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ep.9 手順は、まだない

 暖炉の火が小さくはぜた。


 窓の外では雨が降っている。

 雪ではなかった。


 北方の冬に降る、冷たく重い雨だった。


 石畳は黒く濡れ、正門の旗は強い風に何度もあおられている。


 雨の日の支部は静かだ。


 雪の日のように音が吸われるわけではない。

 ただ、何もかもが湿って重くなる。


 外套、靴、手袋、荷札、紙。


 そういうものが、少しずつ扱いづらくなる。


 執務室では、エルナが書類に目を通していた。


 机の端で俺は閉じられている。

 俺の余白には、まだ何も増えていない。


 雨が窓を細く叩いた。


 その音に混じって、廊下の向こうから足音が近づいてくる。


 速くはなかった。


 むしろ、少し遅い。


 何かを言いに来た者の足音だった。


 扉が叩かれる。


「入ってください」


 エルナが顔を上げる。


 扉が開き、カイルが入ってきた。


 耳は濡れ、外套の肩から雨粒が落ちている。


 尻尾は膨らんでいない。


 ただ、低く下がっていた。


「報告します」


 声はいつもより少し硬かった。


「正門で荷物を受領しました」


 エルナは瞬きをした。


「正門で?」


「はい」


 カイルは耳を少し伏せる。


「受け取ったのは正門の受付です。陸竜が運んできたため、通常の荷受けではないと判断し、私が呼ばれました」


 ガレスが机の横で顔を上げる。


「本日は定期便の日ではありませんね」


「はい」


 カイルは短く答えた。


「確認したところ、荷物は木箱一箱でした。荷札には、薬草、衣類、毛布等とあります。取扱は、凍結、湿気注意」


 雨がまた窓を叩いた。


 エルナの視線が、ほんの少しだけ窓へ動く。


 すぐに戻った。


「問題は」


 カイルは口を開けた。


 だがすぐには声が出なかった。


「木箱に」


 尻尾が床を一度だけ叩いた。


「王国軍の紋章がありました」


 執務室の空気が止まった。


 雨の音だけが、細く続いている。


 王国軍。


 その言葉の重さを、俺はまだよく知らない。


 だが、エルナの顔から血の気が引いたことは分かった。


 ガレスの表情は変わらない。


 それがかえって怖い。


「受領印は」


 ガレスが静かに尋ねた。


 カイルの耳がさらに伏せる。


「押されています」


 誰もすぐには何も言わなかった。


 押してしまったものは、押してしまっている。


 たぶん、そういう沈黙だった。


 エルナはゆっくりと息を吸った。


「状況を確認します」


 エルナは立ち上がった。


 椅子が小さく鳴る。


「正門へ」


「はい」


 カイルが扉の横へ下がる。


 エルナは俺を手に取った。


 気休めにしては重い。

 だが、置いていかれるよりはよかった。


 不思議なことに、今回はガレスが同行しなかった。

 いつもなら、何も言わずに半歩後ろへつく。

 だがこの時、ガレスは執務室に残った。


 エルナはそれに気づいていたはずだ。

 けれど、問い返す余裕はなかった。


 正門へ向かう足取りは、いつもより速かった。


 廊下には雨の匂いが入り込んでいた。


 石壁が湿っている。


 正門に近づくほど、その匂いは濃くなった。

 門の方から、風にあおられた旗の音が聞こえる。


 正門脇に、木箱が置かれていた。

 濡れた布がかけられている。

 その布の端から、黒く湿った木肌が見えた。


 受付兵が背筋を伸ばして立っている。

 顔色はあまりよくない。


 エルナが近づくと、受付兵は深く頭を下げた。


「申し訳ありません」


「まずは状況を確認します」


 エルナの声は硬かった。

 だが、責める声ではなかった。


 カイルが木箱の前にしゃがみ、布を少しだけ持ち上げる。


 木箱の側面。


 そこに、雨と泥を拭った跡があった。

 そしてその中央に、王国軍の紋章がある。

 見間違えようのない紋章だった。


 受付兵の肩が小さく沈む。


 エルナはしばらくその紋章を見ていた。


「荷札を」


「こちらです」


 受付兵が差し出した荷札は、端が湿って少し波打っていた。


 送付元。


 軍本部。


 それだけだった。


 魔王軍とも王国軍とも書かれていない。


 宛先。


 王国軍北方補給支部。


 ただし、王国軍の三文字には泥がこびりついてインクが滲んでいる。


 受付で見た時には、北方補給支部だけが読めたのだろう。


 品目。


 薬草、衣類、毛布。


 凍結、湿気注意。


 開封はされていない。

 封印も破れていない。


 それはよいことのはずだった。


 だが、よいことだけではどうにもならない。


「陸竜は」


「すでに出発しています」


 カイルが答えた。


「行き先は」


「分かりません」


 短い答えだった。


 悪い答えではない。

 ただ、助けにはならなかった。


 王国側の荷物。


 誤って押された受領印。


 すでにいない陸竜。


 凍結と湿気に弱い品目。


 雨に濡れる正門脇の木箱。


 どれにも悪意がない。


 だが、荷物はそこにある。


 エルナは俺を開いた。


 竜運。


 その項目を探す。


 指先が少し急いでいた。


 定期便。

 荷受け。

 発着場。


 そして、前任者の太い字。


『ドラゴン便 定期便を待たせるな。竜が怒れば空が落ちる。』


 エルナはしばらくその一文を見つめた。


 雨が木箱を叩いている。


「……誤配送については」


 俺の頁は、今回の件には何も答えなかった。


 前任者の字は、確かに迫力だけはあった。


 だが今、必要なのは空の心配ではなく、目の前の木箱の扱いだった。


「過去の受付記録を確認しました」


 後ろから、ガレスの声がした。


 手には封をしていない書簡がある。


「竜運の誤配送はありません」


「では、返送手順は」


「定義されておりません」


 エルナは開いたままの俺を見る。


 竜運の項目は、相変わらず空を落とす心配だけをしていた。


「いずれにせよ、竜運へ連絡を取らなければならないかと」


 ガレスはそう言って、書簡をエルナに差し出した。

 封はまだされていない。


「ですが、陸竜はすでに」


「配送基地に直接連絡を取るのはどうでしょう。雪狼なら、この雨風でも走れます」


 カイルが言った。


 エルナは小さく頷いた。


「お願いします」


「承知しました」


 ガレスは書簡に宛名を書き入れた。


 竜種運送組合、北部配送集約基地。


 正門の旗がまた大きくあおられた。


 飛ぶものにはつらい風だ。


 走るものなら、まだ行ける。


 書簡は受付へ渡された。


 受付兵が雪狼便の手配へ向かう。


 動くべきものが動き始めた。


 だが、木箱はまだそこにある。


 雨に濡れる正門脇に。


「正門付近に置いたままにはできません」


 エルナが言った。


「はい」


「しかし、支部の物資として入庫することもできません」


「はい」


「開封もできません」


「はい」


「使用もできません」


「はい」


 返事ばかりが積み上がっていく。


 できないことは分かる。


 では、できることは何なのか。


 エルナの指が、俺の頁の端で止まっていた。


 その指先が少し硬い。


 俺は少しだけ迷った。


 これは手順の話だ。


 俺は手順を知らない。


 竜運の規則も、北方支部の受付業務も、王国軍の荷物の扱いも知らない。


 それでも、今なら一つだけ言える気がした。


 手順がない。


 だから何もできない。


 そういうわけではない。


 俺は開かれた余白に意識を向けた。


 細い字が、ゆっくりと浮かぶ。


『手順がないなら作って残しましょう。』


 エルナが瞬きをした。


 ガレスもカイルも、その一文を見る。


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 雨の音だけが聞こえる。


 エルナは俺を見ていた。


 それから静かに息を吸う。


 顔色はまだ白い。


 だが、目の焦点が戻っていた。


「では、今回の対応を記録します」


 声は大きくなかった。


 けれど、目の前の木箱にも、カイルにも、ガレスにも届いた。


「まず、濡れない場所へ移します」


「正門棟の受付横に、雪狼を休ませる部屋があります」


 受付兵が言った。


「外とは隔てられています。蓄熱魔石も一基あります」


「そこへ移します」


 エルナは言った。


「ただし、正式な入庫ではありません。返戻までの一時保全です。蓄熱魔石を追加してください。目的は凍結防止と湿気対策。封印は開けません」


「承知しました」


 木箱は二人の兵によって慎重に運ばれた。


 カイルが先導する。


 受付兵は受付に残った。


 正門の仕事もまた、止めるわけにはいかない。


 濡れた石畳を通り、受付横の部屋へ。


 木箱が床に置かれる。


 王国軍の紋章は、こちらを向いていた。


 薬草、衣類、毛布。


 凍結、湿気注意。


 エルナはしばらくそれを見ていた。


「封印未開封を確認。支部物資とは混ぜません。移動理由は、凍結および湿気防止」


「記録します」


 ガレスが答える。


 受付横の部屋は、少しだけ暖かくなっていった。

 追加された蓄熱魔石が淡く光っている。

 雨に濡れた外の匂いと、乾いた木の匂いが混じった。


 雪狼はまだ戻らない。


 竜運の返答もまだない。


 それでも、木箱はもう雨に打たれてはいなかった。


 待つ時間が始まった。


 ただ待つだけではなかった。


 受付時刻、発覚時刻、移動の理由。


 封印が破れていないこと。


 立会人。


 竜運へ書簡を出したこと。


 書くことは多い。


 待つだけの時間など、北方支部にはあまりないらしい。


 雨は弱まらなかった。

 風もまだ強い。


 正門の旗は何度もあおられ、雨粒が門扉を細かく叩いている。


 やがて、受付兵が顔を上げた。


 雨の向こうに白い影が見えた。

 低く、速く、地面を走ってくる。


 雪狼だった。


 雪狼は正門をくぐると、濡れた毛から雨を散らした。


 足取りは乱れていない。

 首元の書簡筒だけが、しっかりと守られている。


 受付兵がすぐに駆け寄った。

 書簡筒を確認し、慎重に外す。


「雪狼便、帰還しました」


 声が正門棟に通る。


 雪狼は一度だけ低く喉を鳴らした。


 エルナは受付兵へ目を向けた。


「休ませてください。褒美は多めに」


「多めに、ですか」


「はい。この雨と風です」


「承知しました」


 受付兵はすぐに頷いた。


 雪狼はその言葉が分かったのか、濡れた尻尾を一度だけ振った。


 竜運からの返答は短かった。


 陸竜は出払っている。


 飛竜はこの風では飛べない。


 回収は天候の回復を待つ。


 分かりやすく、そして困る返答だった。


 エルナは書簡を見た。


 それから受付横の部屋に置かれた木箱を見る。


「しばらく、こちらで保全することになりますね」


 正門棟の一室では、追加された蓄熱魔石が先ほどより光を増しているように感じた。


 王国軍の紋章は、もう濡れていなかった。


「これが正しいのか分かりません」


 誰も、肯定も否定もしなかった。


 エルナは木箱を見た。


「ですが、傷めてよい荷物ではありません」


 ガレスが静かに頷く。


「今回の対応を、暫定手順として残します」


「お願いします」


 エルナは頭を下げた。


「返戻までの一時保全。正門棟受付横の部屋を使用。蓄熱魔石を追加。目的は凍結防止および湿気対策。封印未開封。支部物資とは分けること。状態確認は一刻ごと」


 雨はまだ降っている。


 受付横の部屋では、雪狼が丸くなって休んでいた。

 その少し離れた場所に、王国軍の木箱が置かれている。


 蓄熱魔石の光が、どちらにも同じように届いていた。


 雪狼にも。


 その荷物にも。


 夕方になって、ようやく雨がやんだ。


 風も少し弱まっている。


 執務室では、エルナが記録を確認していた。


 受付時刻から、竜運への連絡、一時保全措置まで。


 書き出してみると、やるべきことは思ったより多かった。


 その時、扉が叩かれた。


「入ってください」


 発着場で待機していた兵が入ってくる。


「裏庭発着場に、ドラゴン便が到着しました」


 エルナが顔を上げる。


「分かりました。向かいます」


 エルナは記録を閉じると、俺を手に取った。


 また持っていかれるらしい。


 今日は正門へ行き、受付横の部屋へ行き、今度は裏庭の発着場へ行く。


 引き継ぎ書にしては、よく運ばれる日だった。


 裏庭の発着場には、すでにグレン殿が翼をたたんでいた。


 雨上がりの地面は黒く濡れている。


 グレン殿は正門の方を見ていた。


 やがて、荷車の車輪が石畳を鳴らす音が近づいてくる。


 先導しているのはカイルだった。


 その後ろで、二人の兵が荷車を押している。


 荷車の上には、王国軍の紋章が入った木箱。


 封印は破れていない。


 濡れてもいない。


 正門棟の一室で保全されていたため、木肌は落ち着いた色を取り戻していた。


 グレン殿が低く首を下げる。


「迷惑をかけた」


 低い声だった。


「荷を正しい場所へ運べなかった。これは竜運の不手際だ」


 エルナは首を横に振る。


「こちらも確認を怠りました。受領印を押してます」


「ならば、双方の記録に残る」


 グレン殿は木箱を見る。


「それでよい」


 エルナは記録板から一枚の写しを外した。


「こちらが、今回の記録の写しです」


 グレン殿が首を下げる。


「誤受領の経緯、封印未開封の確認、一時保全措置、竜運への連絡記録をまとめています」


「竜運側でも預かろう」


 グレン殿は低く答えた。


「荷が迷った時、記録まで迷ってはならん」


 カイルが木箱の封印を示す。


「封印、異常ありません」


 二人の兵が荷車を止める。


 グレン殿は荷札と封印を確かめ、木箱の状態を見た。


 それから、記録の写しを受け取る。


「確かに引き取った」


 グレン殿が言った。


 ガレスが返戻確認欄に、時刻と受領者、封印未開封、状態異常なしの文字を入れる。


 記録が埋まる。


 それだけで、荷物が少しずつ正しい場所へ戻っていくように見えた。


 雲の切れ間から差した夕方の光が、濡れた石畳を鈍く照らしている。


 グレン殿は荷を確かめると、翼をひらいた。


 低い羽音が、発着場の空気を揺らす。


 そのまま夕方の光の中へ浮かび上がり、西の空へ遠ざかっていく。


 見上げた先に、薄い虹が出ていた。


 ほんの少しだけ。


 すぐ消えてしまいそうな、淡い虹だった。


 数日後。


 竜運から、正式な便で小さな荷が届いた。


 今度は裏庭の発着場に。


 宛先は魔王軍北方支部。


 差出人は竜種運送組合。


 荷札は濡れていない。


 今度は、間違いなく支部宛てだった。


 中には耐湿紙と荷札紐。


 それから、雪狼用の干し肉。


 添状には、礼品とある。


 エルナはしばらくそれを見ていた。


「これは、何に計上すればよいのでしょうか」


 ガレスは答えなかった。


 カイルも答えなかった。


 俺も答えられなかった。


 雨の日にひとつ増えた手順の横で、新しい問題が静かに積まれていた。


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