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ep.11 冬具の残る春の庭

 俺の頁に、前任者の太い字がある。


『朝の氷が戻らなくなったら、春を始めろ。』


 エルナはその一文を読み、窓の外へ目を向けた。


 中庭の石畳は、朝の光を受けて濡れていた。

 屋根から落ちた水が、石の継ぎ目を細く流れている。

 日陰には汚れた雪がわずかに残っていたが、その縁にも、もう白い氷は張っていない。


 門を行き交う兵たちの足元から、硬い音は聞こえなかった。


 中庭で朝の氷を見なくなって、今日で三日になる。


 エルナはしばらく窓の外を見ていた。

 それから振り返って言った。


「では、始めましょう」


 机の上には、春季準備予定表が置かれていた。

 冬の終わりに挟まれたまま、まだ一度も開かれていなかった書類だ。


 エルナが最初の頁を開く。


 ガレスとカイルが、机の前に立っている。


 その隣には、灰色の作業着を着た小柄な魔族がいた。

 腰から、道具の番号札をまとめた束が下がっている。


「倉庫番長のアンタレス様から、道具保管庫を任されました。セルディンです」


 セルディンは小さく頭を下げた。


 声には、わずかな硬さがあった。

 道具保管庫を任されてから、まだ日が浅いのだろう。


「よろしくお願いします」


 エルナが答えた。


「はい。保管庫へ戻せる状態かどうかは、私が確認します」


 春季準備予定表の最初の項目。

 冬季装備の点検と返納。


「例年どおり、必要がなくなった場所から回収します」


 ガレスが説明した。


「回収した物は点検し、修繕が必要な物は設備係へ。使用できる物は、乾燥後に道具保管庫へ戻します」


「集めた物は、どこへ置きますか」


 エルナが尋ねた。


「いったん中庭へ」


 エルナは窓の外を見た。

 日当たりのよい石畳には、雪のない場所が広がっている。


「配置先ごとに並べて、台帳と照合します。泥落としと破損の点検も、その場で行ってください」


「保管庫へ直接運ばないのですか」


 セルディンが答えた。


「泥と水を落とす前の物は入れられません。木の柄が傷みますし、金具も錆びます」


「では、中庭で乾かしたあと、セルディンが受け取るのですね」


「はい。保管庫へ入れた時点で、返納済みです」


 中庭へ戻ってきただけでは、まだ返納ではないらしい。


 カイルは冬季装備台帳の写しを受け取った。


 雪かき板。

 屋根雪落とし。

 滑り止め具。

 通行止め用の縄や路肩標。


 冬の間、それらは正門棟や発着場、各施設へ分けて置かれていた。


     ◇


 中庭の南側に、長机が二つ並べられた。


 一方には冬季装備台帳。

 もう一方には、泥を拭うための布と水桶、破損品に付ける修繕札が置かれている。


 石畳の上には、配置先を示す札が並んだ。


 セルディンは保管庫から乾燥棚を運び出し、日当たりのよい壁際へ置いた。


 最初に運び込まれたのは、正門棟の装備だった。

 兵士二人が雪かき板を担ぎ、後ろからカイルが滑り止め具の籠を運んでくる。


「正門棟分です」


 雪かき板には泥が付いていた。

 滑り止め具の金具にも、薄く錆が浮いている。

 濡れた木の匂いが、雪解け水の匂いに混じった。


 道具は、正門棟の札の前へ一つずつ置かれていく。


 セルディンが雪かき板の柄に刻まれた番号を読んだ。


「七番。八番。十番」


 カイルが台帳の写しへ目を落とす。


「屋根雪落とし一番がありません」


「正門棟に残しています」


 門番の兵が答えた。


「北側の軒下に、まだ氷柱があります。もう数日は必要です」


 エルナは台帳を確かめた。


 屋根雪落とし一番。


 配置先、正門棟。


「昨年も、こうして残していたのですか」


「はい。必要がなくなった場所から順に戻していました。返納までは、配置先と倉庫番長が直接確認しています」


 ガレスが答えた。


「台帳は、空欄のまま…ですか」


「はい」


 それでも、昨年まで道具は戻ってきた。

 経験のある者たちには、空欄の意味が分かっていたのだろう。


 エルナは俺へ目を落とした。


 中庭の氷が消えたからといって、すべての道具を同じ日に片づける必要はない。


 俺は余白に意識を向けた。


 細い字が浮かぶ。


『片づける前に、まだ使う場所を確認しましょう。』


 エルナが、その一文を読んだ。


「はい」


 小さく答えた。


 それから、門番の兵へ向き直る。


「屋根雪落としは、そのまま使ってください。三日後にもう一度状況を知らせてください」


「承知しました」


「ほかの配置先も確認しましょう」


 屋根雪落としは戻ってこなかった。


 カイルは台帳の余白に、氷柱除去、三日後確認と書き込んだ。


 セルディンは雪かき板七番を持ち上げ、柄を指でなぞった。


「これは、まだ受け取れません」


「破損がありますか」


「濡れています」


 雪かき板は、日の当たる乾燥棚へ立てかけられた。


 回収はされた。


 だが、保管庫へは戻せない。


     ◇


 裏庭発着場からは、道具が一つも届かなかった。


 代わりに、担当兵が泥の付いた長靴で中庭へやってきた。


「雪かき板は朝の霜に使っています。縄はぬかるみを囲い、路肩標は荷車の迂回路に立てたままです」


「傷んでいる物はありませんか」


 エルナが尋ねた。


「雪かき板の柄が少し緩んでいます。使用後に修繕が必要です」


「今は使えますか」


「はい」


「では、使い終わってから修繕へ回してください」


 カイルは台帳の余白に、使用中、返納後修繕と書き込んだ。


 担当兵は頭を下げ、泥の跡を残して発着場へ戻っていった。


 発着場の札の前には、何も置かれなかった。


     ◇


 食品庫からも、雪かき板は戻らなかった。


 エルナはカイルとセルディンを連れ、食品庫の裏手へ向かった。


 俺も抱えていかれた。


 日の当たる道では、雪解け水が流れている。


 だが、建物の影へ入ると、空気が冷たくなった。


 排水口の周囲には、薄い氷が残っている。


 ボルグが鉄の棒を振り下ろした。


 割れた氷を、その脇に置かれた雪かき板で押し出していく。


「まだ必要なのですね」


「氷がある」


 エルナは排水口を見た。


「では、三日後にもう一度確認します。それまでに必要がなくなれば、知らせてください」


 ボルグは頷き、再び鉄の棒を持ち上げた。


 中庭では、三日前から朝の氷を見ていない。

 ここでは、まだ冬の道具が働いている。


 春は始まっている。

 だが、支部のすべての場所から、同じ日に冬が消えるわけではなかった。


     ◇


 昼前。


 エルナは中庭の長机で、冬季装備台帳を広げた。


 正門棟にも、発着場にも、食品庫にも、まだ道具が残っている。


 乾燥棚に立てかけられた雪かき板も、セルディンはまだ受け取っていない。


 返納日の欄は、どれも空欄だった。


 代わりに、その周囲へ小さな書き込みが増えている。


 氷柱除去。使用中。

 返納後修繕。三日後確認。


「余白だけでは、見落としそうですね」


 エルナが言った。


 使用中なのか。


 回収され、乾燥を待っているのか。


 修繕が必要なのか。


 返納日の空欄だけでは、その違いが分からない。


 ガレスに尋ねれば、理由は分かる。


 セルディンも、アンタレスに確認できる。


 だが、台帳だけを見ても、その途中は分からなかった。


「状態を分けましょう」


 エルナは新しい紙を引き寄せた。


「まだ使う物は、継続配置」


 ガレスが頷いた。


「中庭まで戻った物は、回収済み」


 カイルが続ける。


「修繕へ回す物は、修繕待ちですね」


「乾燥と点検を終え、私が受け取った物を返納済みにします」


 セルディンが言った。


「継続配置には、理由も必要です」


「次に確認する日も書きましょう」


 紙の上に、新しい欄が作られていく。


 回収済み。

 継続配置。

 修繕待ち。

 返納済み。


 継続理由。

 再点検日。


 返納のやり方を変えたわけではない。

 空欄が埋まるまでの間に、名前を付けただけだった。


     ◇


 午後、冬季装備の点検が進められた。


 雪かき板は泥を落とされ、日の当たる乾燥棚へ立てかけられている。

 柄の割れた屋根雪落としには、黄色い修繕札が揺れていた。


 朝には冷たかった風も、日が傾く頃には、土と濡れた木の匂いを運んでいる。


 カイルが道具の番号を読み上げた。


「雪かき板、正門棟七番」


「乾燥済み。柄に割れなし」


 セルディンは板の両面を確かめた。


「受け取ります」


 七番が乾燥棚から運び出され、返納済みの欄に日付が入った。


「屋根雪落とし、兵舎二番」


「柄に亀裂あり」


「修繕待ちへ」


 黄色い札が付けられ、保管庫とは反対側の壁へ移される。


 新しく作った欄には、それぞれの道具の現在地が記されていた。


 夕方、エルナは俺を開いた。


 俺の一文の下に、細い字で追記する。


『継続配置は理由と再点検日を記録し、保管庫の受入をもって返納完了とする。』


 エルナは書き終えると、筆を置いた。


 窓の外では、西日が中庭の石畳を斜めに照らしている。


 乾いた雪かき板が一本、セルディンの手で保管庫へ運ばれていった。


 扉が開き、道具が収まり、また閉じる。


 石畳には、長く伸びた道具の影と、何も置かれていない配置札が残っていた。


 正門棟。


 裏庭発着場。


 食品庫。


 風が通り抜け、空いた札の端を小さく揺らした。


 まだ戻らない冬の道具は、それぞれの場所で、戻る順番を待っていた。

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