ep.8 死神は、応接室へ
暖炉の火が小さくはぜた。
昼の片づけの音が食堂の方からまだ聞こえている。
窓の外では中庭の雪が白く光っていた。
支部の空気はいつもよりざわついている。
だが執務室の空気はいつもより重い。
机の上に黒い封筒が置かれている。
魔王軍本部経理局。
封蝋も黒い。
エルナは白い顔でそれを見つめていた。
隣ではガレスも同じ封筒を見ている。
いつも通りの顔だった。
だが沈黙が長い。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
速い。かなり速い。
扉が叩かれるより先に開いた。
カイルが飛び込んでくる。
耳は立ち、尻尾は膨らんでいた。
「西側物見台より緊急連絡!」
声が少し裏返っている。
「転移門が開きました! 距離約二千!」
エルナが顔を上げた。
ガレスは黒い封筒を見た。
「いらっしゃいましたか。予定より半刻ほど早いですね」
エルナの白い顔がさらに白くなった。
カイルは息を整える間もなく続ける。
「黒い外套の人物一名を確認!大型の鞄を所持!」
執務室の空気が止まった。
カイルの耳が伏せる。
「死神です」
誰も否定しなかった。
執務室の外で慌ただしい足音が増えた。
ざわめきが石壁を伝って広がっていく。
エルナは黒い封筒から視線を外した。
「応接室へ参りましょう」
ガレスが机の上の書類を束ねる。
エルナは俺を手に取った。
気休めにしては重い。
役に立つかは分からない。
だが持っていかれるなら俺も見届けるしかない。
廊下へ出ると、兵たちは壁際に寄って道を開けた。
応接室の方から準備に追われる兵たちの声が聞こえる。
「卓布はこれでいいのか」
「黒はやめろ。洒落にならん」
「茶葉は一番高級なものを」
「いや、あえて程々のものを」
「処刑台は」
「今日は使わないらしい」
いつも使っているのか。
応接室の扉は開いていた。
白い卓布。
三組の茶器。
皿には焼き菓子。
砂糖壺。
蜂蜜の小瓶。
迎え撃つ用意は整っていた。
足音が近づいてきた。
速くはない。
遅くもない。
一定の歩幅だった。
それだけで廊下のざわめきが静かになっていく。
扉の前で足音が止まった。
控えていた兵が扉を開ける。
黒い外套の人物が立っていた。
頭まですっぽりとかぶっている。
顔は影になっていた。
手には大きな黒い鞄。
角が固く、留め金は鈍い銀色だった。
外套の裾から雪が一粒落ち、床の上で溶けた。
「本部経理局」
黒い外套の人物が名乗った。
「ルヴィア・ノルデンです」
声は静かだった。
なのに部屋の奥までよく届いた。
エルナは頭を下げた。
「北方支部長エルナ・グレイヴェインです。本日は遠路ありがとうございます」
ルヴィアは浅く頭を下げる。
「予定より早く失礼しました」
「いえ」
エルナの声は少し硬かった。
ルヴィアは頭を覆っていたフードを外した。
灰色の髪。
細い銀縁の眼鏡。
表情は凍った水面のように静かだった。
ルヴィアは応接卓へ進む。
大きな鞄が卓の脇に置かれた。
どすん。
茶器が小さく鳴った。
ルヴィアは席につく。
エルナも向かいに座った。
ガレスはエルナの斜め後ろに座る。
三組目の茶器がそこで意味を持った。
カイルは扉のそばに立っている。
耳はまだ伏せていた。
茶の湯気が細く上がる。
焼き菓子は誰にも触れられていない。
ルヴィアは黒い封筒を卓の上に置いた。
「本日は臨時会計処理確認として参りました」
「はい」
「確認対象は封書の通りです。陛下に関する経費差戻し案件。今期の経費処理状況。その他関連記録」
淡々とした声だった。
ルヴィアはそこで少しだけ間を置いた。
「陛下が最近よく北方支部の名を出されます」
「北方支部の名を、ですか」
「はい、寒いと」
カイルが小さく頷いた。
北方なので。
たぶんそう言いたかったのだと思う。
「また、陛下の経費処理を進めた者が北方支部にいると聞いています」
エルナはもはや真っ白だった。
「処分でしょうか」
「処分ではありません。処分であれば書面通知で事足ります」
淡白な死神だ。
「確認です」
エルナは背筋を伸ばした。
「承知しました」
「では拝見します」
ルヴィアの手が大きな鞄へ伸びた。
留め金が鳴る。
かちり。
取り出されたのは綴じ紐でまとめられた見覚えのある書類だった。
ガレスが支部側の控えを卓の端に置く。
頁をめくる音が応接室に響く。
茶の湯気が少しずつ細くなっていく。
やがてルヴィアの指が止まった。
「領収書代替証跡一覧」
「はい」
「この処理を進めたのはどなたですか」
エルナはすぐには答えなかった。
卓の端で俺は閉じられている。
あの時の一文を思い出した。
領収書の代わりになる証跡はありますか。
魔王様が話し、エルナが聞き取り、ガレスが整えた。
誰か一人の仕事ではない。
エルナは少しだけ息を吸った。
「支部として処理しました」
ルヴィアはエルナを見た。
凍った水面のような表情は崩れない。
「良い答えです」
エルナの肩が少しだけ下がり、カイルの耳も少しだけ戻った。
その直後、ルヴィアは鞄の内側から赤い札を一枚取り出し、処理記録の端に貼った。
カイルの耳がまた伏せる。
良い答えと赤い札は両立するらしい。
「問題はあります」
ルヴィアは赤い札の横に細い字を書き加えた。
「ですが記録が残っています」
責める声でも許す声でもなく、ただ線を引く声だった。
「記録が残っている問題は処理できます」
エルナは静かに頷く。
「陛下の申述は証跡ではありません。ただし聞き取り日時と相手が残っています。補助資料として扱えます」
ルヴィアは頁をめくった。
「竜がいた。あまり関係ありませんね」
さらに一行を見て、小さく頷く。
「ここの費目は問題なさそうです」
白い卓布の上で赤い札だけが妙に目立っていた。
茶器の横に帳票。
焼き菓子の横に控えの書類。
砂糖壺の横に赤い札。
迎え撃つ用意は整っていた。
だが迎え撃てているかは分からない。
魔王様の書類が閉じられ、次に支部の帳簿が開かれた。
除雪隊の記録。
ルヴィアの指が一行で止まる。
村荷受け場周辺の雪除け。
「荷受け場は街道ではありませんが…除雪隊の費用として計上されていますね」
「はい」
エルナはまっすぐ答えた。
「陸竜が転回できなければ荷の受け渡しができません。街道復旧に付随する作業として承認しました」
ルヴィアは次の行へ視線を移した。
「現場判断としては通ります」
エルナが顔を上げる。
ルヴィアは赤い札を軽く押さえた。
「ただし、記録の形が足りません。承認日と実施日を分けてください」
褒められたのか。
指摘されたのか。
たぶん両方だった。
次は受贈食材の記録だった。
ルヴィアは添状の写しを見てから、受領記録へ視線を移す。
「現品管理者の確認がありますね」
「保管庫のボルグが確認しました」
「食材在庫台帳は」
「倉庫側で管理しています。必要であれば写しを」
ルヴィアは小さく頷いた。
「後ほど写しを回してください」
赤い札は出なかった。
代わりに黄色い札が一枚貼られる。
「受付時刻を追記してください」
「承知しました」
黄色い札は赤より穏やかだった。
それでも指摘であることに変わりはない。
ルヴィアはそこで初めて茶に手を伸ばした。
一口だけ飲み、小さく頷く。
湯呑みが静かに戻された。
視線が卓の端へ移る。
俺の上で止まった。
「それは」
「支部長業務引継ぎ書です」
「拝見しても」
エルナは少し迷ったあと、俺を差し出した。
頁がめくられる。
ルヴィアの指は迷わない。
経理。
その項目で止まる。
前任者の太い字。
経理とは仲良く。
それだけだった。
応接室に静かな間が落ちる。
「前任者は要点を理解していましたね」
ルヴィアはそう言って頁を閉じた。
外の光は少し青くなっている。
廊下にも灯りが入った。
応接室の卓には赤い札と黄色い札が並ぶ。
ルヴィアは書類をまとめ、鞄へ戻した。
「確認は以上です」
エルナも立ち上がる。
「ご確認ありがとうございました」
「北方支部は記録が残っています」
ルヴィアは鞄を持ち上げた。
「良いことです」
少しだけ間が空く。
「処理に迷うものがあれば本部経理局へ回してください」
エルナは目を瞬いた。
「問題になる前の相談は、問題になった後の処理より軽く済みます」
ルヴィアは浅く頭を下げた。
「今後ともよろしくお願いいたします」
扉が閉まる。
足音は遠ざかっていく。
応接室には冷めた茶と、手つかずの焼き菓子と、修正指示書だけが残った。
しばらく誰も声を出さなかった。
カイルがぽつりと言う。
「死神に相談してもよいのですね」
「経理部長です」
ガレスが言った。
今日初めての訂正だった。
エルナは小さく笑う。
「書類、修正しましょう」
「はい」
ガレスが答える。
それから冷めた茶に視線を落とした。
「新しいお茶を淹れましょう」
カイルも姿勢を正した。
「はい」
窓の外では夕方の雪が青く光っていた。
今日も北方支部は寒い。
だが記録は残っている。
俺の頁には、昔から同じ一文が残っていた。
経理とは仲良く。
短い。
だが今日ほど、その意味がよく分かった日はなかった。
俺は少しだけ迷い、空いた余白に一文を加えた。
『相談は、問題になる前に。』
新しい茶の湯気が、応接室に静かに上がっていた。




