ep.39 来年も、よい年に
窓の外は、朝から灰色だった。
低い雲が空を覆い、遠くの山も輪郭がぼんやりしている。窓ガラスの縁は白く曇っていた。
暖炉には、朝から火が入っている。
机の上では、淡い灰色の茶器から湯気が上がっていた。縁から流れた青い釉薬は、見る角度によって少し色が違う。
七日市でエルナが買ったものだ。
片付けが終わったあと、店主が北方支部まで届けてくれたらしい。
それから一週間ほどが経っていた。
レオンたちもすでに王国側へ戻り、北方支部はいつもの仕事へ戻っている。
机の上の書類も、冬季の巡回予定や街道便の運行表、積雪時の連絡に使うものへ変わり始めていた。
扉が叩かれた。
「支部長、報告です」
「はい」
兵士が入ってきた。
「裏の発着場からです。グレン殿より、来週あたり定期便が遅れる可能性があるとのことです」
エルナが窓の外を見た。
「お天気ですか?」
「はい。そろそろ雪になるだろう、と」
「分かりました。ありがとうございます」
兵士が退出した。
扉が閉まり、ほどなくまた叩かれた。
「どうぞ」
今度は別の兵士だった。
「街道馬車組合から連絡です。ラメール直送便は今週いっぱいで今季終了。注文は前日まで受け付けるとのことです」
「今週いっぱい」
「はい。ラメールの竜運から、天気に関して連絡があったそうです」
今度の兵士も一礼して部屋を出ていった。
エルナが机の予定表を見る。
「ガレスさん。二番標からラメールへ続く道も、そろそろ封鎖でしょうか」
「まだでしょう」
ガレスは書類から目を上げた。
「例年は積雪後に、竜運と街道馬車組合から連絡が届きますので」
「街道馬車も、その頃には?」
「ええ。ほとんど止まります」
直送便が終わるのと、道が閉じるのは同じ日ではないらしい。
◇
その日の午後、エルナは各倉庫を回った。
最初は食品庫だった。
棚には冬を越すための保存食が並んでいる。穀物や豆、干し肉、塩漬けの野菜。壁際には樽や木箱が積まれていた。
ボルグは帳簿と棚を何度か見比べた。
「不足はありません」
「では、追加の注文はなしですか?」
「干し魚だけ、最終便で少し多めに仕入れます」
ボルグが棚の一角を見る。
「まだ余裕がありますので」
冬になっても、竜運を使えば干し魚は届く。それでも、街道馬車が走っているうちに少し多めに入れておくつもりらしい。
次に向かった道具類の保管庫では、セルディンが冬季装備と補修材の数を確認していた。
縄や金具、雪かき用の道具、予備の板材。こちらにも大きな不足はなかった。
「追加は?」
「ありません。今あるもので足ります」
セルディンは帳簿へ印をつけた。
最後は魔導具の保管区画だった。
アリーシャが蓄熱魔石や携行灯の予備を確認している。
「追加は必要ですか?」
「ありません。そのために、夏の終わりから確認していますので」
そうだった。
夏の終わりには、もう冬物の棚卸しを始めていた。
支部としての冬支度は、もうほとんど済んでいる。
ただ、私事の冬支度は、まだまだ足りないらしい。
◇
翌日の昼前。
エルナは机の上で一枚の注文票を書き終えた。
内容を確認し、俺を抱える。
注文票を手に、正門棟へ向かった。
受付台の上には、すでに何枚もの注文票が重ねられていた。注文の中身は、干物や菓子、布、日用品だった。
去年の控えを見ながら書いたものもあれば、同じ品を頼む者同士でまとめられたものもあるらしい。
エルナの一枚も、その上に重ねられた。
その間にも、一人の兵士が新しい注文票を持ってくる。
受付の兵が内容を確認し、束へ加えた。
ちょうどそこへ、ラメールへ向かう御者がやってきた。
注文票の束を受け取り、紙の端を揃える。
「……載りますかねー」
俺にも分からない。
御者は注文票を荷台へ入れ、そのままラメールへ向かった。
◇
翌日の昼前。
エルナが巡回の帰りに正門棟へ寄ると、何枚かの注文票が戻ってきていた。
在庫なし。入荷待ち。今季の街道便には間に合わない。
受付台の前で、一人の兵士が紙を見ていた。
「入荷次第、竜運で送りますが?」
「……考え直します」
紙を持って帰った。
その横では、新しい注文票が受付へ出されている。
直送便が終わるまで、まだ一日あった。
◇
そして、その翌日。
今季最後の直送便の日が来た。
朝には、今季最後の鮮魚便も支部へ入った。
食品庫で荷を下ろし、午前のうちには帰っていったらしい。
昼を少し回る頃、エルナは俺を抱えて中庭へ降りた。
今季最後のラメール直送便が来る時間だった。
しばらくすると、食品庫の方から車輪の音が近づいてくる。
ラメールから来た荷馬車が、中庭へ回ってきた。
食品庫へ届ける荷は、先に下ろしてきたらしい。それでも荷台は、まだかなり埋まっている。
荷馬車の脇を、ボルグと荷受けの兵たちが歩いていた。
荷馬車が止まる。
ボルグが荷台を見る。
「……この後、苦労しそうだな」
「俺は一旦戻るぞ」
それだけ言って、ボルグは食品庫の方へ戻っていった。
荷受けの兵たちは、そのまま荷台の脇に残った。
御者が積まれた荷を確かめる。
「すいませんが、荷下ろしを手伝ってもらえますか」
「おーい、何人かこっち頼む!」
荷受けの兵が中庭へ声を飛ばした。
「荷下ろしだ!」
「今行く!」
近くにいた兵たちも集まってくる。
北方支部宛の荷を下ろし、代わりにラメール方面へ送る荷を積み始めた。
だが、荷台にはこの先の街道で降ろす荷も残っている。空いている場所へ詰めればいい、というわけにはいかなかった。
兵たちが手分けして荷を動かしたが、奥には途中で降ろす箱があり、壊れ物もある。置き直すたびに、別の荷が邪魔になった。
先ほどから作業していた荷受けの兵が、荷台を見たまま呟いた。
「……ボルグ殿は、これを予想してたのか……」
「誰か! ボルグ殿を呼んできてくれ!」
ほどなく、ボルグが戻ってきた。
荷台の周りにいた兵たちが、少し場所を空ける。
「お手数おかけします。ボルグ殿」
ボルグは何も言わず、積まれた箱の荷札を確認し始めた。
騒ぎを聞きつけたのか、ガレスも中庭へ出てきた。
その頃、倉庫の方からセルディンとアリーシャが歩いてきた。どうやら仕事終わりらしい。
荷馬車に気づいたセルディンが、そちらへ足を向ける。
少し先を歩いていたアリーシャが振り返り、セルディンへ向かって両腕を大きく交差させた。
だが、セルディンは荷馬車の方を見たままだった。
「何してるんですか?」
近くの兵士が事情を説明した。
「なるほど。では私はこれで――」
「セルディン、アリーシャ」
ボルグは振り返らなかった。
隣にあった木箱を二度叩く。
ぽん、ぽん。
アリーシャの肩が落ちた。
セルディンも大きく息を吐き、持っていた荷物をその場に置いた。
「……ごめんなさいね」
エルナが言った。
「ボルグ殿には逆らえませんよ……」
そこからは早かった。
支部に残すもの。
ラメールまで運ぶもの。
この先の街道で降ろすもの。
ボルグが荷札を確認し、セルディンが積む場所を決める。
アリーシャと兵たちが荷を運んだ。
さっきまで入り混じっていた箱は、ほどなくそれぞれの場所へ収まった。
御者が荷台を確認する。
「きれいに収まりました。ありがとうございました」
中庭には、北方支部宛の箱がいくつも残った。
赤い壊れ物札が付いたものもある。
「壊れ物は、ご確認をお願いします」
ガレスが、支部長室宛の箱を一つ引き寄せた。
蓋を開ける。
中には藁が詰められ、五本の瓶が一本ずつ離して収められていた。
透き通った瓶の中には、濃い琥珀色の酒が満ちている。
午後の光を受けると、瓶の底で赤みを帯び、沈みかけた夕日のように揺れた。
「おお」
周りから声が上がった。
「五本ですか。ガレス副官、さすがですね」
「私は二本しか頼んでいませんが……」
「あ……私のです……」
「おお……」
エルナの顔も、夕暮れのように赤くなった。
◇
しばらくして。
荷馬車は出発の準備を終えていた。
積み直した荷には縄が掛けられ、御者が最後の確認をしている。
荷積みの騒ぎも、もう収まっていた。
御者が荷台の脇へ回り、小さな箱を一つ取り出した。
「支部長、これを」
「これは?」
「今年もお世話になりました」
エルナが箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな船の模型だった。
木で作られた船体は、手のひらに乗るほどの大きさだった。
「船……ですか?」
「ええ。昔、ラメールで建造されていた、大きな資源運搬船なんですよ」
ラメールの景色を思い返す。
小さな舟を陸へ引き上げ、修繕する場所はあった。
だが、こんな船を造れるような場所があっただろうか。
エルナも似たような顔をしていた。
「はっはっはっ。実は、昔のラメールには大きな造船所があったんですよ」
「世界一大きな船を目指して造られていた、通称『方舟』です」
「世界一ですか! すごい。今、その船は?」
「残ってません」
御者は首を振った。
「進水まではしたそうですが、艤装の途中で戦争が始まりましてね。造船所も戦争で失われて、結局、完成しなかったそうです」
「そうだったんですか……」
「ただ、最近は景気も上向いてますからね。また、あの造船所を再建しようという話が出ているとか」
御者は御者台へ上がった。
「来年も、いい年になるかもしれません」
手綱を取る。
中庭に残る者たちを見渡した。
「それでは、北方支部の皆さん。よい冬を」
馬が歩き出した。
見送りに出ていた兵たちも、静かに手を振っていた。
荷馬車が正門を抜ける。
車輪の音が少しずつ遠ざかっていく。
街道の先で、幌が小さくなった。
やがて道の曲がりへ入り、見えなくなった。
中庭には、静けさが戻った。
エルナの手には、小さくて、世界一大きな船が残っている。




