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ep.6 冷えた我慢の見つけ方

 雪は止んでいた。


 だが、寒い。


 北方の冬は、雪が止んだからといって暖かくなるわけではない。


 窓の外には、白く固まった雪の山が残っている。

 空は薄く晴れていた。

 晴れているのに、冷える。


 それが北方だった。


 ハルザ村方面の雪崩から、一週間以上経っている。


 村との連絡は戻った。

 薬も届いた。


 勇者一行との通行調整も、履行済みとなった。


 だが、北西街道の復旧作業は、まだ続いている。

 北方支部は、緊急対応を終えたあとも、その余波の中で動いていた。


 執務室の机には、朝から書類が積まれている。


 除雪隊報告書。

 ハルザ村方面、北西街道復旧経過。

 雪狼便帰還確認の綴じ込み。


 そして、履行済みとなった通行調整票。


 エルナはそれらを一枚ずつ確認していた。


 筆を取り、目を通し、必要な箇所に印を押す。


 いつものように。


 いや。


 いつもより少しだけ、遅い。


 筆先が、紙の上で止まる。


 エルナは息を吐いた。


 白くはならない。


 だが、その指先は少し赤かった。


 俺は机の端からそれを見ていた。


 暖炉の火は入っている。


 壁沿いの魔導パイプにも、かすかな熱はある。


 それでも、部屋の底に冷えが残っていた。


「支部長」


 ガレスが言った。


「はい」


「寒くありませんか」


 エルナは少しだけ目を瞬かせた。


「北方では、このくらい普通なのかと」


「普通ではあります」


 ガレスは静かに言った。


「ですが、業務に支障が出るなら問題です」


 エルナは返事をしなかった。


 筆を持ち直す。


 だが、その動きも少しぎこちなかった。


「暖房の確認を行います」


「故障でしょうか」


「まず、台帳を確認します」


 ガレスは即答した。


「台帳ですか」


「はい。暖房の不調を、感覚で処理してはいけません」


 ガレスは机脇の棚へ向かった。


「北方では、寒さに慣れます。慣れると、危険に気づくのが遅れます」


 手の届きやすい位置に、厚い帳面が一冊置かれている。


 表紙には、黒い字でこう書かれていた。


 暖房台帳。


 角は少し擦れていた。


 だが、埃はない。


 よく使われている帳面だった。


 ガレスが頁をめくる。


 紙の擦れる音が、やけに乾いて聞こえた。


「一週間前の臨時配分記録があります」


「復旧作業のためですね」


「はい。北西街道の完全復旧には、あと一週間ほどかかる見込みです」


 ガレスは記録を指で追った。


「医務室と兵舎への配分は高めのままです。そこに、執務室側の蓄熱魔石の交換時期が重なりました」


 エルナは台帳を見た。


 魔導パイプの系統。


 循環弁の開閉。


 蓄熱魔石の残量。


 記録は細かい。


 人の感覚より、よほど正直だった。


「執務室は、後回しで構いません」


 エルナが言った。


「通常であれば、そうです。医務室、兵舎、正門棟が優先されます」


 ガレスは台帳に視線を落としたまま答えた。


「では」


「ですが、支部長の業務に支障が出る場合は別です」


 ガレスは静かに言った。


「優先度を上げます」


 エルナは少しだけ黙った。


「私のために、ですか」


 ガレスは首を横に振る。


「支部長が機能することも、支部の維持に含まれます」


 エルナは小さく息を吐いた。


 反論はしなかった。


「営繕班を呼びます」


「お願いします」


 ガレスは控えの兵を呼んだ。


 短い指示が出される。


 執務室側蓄熱魔石。


 交換時期確認。


 循環弁、一時停止。


 作業中、執務室立入制限。


 兵は復唱し、すぐに廊下へ出て行った。


 手順が速い。


 こういうことに、北方支部は慣れている。


 しばらくして、営繕班の兵が二人、工具箱を持って入ってきた。


 片方は床石の継ぎ目を確認し、もう片方は魔導パイプの検査器を取り出す。


「執務室側、循環弱めです」


 兵が言った。


「蓄熱魔石も、交換時期を過ぎています」


「作業時間は」


 ガレスが尋ねた。


「半刻ほどです。この部屋の循環を止めます。床の点検蓋も開けますので、室内には入らない方がよろしいかと」


 エルナは机の上の書類を見た。


「では、急ぎのものだけでも別室で」


「休憩にしましょう」


 ガレスが言った。


 エルナは顔を上げる。


「急ぎのものは、先ほどまでに決裁済みです」


 ガレスは机の上の書類を一つに揃えた。


「残りは、作業完了後に再開しましょう」


 エルナはまだ書類を見ていた。


 少しの沈黙があった。


「……そうですね」


 ガレスは頷いた。


「通常書類は棚へ移しておきます」


「お願いします」


 エルナはそれから、俺に手を伸ばした。


 俺だけは、他の書類とは別に抱えられる。


 支部長業務引継ぎ書。


 まだ、机に置きっぱなしにできるほど軽いものではなかった。


 廊下に出ると、執務室の扉が静かに閉じられた。


 中では営繕班の兵たちが、床の点検蓋を開け始めている。


 石の蓋がずらされる鈍い音。

 工具箱の金具が鳴る音。

 魔導パイプの点検器が小さく震える音。


 エルナは俺を抱えたまま、しばらく扉を見ていた。


「少し、歩きます」


 ガレスは頷いた。


「承知しました。では、私は食堂の喫茶室で休憩します」


 エルナは少しだけ目を瞬かせた。


「支部長にだけ休憩を勧めるわけにはまいりませんので」


 ガレスは平然としていた。


 エルナは小さく息を吐いた。

 笑った、というほどではない。


 けれど、少しだけ肩の力が抜けた。


「温かいものを頼んでおきます」


「分かりました」


 エルナは俺を抱え直し、廊下の先へ歩き出した。


 廊下は、執務室より暖かかった。

 壁沿いの魔導パイプが、低く熱を持っている。

 ところどころに保温台があり、小さなやかんが湯気を立てていた。


 誰かが使うのだろう。


 兵か、伝令か、夜番の者か。


 そこにあるだけで、少しだけ廊下の寒さがやわらぐ。


 エルナは足を止めずに進んだ。


 医務室の前を通る。


 扉の隙間から、薬草を煮る匂いがした。


 中で誰かが低く返事をする。

 負傷者の声ではない。

 看護に当たる兵の声だった。


 ここは、暖かくなければならない場所だった。


 エルナは何も言わない。


 ただ少しだけ、扉の方を見る。


 それから歩き出す。


 兵舎へ続く通路には、湿った布と革の匂いが残っていた。


 乾燥室の戸口で、外套が何枚も吊るされている。


 雪を吸った裾。

 泥のついた靴。


 壁沿いの魔導パイプは、執務棟のものよりはっきりと熱を持っていた。


 北西街道の復旧は、まだ終わっていない。


 廊下の奥から、戻ってきた兵たちの足音が聞こえる。


 重い。


 だが、止まってはいない。


 支部はまだ、ハルザ村方面へ体を向けていた。


 さらに進むと、裏庭へ続く扉がある。


 エルナは少し迷ってから、抱えている俺を持ち直した。


 それから、その扉を開けた。


 冷たい空気が入ってくる。


 俺の頁が、わずかに震えた。


 裏庭へ出ると、空が広がった。


 俺は、発着場を初めて見た。


 名前だけは知っている。


 竜運、不在票。


 三度降りた配達竜。


 机の上で聞いた言葉ばかりが、冷たい空気の中で形を持っていた。


 裏庭の石畳には、雪が薄く残っている。


 だが、積もりきってはいない。


 地面の下に通された魔導パイプが、低く熱を持っているのだろう。


 端の壁には、色のついた掲示板が取り付けられていた。


 不在票専用。


 白い壁に白い紙を貼って、誰にも見つからなかった場所。


 今は、雪の中でも見える高さにある。


 掲示板の下で、発着場の管理担当が確認表に印をつけていた。


 朝、昼、夕、三度確認。


 その横では、別の兵が誘導灯の魔石残量を見ている。発着予定の前後は二名体制。


 それも、俺の知らないところで、もう支部の日常になっていた。


 発着場の隅には、縄と布覆いが干されていた。


 北西街道の復旧に使ったものだろう。


 橇に積まれた替えの道具。

 凍結防止の砂袋。


 予備の蓄熱魔石を収めた木箱。

 荷札には竜運の印がある。


 竜の姿は、今はない。


 けれど、ここは休んでいなかった。


 空から届く荷も、送る荷も、まだここを通る。


 エルナはしばらく発着場を見ていた。


 風が吹き、掲示板の上の小さな屋根に積もった雪が少し落ちる。


 発着場の兵がそれを払い、確認表を懐にしまった。


 手順、記録、点検。


 どれも、派手ではない。


 だが、それが止まると支部が止まる。


 エルナは俺を抱え直した。


 冷えた空気から逃れるように、扉を閉じる。


 廊下へ戻ると、魔導パイプの熱が少しだけありがたかった。


 食堂へ向かうにつれて、空気が変わった。


 廊下よりも暖かい。


 鍋の湯気。


 焼いた穀物の匂い。


 濡れた外套の匂いが、扉の近くに少し残っている。


 食事時ではないため、長机の席はまばらだった。


 復旧作業から戻った兵が一人、湯気の立つ椀を両手で包んでいる。


 奥では給仕係が大鍋をかき混ぜていた。


 食堂の奥には、低い仕切りで区切られた一角がある。


 喫茶室、と札が掛かっていた。


 部屋というより、食堂の中に作られた静かな場所だった。


 長机ではなく、小さな丸卓が六つ。


 壁沿いには、魔導パイプから熱を取った保温台があり、銀色のやかんが一つ、静かに湯気を立てている。


 窓際の席で、ガレスが茶器を二つ並べていた。


 本当に休憩していた。


「お戻りですか」


 ガレスが言った。


「はい」


 俺は卓の端に置かれる。


 ガレスが茶器に茶を注ぎ、差し出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 エルナは茶器を両手で包んだ。


 指先に、ゆっくり熱が戻っていく。


 食堂の方では、椀を置く音がした。


 誰かが小さく笑う。


 鍋の湯気が、仕切りの向こうで白く揺れている。


 ここも、支部だった。


 エルナはふと、丸卓の上を見た。


「伝票は」


「付けていません」


 ガレスは即答した。


「休憩の判断は業務ですが、茶代は私事です」


 エルナは少しだけ黙った。


「……線引きが細かいですね」


「経理と揉めないためです」


 俺は、その言葉を知っている。


 経理とは仲良く。


 あれは、思ったより広く効く言葉らしい。


 「いただきます」


 エルナは茶を一口飲んだ。


 湯気が、頬のあたりをやわらかく包む。

 指先の赤みが、少しずつ薄れていく。


「支部は、暖かいのですね」


 エルナが言った。


「必要な場所から、暖めています」


 ガレスは窓の外を見た。


 エルナは茶器を見つめていた。


「見てきました」


 医務室。


 乾燥室。


 発着場。


 食堂。


 その言葉は続かなかった。


 だが、ガレスは聞き返さなかった。


 エルナは俺を開いた。


 頁がめくられる。


 しばらくして、太い字が目に入った。


 暖房設備不調時。


 前任者の字は、相変わらず短い。


 『寒いと思ったら我慢するな。

 たいてい誰かが、もっと我慢している』


 エルナの指が、その文字の上で止まった。


 しばらく、何も言わなかった。


 食堂の湯気。


 廊下を渡る足音。


 遠くで扉が開く音。


 そして、茶器の中で小さく揺れる湯。


 休憩というものは、思ったより静かだった。


 やがて、喫茶室の入り口に営繕班の兵が姿を見せた。


「支部長」


 兵が姿勢を正す。


「執務室側蓄熱魔石、交換完了しました。循環、正常です」


 エルナは茶器を置いた。


「ありがとうございます」


「作業箇所の点検も完了しています」


「分かりました」


 ガレスが立ち上がる。


「では、戻りましょう」


「はい」


 エルナは俺を閉じ、抱え直した。


 喫茶室を出るとき、給仕係が小さく頭を下げた。


 ガレスも、ほんの少しだけ頭を下げる。


 それが支払いに対するものなのか、茶に対するものなのかは分からない。


 たぶん、両方だった。


 執務室に戻ると、空気が変わっていた。


 足元から、ゆっくりと熱が上がってくる。


 床下の魔導パイプが、静かに仕事をしていた。


 外されていた点検蓋は元に戻され、工具箱も片づけられている。


 机の位置も変わっていない。


 ただ、冷えだけが消えていた。


 エルナは机に戻った。


 俺は元の場所に置かれる。


 保温台の上では、やかんが湯気を上げていた。


 ガレスが新しい茶を淹れる。


 書類が一枚、また一枚と進んでいく。


 医務室補給申請。

 兵舎乾燥室燃料配分。

 除雪隊交代表。


 支部長印が押されるたび、どこかの扉が開き、誰かの足音が廊下を渡っていく。


 午後の光が、窓の端から少しずつ傾いた。


 暖房台帳には、新しい記録が加えられた。


 執務室側蓄熱魔石交換完了。

 作業時刻。

 確認者。

 異常なし。


 俺の頁にも、一文が浮かぶ。


『暖房の不調は、最初に台帳を確認すること。』


 エルナはそれを見て、少しだけ目を瞬かせた。


「……今日は、実務的ですね」


「妥当です」


 ガレスが答えた。


 夕方が近づく。


 窓の外では、また雪が降り始めていた。


 だが、茶はまだ温かい。


 筆を持つ指先も、もう赤くない。


 北方の冬は厳しい。


 雪が止んでも、冷える。


 道が戻るまでには、まだ少しかかる。


 それでも支部の中では、熱が流れている。


 医務室へ。


 兵舎へ。


 発着場へ。


 食堂へ。


 そして、支部長の机の下へ。


 誰かが台帳をつけている。


 誰かが交換時期を見ている。


 誰かが、誰かの我慢を見つけている。


 そうして今日も、北方支部の時間は過ぎていく。


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