世界滅亡と同じ思考だよ」
「うるさい」
三人で窓の外を見た。雪は、静かに降っていた。世界は、滅びない。滅びないけれど、雪くらいなら降ってくれる。
「ねえ、明日も部活来る?」
瑞樹が聞いた。
「来るわよ。雪でも」
美波が言った。
「……俺も、来るよ」
「やった! じゃあ明日は、私がクレープ買ってくるね!」
「深沢さん、またその毒物を——」
「美波ちゃんも、激辛のお菓子持ってきてね!」
「……持ってくるわよ。あなたの舌が麻痺するくらいの、ね」
俺は二人のやり取りを聞きながら、窓の外の雪を見ていた。
幸せに生きるにはどうすればいいか。結論は出なかった。でも、いいや。カツ丼は食えなかったが、クレープは食えた。激辛柿の種は残しておこう。
世界は滅びない。でも、雪は降る。そして、明日も、この部室に二人が来る。
それだけのことが、今は、少しだけ、幸せだと思った。




