ep.5 雪狼便、帰還する
雪は、夕方になっても止まなかった。
大粒ではない。
けれど、細かな雪が絶えず降り続けている。
窓の外では、魔導パイプの通った石畳だけが黒く残り、その左右に新しい雪が薄く積もり始めていた。
執務室の暖炉は、朝よりも少し大きな火を抱えている。
火の奥で、赤くなった薪が静かに崩れた。
机の上には、午前中の書類がまだ残っている。
除雪隊報告書。
燃料魔石使用記録。
竜運受領控え。
そして、今日新しく増えたものが一枚。
通行調整票。
そこには、勇者一行の名が記されていた。
王国軍特別遊撃隊。
代表者、レオン・アルバート。
同行者、三名。
目的地、ハルザ村。
接触時合図、白布および一時停止。
備考欄。
連絡が取れる状態なら、北方支部へ一報を届ける。
約束する。
エルナ・グレイヴェインは、その備考欄をしばらく見ていた。
「……備考欄に、約束と書かれているのですね」
ガレスは当然のように頷いた。
口頭確認事項。
後で確認できるよう、備考欄に残されたもの。
エルナは何か言いかけて、やめた。
たぶん、言わない方がよいと思ったのだろう。
俺は机の上で開かれている。
勇者来訪時。
前任者の字は相変わらず太く、短い。
一般の来客と同様に扱うこと。
受付票を忘れるな。
その下に、俺がさっき追記した一文がある。
『お互いに剣を抜く前に、目的を確認しましょう。』
エルナはそれを見て、しばらく黙っていた。
「……はい」
小さく、そう答える。
それは誰かに聞かせるためというより、自分に確かめるための声だった。
その時だった。
正門側から、低い鐘の音が一つ鳴った。
警鐘ではない。
来客でもない。
もっと短く、もっと事務的な音だった。
ガレスが顔を上げる。
「雪狼便です」
「もうですか」
「早いですね」
ガレスはそう言って、扉の方へ向かった。
エルナも立ち上がる。
「私も行きます」
俺は閉じられ、エルナの腕に抱えられた。
廊下へ出ると、石の床からかすかな暖気が上がっていた。
魔導パイプが壁沿いに走っている。
その上に置かれた小さな台には、やかんが一つ乗っていた。
湯気は、まだ細い。
外へ続く廊下は冷えている。
正門棟に近づくほど、雪の匂いが濃くなった。
受付前には、すでに門番が二人立っていた。
その足元に、大きな影がある。
狼だった。
ただの狼ではない。
肩までの高さが、兵の腰ほどある。厚い毛は灰白色で、耳の先と尾の先だけが薄く黒い。背には革の小さな鞍があり、首には筒状の文箱が括りつけられていた。
雪狼。
北方支部の伝令用の獣だ。
雪道を走る。
吹雪の中でも道を嗅ぐ。
そして、帰ってくる。
雪狼は正門棟の床に伏せもせず、座りもせず、ただまっすぐ立っていた。
毛には雪がついている。
鼻先も白い。
だが、目だけは妙に得意げだった。
「雪狼便三号、帰還しました」
門番が報告する。
「文箱は」
「装着確認済みです」
「負傷は」
「ありません。ただ、かなり腹を空かせているようです」
雪狼が、低く喉を鳴らした。
同意したらしい。
ガレスは頷いた。
「まず文箱を」
門番が慎重に手を伸ばす。
雪狼は動かなかった。
ただ、門番の手元を見ていた。
文箱の留め具が外される。
中から、丸められた紙片が二枚出てきた。
一枚は、厚手の紙。
もう一枚は、薄い現場報告用紙だった。
ガレスは紙片を受け取り、まず封を確認した。
「ハルザ村長印」
エルナの表情が少しだけ変わる。
ガレスは続けた。
「それから、王国軍特別遊撃隊の署名があります」
「読んでください」
「はい」
ガレスは紙を開いた。
寒さで少し固くなった紙が、乾いた音を立てる。
「北方支部宛。ハルザ村、薬を受領。負傷者三名、容体安定。村内に新たな負傷者なし。北西街道復旧まで村内待機可能」
そこで一度、ガレスは目を止めた。
「続きがあります」
「お願いします」
「勇者一行、ハルザ村到着。除雪隊との交戦なし。白布合図確認済み。村長、ならびにレオン・アルバート」
正門棟に、短い沈黙が落ちた。
雪狼が鼻を鳴らした。
エルナはその紙を見ていた。
「……届いたのですね」
ガレスが答えた。
「備考欄の内容は履行されました」
約束。
備考欄に入っていたもの。
それが、村長印つきの紙片になって戻ってきた。
俺は何も書けない。
さっき、勇者来訪時の頁に一文を追記したばかりだ。
だが、もし書けたなら。
何を書いただろう。
ガレスはもう一枚の紙を開いた。
「除雪隊第二班、班長カイルからの報告です」
エルナは顔を上げた。
「カイルからですか」
「はい」
ガレスは読み上げる。
「勇者一行四名、ハルザ村側枝道入口付近にて確認。白布掲示あり。三歩ごとに停止。声かけにて本人確認。代表者レオン・アルバート。敵対行動なし」
そこで、ガレスの声が少しだけ止まった。
「続きます」
「はい」
「三歩ごとに止まるため、接近速度は遅い。だが、こちらとしては非常に確認しやすかった。ハルザ村より一報を受領したため、雪狼便に持たせ北方支部へ返送する」
門番の一人が、わずかに肩を震わせた。
たぶん笑いをこらえたのだと思う。
エルナは困ったような顔になった。
「……本当に、三歩ごとに止まったのですね」
「指示通りです」
ガレスは表情を変えない。
「現場としては助かります」
「それは、そうですが」
エルナは紙片を受け取った。
カイルの字は、少し大きい。
だが読みやすかった。
現場で急いで書いたのだろう。端の方に、雪で濡れたような跡がある。
「勇者一行と除雪隊の接触は、問題なく終わったのですね」
「そのようです」
「よかった」
その言葉は、とても小さかった。
支部長の言葉というより、一人の声だった。
ガレスは少しだけ目を伏せた。
「では、処理します」
ガレスは紙片を並べた。
「通行調整票の備考欄を履行済みとして扱います。ハルザ村からの一報は、村落災害対応記録へ。カイル班長の報告は除雪隊報告書へ。勇者一行の接触記録は、通行調整票の別紙として綴じます」
エルナは紙片を見た。
ハルザ村長印。
王国軍特別遊撃隊の署名。
魔王軍北方支部の通行調整票。
同じ机の上に並べるには、少し不思議な組み合わせだった。
「これは、どの分類になるのでしょう」
「災害対応です」
ガレスは即答した。
「敵味方の分類ではありません」
エルナは一瞬だけ黙った。
それから、静かに頷いた。
「そうですね」
雪狼がもう一度、低く喉を鳴らした。
今度は少し長い。
門番が小声で言う。
「副官殿」
「分かっています」
ガレスは懐から小さな木札を取り出した。
雪狼が耳を立てる。
「雪狼便三号、帰還確認。文書破損なし。任務完了」
ガレスはそう言って、木札を門番へ渡した。
「干し肉を一枚」
雪狼が尻尾を少しだけ振った。
一枚で足りるのか。
いや、一枚なのか。
門番はすぐに受付奥の棚を開けた。
そこには、来客用の紙、封蝋、予備の羽ペン、そして小さな革袋があった。
革袋から干し肉が一枚取り出される。
雪狼はそれを受け取ると、ほとんど噛まずに飲み込んだ。
そして、ガレスを見た。
「一枚です」
ガレスが言った。
雪狼は見ている。
「規定です」
雪狼は、少しだけ耳を伏せた。
分かる。
規定はつらい。
エルナがそっと口を開いた。
「あの、任務がかなり早かったのであれば、追加支給は可能なのですか」
ガレスがエルナを見る。
門番も見る。
雪狼も見る。
「支部長裁量であれば、可能です」
「では、もう一枚」
雪狼の耳が戻った。
門番が二枚目を取り出す。
「ただし、記録が必要です」
ガレスが言った。
エルナはほんの少しだけ目を閉じた。
「……分かりました。記録してください」
「支部長裁量による雪狼便報酬追加、干し肉一枚」
「そこまで書くのですか」
「後で確認できます」
雪狼は二枚目を受け取った。
今度は少しだけ噛んだ。
満足したらしい。
尾が床を一度叩く。
どん、と低い音がした。
受付兵が少しだけ笑った。
正門棟の空気が、ようやく少し緩んだ。
エルナは、ハルザ村からの紙片をもう一度見た。
「負傷者三名、容体安定」
「はい」
「村内に新たな負傷者なし」
「確認しております」
「勇者一行、ハルザ村到着。除雪隊との交戦なし」
「問題ありません」
ガレスは一つずつ答えた。
それは報告確認だった。
けれど、何かを確かめる儀式のようでもあった。
エルナは紙を丁寧に畳み直す。
「この一報を受けたことを、こちらから村へ返す必要はありますか」
「必要です」
ガレスは答えた。
「ただし、今日は雪狼を休ませた方がよろしいかと」
雪狼が、当然だという顔をした。
「明朝、除雪隊経由で返信を出します」
「内容は」
「一報受領。負傷者容体安定を確認。北西街道復旧見込みは追って通知。以上でよろしいかと」
「勇者一行については」
「記録上は、通行調整完了です」
ガレスは少しだけ間を置いた。
「ただし、礼を述べる必要があるなら、別紙です」
エルナは考えた。
外では雪が降っている。
正門の向こうには、白い道が続いている。
その先に、ハルザ村がある。
勇者一行も、きっとそこにいる。
敵国の村。
敵国の勇者。
魔王軍の除雪隊。
それらが今、同じ一枚の紙の上でつながっていた。
「別紙は、いりません」
エルナは言った。
「ですが、通行調整への協力を確認したことは、記録に残してください」
「承知しました」
ガレスは頷いた。
「礼ではなく、確認ですね」
「はい」
少しだけ間があった。
「でも」
エルナは続けた。
「確認できて、よかったです」
「そうですね」
ガレスの声は静かだった。
「よかったかと」
雪狼が大きくあくびをした。
鋭い牙が見える。
門番が慣れた手つきで首輪を外し、毛についた雪を払う。
雪狼は抵抗しなかった。
ただ、もう一枚もらえないかという顔でエルナを見ていた。
エルナは困ったように微笑んだ。
「今日は、もう規定の範囲で」
雪狼はガレスを見た。
「支部長判断です」
ガレスが言った。
雪狼は諦めたように、受付奥の敷物へ歩いていった。
そこで丸くなる。
大きな灰白色の毛玉になった。
「正門棟で休ませるのですか」
「雪狼便は任務直後、体温を下げすぎないよう受付奥で休ませます」
「なるほど」
「なお、床に毛が残ります」
「それも記録に」
「清掃予定に入ります」
エルナは少しだけ笑った。
ほんの少しだけだった。
だが、確かに笑った。
執務室へ戻ると、机の上の書類は増えていた。
ハルザ村からの一報。
カイル班長の現場報告。
通行調整票。
雪狼便帰還確認。
支部長裁量による干し肉追加支給記録。
エルナは椅子に座り、しばらくそれらを眺めた。
「一日で、ずいぶん増えましたね」
「はい」
ガレスが紙を揃える。
「しかし、どれも必要な記録です」
「そうですね」
エルナは通行調整票を手に取った。
備考欄。
連絡が取れる状態なら、北方支部へ一報を届ける。
約束する。
その横に、ガレスが新しく細い字で書き加えた。
履行済み。
村長印つき一報、受領。
エルナはその文字を指でなぞらなかった。
ただ、見ていた。
「備考欄が、終わりましたね」
ガレスは首を横に振る。
「終わったのではありません」
エルナが顔を上げる。
「記録になりました」
暖炉の火が、小さく揺れた。
俺は机の上で開かれていた。
その言葉は、少しだけ俺の中に残った。
備考欄。
そこに書かれた約束。
戻ってきた紙片。
履行済みの文字。
人間の村長印。
勇者の署名。
魔王軍の受付票。
全部が、同じ机の上に並んでいる。
世界は、これで変わらないかもしれない。
戦争は、明日も続くのかもしれない。
けれど今日、除雪隊と勇者一行は戦わなかった。
薬は届いた。
負傷者は助かった。
雪狼は帰ってきた。
それは記録していいことだった。
俺は、まだ書けない。
今日の分の一文は、もう使っている。
だから、今はただ見ている。
エルナがようやく茶器を手に取った。
正門棟へ向かう前に淹れたまま、机に残されていた茶だ。
湯気は、もうない。
「冷めていますね」
ガレスが言った。
「淹れ直しましょうか」
エルナは茶器を見て、少しだけ笑った。
「でも、今日はこれでいいです」
窓の外では、雪が静かに降っている。
正門棟の方から、雪狼の低い寝息がかすかに聞こえた気がした。
机の上では、通行調整票の備考欄に、小さな文字が増えている。
履行済み。
その二文字は、暖炉の光を受けて、少しだけ濃く見えた。




