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ep.10 春は、まだ早い

 暖炉の火は、いつもより低く燃えていた。


 窓の外で、水の落ちる音がしている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 屋根の雪が、朝の光を受けて溶けている音だった。


 中庭の石畳には、黒い筋が見え始めていた。

 昨日まで白く埋まっていた場所に、細い道のように石の色が戻っている。


 外套の襟を少し緩めて歩く兵がいる。


 白い息も、昨日より薄い。


 北方支部の冬が、ほんの少しだけほどけ始めていた。


 執務室では、エルナが窓の外を見ていた。


 長く見ていたわけではない。


 ただ書類から顔を上げた拍子に、溶けた雪の筋が目に入ったのだろう。


 表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「少し、春が近いのでしょうか」


 小さな声だった。


 誰かに聞かせるというより、自分に言ったような声だった。


 机の端で開かれていた俺にも、その声は聞こえた。


 春。


 その言葉の意味を、俺は知っている。


 雪が溶けること。


 地面が見えること。


 支部の空気が軽くなること。


 たぶん、そういうものなのだろう。


 扉が叩かれた。


「入ってください」


 入ってきたのはカイルだった。


 耳の先が濡れている。


 雪ではなく、水で濡れていた。


「中庭の通路、かなり見えてきました」


 声が少し明るい。


「昨日まで足首まで埋まっていたところも、今朝は石が出ています」


「そうですか」


 エルナの表情が、また少し緩む。


 カイルの尻尾も、わずかに揺れていた。


「春が近いですね」


 その言葉が部屋に落ちた時。


 廊下の向こうから、別の足音が近づいてきた。


 速くも遅くもない。


 いつもの足音だった。


 扉がもう一度叩かれる。


「失礼します」


 ガレスだった。


 手には書類の束がある。


 春の気配とは、あまり相性のよくなさそうな厚みだった。


「雪解け期の危険箇所点検表です」


 エルナの表情が止まった。


 カイルの尻尾も止まった。


 春は、書類の形で来ることもあるらしい。


 ガレスは机の上に書類を置いた。


 紙の端が、ぴたりと揃っている。


「正門屋根の雪庇。裏庭発着場のぬかるみ。北西街道の仮道の再確認。排水溝。魔導パイプ露出部」


 ガレスは淡々と読み上げた。


「いずれも雪解け期の確認対象です」


「……多いですね」


「毎年、多いです」


 エルナは書類を一枚めくった。


 点検欄が並んでいる。


 担当部署。

 危険度。

 確認予定時刻。

 処置結果。

 再確認欄。


 春という言葉から想像するものより、ずっと細かい。


 カイルの耳が、わずかに伏せられた。


「雪が止んでも、仕事は減らないんですね」


「雪が止むと、別の仕事が増えます」


 ガレスはそう答えた。


 それは事実だった。


 午前中のうちに、点検の報告が次々と上がってきた。


 正門屋根の雪は、端が大きく張り出している。


 裏庭発着場は、昼前には荷車の車輪が沈みやすくなる。


 北西街道の仮道は、朝は硬いが昼には泥が浮く。


 魔導パイプの露出部には凍結割れの疑い。


 書類の上では、それぞれただの一行だった。


 だが、その一行ごとに人が動く。


 道具が要る。


 順番を決めなければならない。


 どれも大事に見える。


 どれも今日中に見ておきたい。


 だが、兵は無限にはいない。


 エルナは点検表を見つめていた。


 その横で、カイルの目が窓の外へ向いた。


 中庭では、兵たちが水たまりを避けながら歩いている。


 誰かが笑っていた。


 久しぶりに地面が見えたのが嬉しいのかもしれない。


 分からなくはない。


 白いものに覆われた場所に黒い石が戻るだけで、支部の空気まで軽くなる気がした。


 その時だった。


 外で、重いものが崩れ落ちた。


 続いて、誰かの声。


 エルナが立ち上がる。


「何事ですか」


 カイルがすぐに扉へ向かった。


 しばらくして戻ってきた時、耳が伏せられていた。


「正門脇の屋根雪が落ちました」


「負傷者は」


「いません。通行の直後でした」


 部屋の空気が、静かに重くなった。


 誰かが怪我をしたわけではない。


 大きな損壊が出たわけでもない。


 それでも、笑い声はもう聞こえなかった。


 エルナは点検表へ目を落とす。


 正門屋根の雪庇。


 そこには、確認予定時刻が午後と書かれていた。


「支部長」


 ガレスが静かに言った。


「北方の冬は、終わる前が危険です」


 エルナは返事をしなかった。


 代わりに、机の上の俺を開いた。


 頁がめくられる。


 季節対応。


 冬季業務。


 雪解け期。


 そこには、前任者の太い字が残っていた。


『雪解けを春だと思うな。』


『屋根、川、道を見ること。』


 短い。


 相変わらず短い。


 だが、その短さの中に、今の音が全部入っている気がした。


 屋根、川、道。


 雪が溶ければ、危険も動く。


 止まっていたものが落ちる。

 凍っていたものが流れる。

 白く隠れていたものが、泥になって足を取る。


 前任者の字は乱暴だった。


 けれど、現場を知らない字ではなかった。


 エルナはその字を見ていた。


 カイルも、ガレスも見ていた。


 窓の外では、また水が落ちる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 支部全体が、春という言葉に少しだけ寄りかかっていた。


 俺も、たぶんそうだった。


 冬が終わる。


 そう思うことは、悪いことではない。


 俺は余白に意識を向けた。


 細い字が、ゆっくりと浮かぶ。


『終わりかけの仕事ほど、丁寧に見届けましょう。』


 エルナが瞬きをした。


 カイルも、ガレスもその一文を見る。


 誰も声には出さなかった。


 けれど、三人とも小さく頷いた。


 責める言葉ではない。

 急がせる言葉でもない。


 ただ、今の支部に必要な言葉だった。


 エルナはゆっくりと息を吸う。


 緩んでいたものは、もう戻っている。


 あとは、順番を決めるだけだった。


「雪解け対応を、春季準備ではなく冬季警戒の最終段階として扱います」


 エルナの声は、執務室の中にはっきり届いた。


 カイルが背筋を伸ばす。


 ガレスは、その言葉を受けて点検表へ目を落とした。


「優先順位を変更します」


 エルナは点検表を引き寄せた。


「まず、人が通る場所を確認します。正門、中庭の主要通路、廊下口」


 ペンが動く。


「次に、荷が通る場所。裏庭発着場と荷車の通路」


 また一行。


「水が流れる場所は、詰まりを先に見ます」


 紙の上で、散らばっていた仕事が並び直していく。


「春まで待てる場所は、後回しにします」


 カイルの耳が、まっすぐに立った。


「正門屋根、すぐに行きます」


「お願いします。落とす作業の前に、通行止めを出してください」


「はい」


「裏庭発着場は」


「私が確認します」


 ガレスが答えた。


「荷車の通行を止める必要がある場合は」


「一時迂回路を使います」


「お願いします」


 扉の外で、兵が呼ばれる声がした。


 支部の空気が変わっていく。


 春を待つ空気ではなく、冬を終わらせるために動く空気に。


 昼過ぎには、正門の屋根雪が落とされた。


 通行止めの縄が張られ、兵が立った。


 落ちた雪は、思ったより重かった。


 誰かが下にいれば、無事では済まなかっただろう。


 裏庭発着場には砂利が足された。


 荷車の通路には板が敷かれた。


 排水溝からは、氷と落ち葉が取り除かれた。


 魔導パイプの露出部は、設備係が凍結割れの有無を確認した。


 食堂棟裏では、ボルグが黙って氷を割っていた。


 鉄の棒が振り下ろされるたび、硬い音が響く。


 カイルが通りかかり、少しだけ立ち止まった。


「そこは、後回しでもよかったのでは」


 ボルグは氷を見た。


 それから一言だけ言った。


「滑る」


「……はい」


 カイルはそれ以上何も言わなかった。


 夕方。


 中庭には、朝よりも広く石畳が見えていた。


 ただし、雪は消えていない。


 屋根にも、道の端にも、山の稜線にも白いものは残っている。


 冬は去ったのではない。


 形を変えて、まだ支部の周りにいた。


 エルナは執務室で点検表を確認していた。


 正門屋根。

 処置済み。


 発着場ぬかるみ。

 応急処置済み。再確認要。


 排水溝。

 除去済み。


 魔導パイプ露出部。

 凍結割れなし。


 北西街道の仮道。

 翌朝再確認。


 全てが終わったわけではない。


 けれど、何から見るべきかは決まった。


 エルナは点検表に印を押した。


 それから、俺を開く。


 前任者の太い字がある。


『雪解けを春だと思うな。』


『屋根、川、道を見ること。』


 エルナはその下に、細い字で追記した。


『雪解け期は、春季準備ではなく冬季警戒の最終段階として扱うこと。』


 前任者の字。


 俺の字。


 エルナの字。


 同じ頁に、三つの字が並んだ。


 窓の外で、屋根の雪が水になって落ちている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 朝と同じ音だった。


 けれど、聞こえ方は少し違っていた。


 春の音ではない。


 冬を終わらせるための音だ。


 エルナは点検表を閉じた。


 その下には、春季準備予定表が挟まっている。


 それが開かれるのは、もう少し先になるだろう。


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